【生誕150年】
夏目漱石と倫敦の769日
『吾輩は猫である』『坊ちゃん』など、数々の名作を残した夏目漱石。日本を代表する文豪のひとりである漱石が、まだ九州の高校教師であった時代に、文部省が派遣する国費留学生の第1号として英国留学したことは、ご存知の方も多いだろう。昨年の没後100年に続き、今年は漱石の生誕150年。今号では、孤独と苦悩に満ちた約2年(769日)におよぶ彼のロンドン生活を中心に、漱石の生涯を追ってみたい。
●征くシリーズ● 取材・執筆/本誌編集部
「望まれぬ子」として育った幼少期
君は自分だけが一人坊(ぼ)っちだ自分の居場所は一体どこなのか――?
と思うかもしれないが、
僕も一人坊(ぼ)っちですよ。
一人坊(ぼ)っちは崇高なものです。
(『野分』)
漱石を語るうえで、欠くことのできない言葉がある。それは「孤独」。漱石は日本で、そして英国で深い孤独を抱えて過ごし、その孤独感が漱石の書く小説に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。
それは生まれ落ちた瞬間からはじまった。漱石は江戸(現在の東京)の牛込から高田馬場一帯を治める名主の夏目家にて、1867年(慶応3年)2月9日に誕生。8人兄弟の末っ子で、「金之助」と名付けられた(漱石はペンネーム)。このとき、すでに漱石の父親は50歳、母親は41歳。当時としては、かなりの高齢出産である。漱石のすぐ上の兄と姉は生後間もなく夭逝しており、年齢を鑑みても夫妻はこれ以上子どもを持つ予定はなかったという。ところが、「想定外」に授かったのが漱石だった。高齢での妊娠・出産という「醜聞」が世間に広まるのを避けようとした両親は、生まれたばかりの漱石を古道具屋へ里子に出した。
しかしその1年後、漱石は夏目家に連れ戻され、今度は同じく名主の塩原家に養子として入る。だが8歳のころに塩原夫妻が離婚し、漱石はまたもや夏目家に戻ることになった。漱石の父親は帰ってきた息子に無関心で、また漱石も自身の生い立ちを知らなかったため、実の両親を「祖父母」だと思っていたという。事実を知ってからも両親と打ち解けることなく、漱石が14歳のときに母親は世を去っている。こうした不遇の幼少時代は、漱石の人格形成に大きな影響を及ぼし、人見知りで不器用、生真面目かつ頑固という「気難し屋」な男をつくり上げていった。
大嫌いで手に取るのもイヤな英語
漱石は学生時代、さぞ成績優秀だったかと思いきや、意外にも落第を経験している。「僕は漢学が好きで随分興味があって、漢籍(漢文で書かれた中国の書籍)は沢山読んだものである。今は英文学などをやっているが、その頃は英語ときたら大嫌いで手に取るのも厭な様な気がした」(談話『落第』)と述べているように、とくに英語が苦手だった。成績にこだわって「ガリ勉」する級友を横目に見ながら、自分は怠けてあまり勉強せずに過ごしていたが、大学予備門(現在の第一高等学校)で腹膜炎を患って進級試験を受けられなくなってしまう。追試を願い出るものの、彼の普段の授業態度を知る教師は、なかなか追試の手続きを行わない。結局、漱石は落第した。ここで特筆すべきは、彼がこの落第で自暴自棄になったり、教師を恨んだりすることなく、心機一転、明るい将来を切り開くための「転換点」としたことだろう。随分負けん気が強かったらしい。勉強の大切さを実感した漱石は、以降ほとんどの科目で首席をとり、大嫌いだった英語は一番の得意科目となった。やがて帝国大学(現在の東京大学)に入学して英文学を専攻、そこでも首席で卒業している。
このまま順風満帆な人生を歩むかに思えたが、そう事は上手く運ばない。当時、英文学科が創設されていたのは帝国大学だけであったため、漱石は英語研究者として貴重な存在だった。大学在学中から東京専門学校(現在の早稲田大学)などで教鞭をとっており、やがて愛媛県松山の中学校に英語教師としての職を得る。しかし、自分は「教育者としての資格に欠け、不向き」だと悩んでいたという。故郷から遠く離れた地方での生活も、常日頃感じていた孤独感をさらに煽ったのではないだろうか。1年後には、より遠い熊本の高校への赴任が決まった。
ロンドンへの道筋 ― 鏡子との出会い
渡英直前の漱石(33歳)と、妻の鏡子。
第1子の流産後にヒステリー気味になった鏡子と、
些細なことですぐ怒る気難し屋の漱石は、
衝突が尽きなかった。
漱石にとって一度目の転換期が「落第」だとしたら、二度目の転換期は「結婚」だったと言えよう。第1子の流産後にヒステリー気味になった鏡子と、
些細なことですぐ怒る気難し屋の漱石は、
衝突が尽きなかった。
松山の中学校で英語教師をしていたとき、ある女性との見合い話が持ち上がった。お相手は貴族院書記官長(現在の参議院事務総長)の娘で、18歳の中根鏡子。漱石より10歳下だった。お嬢様育ちで甘やかされて育った鏡子は、勝気で自己主張をはっきりとする、当時としては型破りな女性だったという。鏡子がのちに語った『漱石の思い出』によると、漱石は見合いの席であっけらかんと大笑いする彼女の姿を見て、「歯並みが悪くてきたないのに、それを(手で)隠そうともせず平気でいるところが大変気に入った」と述べたというから、なかなかひねくれ者である。翌年2人は結婚し、熊本で新婚生活をスタートさせた。
この結婚は、鏡子の父親が勧めたものだったとされている。漱石の将来性を買い、いずれ帝国大学の教授、そして著名な英文学者となることを期待して、娘を嫁がせたのであろう。娘夫婦を東京に呼び戻すためにも、鏡子の父は政界での影響力を使って漱石の就職先を探すが、上手くいかなかったようである。まずは義息子に「箔」をつけさせなければ――。そう考えた結果が、先進国である英国への留学であった。
1900年(明治33年)6月、勤務する熊本の高校からの推薦を受け、第1号となる文部省の国費留学生の一人に漱石が選出され、2年間の英国行きが決定した。選定の背景に、義父の助力がなかったと言い切るのは早計だろう。このとき漱石は33歳。妊娠中の妻と1歳を迎えた長女を日本に残し、遥か遠い異国の地へ旅立つことになった。
「漱石」はペンネーム!
その名前の由来とは?
「漱石」という名は、小説家としてのペンネーム。この「漱石」は、もとは中国の故事「枕石漱流(ちんせきそうりゅう)」に由来する。これは「川の流れで口をすすぎ、石を枕として眠るような、俗世間から離れた隠居生活を送る」という意味だ。
しかし晋時代、孫楚(そそう)という男が「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」と言い間違えてしまう。これだと「石で口をすすぎ、川の流れを枕にする」という意味になるため、友人が間違いを指摘したが、負けず嫌いだった孫楚は誤りを認めず、「石で口をすすぐのは歯を磨くため、川の流れを枕にするのは耳の中を水で洗うためだ」と負け惜しみを言ったという。
この話から、「自分の失敗を認めず、へりくつを並べて言い逃れをすること。負け惜しみの強いこと」を表す「漱石枕流」という故事が新たに誕生。漱石は、この語が自身の性格と合致していると思い、ペンネームに採用したと言われている。
船酔いに苦しんだ長旅
英文学を学び、英語に携わる職に就いていた漱石にとって、英国留学は願ってもない「チャンス」だったはすだ。これまで漱石は渡英を望んでいなかったと考えられてきたが、近年の研究により、義父や熊本の高校の校長らに英国へ行けるよう漱石自ら嘆願していたことが明らかになっている。何はともあれ、文部省より留学の通達が来てから約3ヵ月後の9月8日、漱石は横浜港を出航した。漱石を乗せた船は途中、上海、香港、シンガポール、マレーシア、スリランカなどに立ち寄り、スエズ運河を通過して、10月19日にイタリアのジェノバに到着する。下痢や暑さなどに苦しみ、とくに船酔いはひどく、夕食をとれずにベッドで寝て過ごすなど、つらい船旅だったようだ。翌20日にジェノバ駅からパリへと向かう列車に乗るが、そこで起きた「事件」が興味深い。
漱石は胸を張って馬車を降りたものの、列車の乗り方がわからず駅構内をウロウロ。なんとか乗車したが、今度はフランスの国境通過時に行われる荷物検査で、検査が車内で行われることを知らず、列車を降りて駅のホームで行儀よく待っていたという。気がついて慌てて列車に戻ったときには、すでに自分の座席には知らない外国人が座っていた。英語で文句を言うがフランス語で怒鳴り返され、諦めてパリまで通路に立つことを覚悟したところ、8人席で1つだけ空いている座席を発見。急いでその席を占拠し、何語かでまくし立てる周囲の人々を「今度は負けない」とばかりに無視し、確保した座席を絶対に譲らなかったという。頑固な漱石の人柄がうかがえるエピソードだ。
パリ到着後、船でドーバー海峡を渡り、再び船酔いに悩まされながらロンドンに着いたのは、10月28日の夜。横浜を発ってから50日が経過していた。
不愉快なロンドン生活
倫敦(ロンドン)に住み暮らしたる二年は、留学先の都市は文部省から指定されていなかったため、漱石はどの地に滞在するかまだ決めていなかった。ケンブリッジかオックスフォード、それともエディンバラ、やはりロンドンか…。漱石はまずケンブリッジ大学を見学するが、同大やオックスフォード大は学費が高くて断念。エディンバラは英語のなまりが強かったことから、そのままロンドンで過ごすことにした。
もっとも不愉快の二年なり。
余は英国紳士の間にあって、
狼群に伍する一匹のむく犬のごとく、
あわれなる生活を営みたり。
(『文学論』)
漱石が講義を聴講した、
ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジの外観。
漱石の下宿先から徒歩3分ほどだった。
ロンドンでの2年間は、焦燥と孤独ばかりが募る日々だった。ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジの外観。
漱石の下宿先から徒歩3分ほどだった。
国の代表として来たにもかかわらず、自分と対等に付き合う英国人はいなかった。侮蔑の目を向けられたり、馬鹿にされたりすることも多く、「往来の向こうから、背が低く妙にきたない奴が来たと思ったら自分だった」「外套は今時の仕立でない。顔は黄色い。背は低い。数え来るとあまり得意になれない」と日記に残すなど、卑屈な様子を見せている。
また明治維新以降、西洋文化の表面だけを取り入れて真似する「日本紳士」に羞恥も覚えている。当時の日本は日清戦争の勝利で沸き立ち、新たに大国ロシアを迎え撃とうとしている時期。こうした西洋に追従する日本のあり方に、危うさを感じていたのだろう。かつて強国だったギリシャやローマ帝国が滅びたことを例に挙げて、「日本は真面目になるべきだ。日本人はもっと目を大きく見開かねばならない」と語り、こうした内省と自覚は、漱石がのちに小説を書く上で大きな意味を持つようになっていった。
一方、天下一の大英帝国に期待しすぎて、ガッカリもしている。一流の英文学者に師事し、英語と英文学の研究に邁進しようと考えていたものの、一流の文学者は古代ギリシャ・ローマの古典文学を専攻しており、自国の英文学を研究する者はほとんどいなかったという。師と仰げるような人物と出会えず、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ(UCL)の講義を聴いても「日本の大学の講義とさして変わらない」。このとき教壇に立っていた教授の紹介でシェイクスピア学者の自宅に通い、個人教授を受けたりもしたが、最終的には給付金をやりくりして本を購入し、独学で研究を進めるようになった。
暗闇でひとり涙を流す
結局のところ漱石は、最後までロンドン生活に馴染めなかったと言える。『永日小品』の中で、渡英当初に感じた「違和感」をこう表現している。道を行くものは皆追い越して行く。世界の中心として栄える近代都市の生活スピードに、漱石はついていくことができず、一人だけ取り残されていくような疎外感を受けたに違いない。大柄で堂々とした人々が、男女の別なく忙しなく行き交う中で、誰にも見向きされず追いていかれる自分…。結婚して家庭を築き、薄れかけていた「呪われた孤独感」が再びよみがえってきても不思議ではないだろう。
女でさえ、おくれていない。
腰の後部でスカートを軽くつまんで、
踵(かかと)の高い靴が曲がるかと思うくらい
烈(はげ)しく敷石を鳴らして急いで行く。
(中略)自分はのそのそと歩きながら、
何となくこの都に
居づらい感じがした。
また、元来の内向的な性格も孤独な生活に拍車をかけた。渡英当初は観光や交遊のためによく街へ繰り出していたが、次第にロンドン在住の日本人とも疎遠になっていった。妻の鏡子に「たった一人で気楽でよろしい」と書き送るなど、留学生活後半の1年ほどは、非社交的な人間として通っていたという。
漱石が1年4ヵ月ほど暮らした、
最後の下宿先の近くに建つヴィクトリア朝時代の郵便ポスト。
日本にいる妻や友人たちに宛てた手紙を、
このポストに投函していたのかもしれない。
やがて部屋に閉じこもって、取り憑かれたように買い集めた本を読みあさり、文学研究に没頭するようになる。しかしながら、読めども読めども、異国で異邦人として暮らす彼に「異文学」の本質を理解することはできなかった。日本人である自分が、西洋の文学者の真似事をしたところで、一体何の意味があるのか――? ついに勉強する意味を見失ってしまう。漱石は「何も書くべきことがない」として、文部省への報告書を白紙で提出。周囲に対して異常なほどに疑心暗鬼になり、生活習慣の違いからくるストレスや孤独感もあいまって、精神的にどんどん追い詰められていった。神経症の波は定期的に漱石を襲い、真っ暗な室内で泣いている姿を下宿先の大家に目撃されたりもしている。最後の下宿先の近くに建つヴィクトリア朝時代の郵便ポスト。
日本にいる妻や友人たちに宛てた手紙を、
このポストに投函していたのかもしれない。
留学仲間により「夏目発狂せり」との報が日本に届くと、文部省は漱石に帰国命令を下した。そして1902年(明治35年)12月5日、テムズ河のロイヤル・アルバート・ドックから日本郵船「博多丸」に乗って、漱石は帰国の途に着く。こうして約2年1ヵ月におよぶ英国留学は幕を閉じたのであった。
遅咲きの文壇デビュー
ロンドンからの帰国後、熊本の高校を辞職した漱石は、東京の帝国大学と第一高校で英語講師となった。しかし、慣れない講義と自身の文学論研究の無理がたたり、再び神経衰弱に陥る。とくに帝大では、前任のアイルランド人講師ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を信望する学生たちが留任運動を起こしており、漱石にとってかなり逆風が強い環境だったという。そんな漱石に手を差し伸べたのが、俳人の高浜虚子である。彼は自分が主宰する俳誌『ホトトギス』に、小説を投稿してみることを提案。そして1905年に『吾輩は猫である』が掲載された。漱石は38歳、当時としては遅咲きと言える文壇デビューだった。漱石は講師として教壇に立ちながらも『坊ちゃん』『草枕』のほか、ロンドン生活や英文学から着想を得た『倫敦塔』『幻影の盾』など、次々と名作を世に送り出していく。やがて帝大教授への推薦という栄誉を断り、朝日新聞社へ入社。同社の専属作家としての道を歩みはじめる。この選択は世間から「国辱」と批判されたが、漱石は「仕事の価値は自分で決める」との姿勢を崩さなかったという。
ロンドンで発症した極度の被害妄想を伴う神経症は、終生治ることはなかった。胃潰瘍にも悩まされ、入退院を繰り返しながらも驚異的なスピードで小説を書き続けた。しかしながら胃潰瘍による腹部の大内出血で、1916年(大正5年)12月9日に自宅で死去。享年49であった。
漱石が渡英した1900年当時、日本人は遥か遠い東方に住む異色の人種であり、英国社会で受け入れられるには、まだ早かった。英文学界でエリート街道を走ってきた漱石は、自身のプライドを傷つけられ、価値観を根底から覆されて悩みもがきながらも、英国で真の意味での「自己の価値観」に出会ったのではないだろうか。彼はそれをひたすら小説に託していたのかもしれない。
前後を切断せよ、
妄(みだ)りに過去に執着するなかれ、
いたずらに将来に望を属するなかれ、
満身の力をこめて現在に働け。
(『倫敦消息』)
【特別監修・写真協力】
恒松 郁生 氏(崇城大学教授、草枕交流館館長)
漱石研究家の恒松氏が収集した、漱石の英国留学に関する多数の資料を展示していた「ロンドン漱石記念館」。 クラッパム・コモンにある漱石が最後に下宿した家の真向かいに、1894年にオープン。皇太子殿下や作家の司馬 遼太郎らも訪れたが、昨年9月末、惜しまれながら32年の歴史にピリオドを打った。恒松氏は現在、熊本の崇城大学にて教鞭をふるっている。(2017年1月19日現在)
2年で引越し4回!
漱石が暮らした下宿先を征く
■ 漱石の留学時から115年。近未来的な建物が建ち並ぶシティのように、当時とは大きく姿を変えた場所も多いが、一方でそのままの風景もある。漱石が目にしたものと同じ景色を見ながら、家賃が高いと不満をこぼしたり、人混みにまぎれてパレードを見学したり、公園で自転車に乗る練習をしたりした様子を想像すれば、いま英国で生活する我々とあまり変わらない姿が垣間見え、きっと親近感がわくはず。漱石が暮らした下宿先をたどって、彼の「ロンドン生活」を紹介したい。
下宿① ブルームズベリー <地下鉄>Goodge St 徒歩4分
76 Gower Street, London WC1E 6EG
(1900年10月28日~11月11日まで滞在)
18世紀後半に建てられたジョージアン様式のテラス・ハウス。B&Bで「スタンリー・ホテル」という名称だったとされてきたが、近年の研究で、漱石の宿泊当時は別の名前であったことが明らかになった。講義を聴講していたロンドン大学に近く便利だったものの、家賃が高かったため、新聞広告や日本公使館などですぐに引越し先を探している。渡英当初、漱石はまめにロンドン観光をしており、同所宿泊中にタワーブリッジ、ロンドン塔、大英博物館、ウェストミンスター寺院、ナショナル・ギャラリー、ヴィクトリア&アルバート博物館などのほか、なんと「ロード・メイヤーズ・ショー」のパレードにも一人で足を運んだ。
下宿② ウェスト・ハムステッド <地下鉄>West Hampstead 徒歩5分
85 Priory Road, London NW6 3NL
(1900年11月12日~12月5日まで滞在)
2週間ほどでブルームズベリーを離れ、落ち着いた住宅街に引っ越した漱石。決め手として「赤煉瓦の小じんまりした二階建が気に入った」と語っている。彼の部屋は2階、裏庭に面していた。同じ家に下宿する鉄道技師の長尾半平とお茶を楽しんだり、食事に出かけたりした。ただ、大家一家の複雑な家族構成や家の暗い雰囲気に馴染めず、また家賃も割高であったことから、3週間ほどで再び下宿先を移っている。 滞在中、近所のハムステッド・ヒースをよく散歩していた。 下宿③ カンバーウェル <地下鉄>Oval 徒歩15分
6 Flodden Road, London SE5 9LJ
(1900年12月6日~01年4月24日まで滞在)
家賃は安かったが、建付けが悪いうえに調度品もほとんどなく、住み心地は良くなかった。漱石は「天井にはひびが入っていて不景気。窓の正面に箪笥がある。箪笥というのはもったいない、ペンキ塗の箱だね」と述べている。この建物は前年まで女学校だったが、伝染病が蔓延して閉校。学校を経営していた姉妹が下宿業を始めたばかりだった。この下宿滞在中に、ヴィクトリア女王が崩御。漱石は女王の葬列を見ようとハイドパークへ行ったが、人垣で何も見えず、同行した大家の夫が肩車をしてくれたという。また漱石は、国際輸出入商社に勤める同居人の田中孝太郎と頻繁に観劇や散歩に出かけた。しかし下宿人が次々と引っ越していき、ついに漱石だけに。大家は家を引き払い、漱石は仕方なく新居について行った。
ちなみに、ここは漱石がロンドンで住んだ家で、唯一現存しない建物。4階建てテラス・ハウスだったが1966年に一部取り壊され、現在は別のテラス・ハウス(写真)が新築されている。
下宿④ トゥーティング <National Rail>Tooting 徒歩5分
11 Stella Road, London SW17 9HG
(1901年4月25日~7月19日まで滞在)
大家一家とともに引っ越した先は、前年に建てられたばかりの新築。カンバーウェルの家よりは心地よく感じたものの、漱石は「聞きしに劣るいやな家なり。永くいる気にならず」と語っている。駅前などを散策しても「つまらぬ処」と言うなど、早々に引っ越したかったようだが、のちにグルタミン酸を発見する物理学者・池田菊苗が下宿人になると、その生活は一変。2人で多方面にわたって語り合い、池田の学識と教養に刺激を受けた。
ところが彼はケンジントンに引っ越してしまい、神経症を患いはじめていた漱石は転居を決意。自ら新聞広告を出して下宿先を募った(写真下)。募集に応じる手紙は多数届いたが、見学しても納得のいく部屋はなかった。そんな中、旧友から「自分の住む家の3階に空室が出た」と知らせを受け、漱石はそこに引っ越すことにしている。
漱石の下宿当時の住所は5番地だったが、1908年頃に番地変更が行われ、現在は11番地となっている(ちなみに現在、同宅は販売中!)。
下宿⑤ クラッパム・コモン <地下鉄>Clapham Common 徒歩12分
81 The Chase, London SW4 0NR
(1901年7月20日~02年12月5日まで滞在)
漱石の最後の下宿先は、約2年1ヵ月というロンドン生活の大半(約1年4ヵ月)を過ごした場所。19世紀後半に建てられた4階建てのフラットで、彼の部屋は裏庭に面した3階だった。大家はチャンネル諸島出身の姉妹で、フランス語が堪能。文学の知識も多少あり、細やかな気配りができたといい、神経症に陥って部屋に引きこもる漱石に自転車に乗ってみるよう勧めたりしている。彼は気分のよい日には近所のクラッパム・コモンの公園で、「立ち留まって見る人」「にやにや笑って行く者」がいる中で黙々と自転車乗りを練習、やがてハマースミスまで遠乗りに出かけるまでになった。
2002年、著名人がかつて居住した建物や歴史的な出来事があった場所に設置される記念プレート「ブループラーク」が漱石に授与され、この家の壁に飾られた(写真右)。日本人としては初のことで、いまだブループラークが授与された日本人はほかにいない。