▲写真:アン・ハサウェイズ・コテージ
シェイクスピアが息づく街
ストラトフォード・アポン・エイヴォンを征く
シェイクスピア作品の英語は難しいと思われがちだが、実は、彼が生み出した新しい英語表現の数々こそが、現代英語の基盤をつくったと言われている。
今号では「The Bard of Avon(エイヴォンの大詩人)」と呼ばれる言葉の魔術師、シェイクスピアについて少しおさらいしながら、彼が愛した故郷ストラトフォード・アポン・エイヴォンを訪れてみよう。
●征くシリーズ●取材・執筆・写真/名越 美千代・本誌編集部
週刊ジャーニー(英国ぶら歩き)動画
悲劇、恋愛劇、史劇、喜劇、なんでもござれと傑作を書き残し、「ソネット集」では詩人としての類まれな才能も見せたシェイクスピア。「ハムレット」「マクベス」「ロミオとジュリエット」「ヴェニスの商人」「真夏の夜の夢」…と、シェイクスピア戯曲の数々は没後400年経ってもなお、人々に愛され、世界各地で上演されている。
そのシェイクスピアの故郷であることを、ストラトフォード・アポン・エイヴォンは全力でアピールしている。半日もあれば歩いて一周できるほどのこじんまりとした街ながら、シェイクスピアの生家をはじめ、通った学校、妻の実家、娘夫婦の家など、シェイクスピアゆかりの場所が大切に残されている。彼を連想させる名を掲げた店がいくつも見られるほか、エイヴォン川のほとりには赤煉瓦の壁も鮮やかなロイヤル・シェイクスピア劇場があり、そこではロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)がシェイクスピア作品を中心に公演を行っている。まさにシェイクスピアづくしの街と言えよう。
中世に遡るマーケットタウン
この街がシェイクスピアの名前によって数多くの観光客を引き寄せ、その恩恵にあずかっているのは事実だが、ただ便乗しているわけではない。シェイクスピアへの愛着と尊敬に根ざした強い「地元愛」が、単なる観光地に成り下がることを許していない。美しい田園風景に囲まれたストラトフォード・アポン・エイヴォンは、シェイクスピアの存在がなくとも、英国人に愛されていただろう。白い壁と黒い木材が特徴のチューダー様式の古い建物が残された街並みや、穏やかな水面を白鳥が泳ぐエイヴォン川沿いの散歩道は、英国のクラシックな魅力を今も留めているし、ロンドンに次ぐ大都市・バーミンガムからも、建物や田園風景の美しさで知られるコッツウォルズからも近く、訪れるのにも便利だ。
その歴史を遡れば、7世紀に侵攻してきたサクソン人がストラトフォード・アポン・エイヴォンの村をつくり、それが12世紀後半に街となったとされる。1196年にイングランド王のリチャード1世から当時は許可制だった市場を開く権利を与えられ、以降はマーケットタウンとして栄えた。街に市場が立つようになってからは、鍛冶屋、大工、靴屋、パン屋といった職人たちも集まってくるようになったという。農作物や家畜などが取引されていた名残で、碁盤の目状の通りは「Sheep(羊)」「Rother(牛)」「Bull(雄牛)」「Wood(木)」などの名を冠している。
大作家の謎多き生涯
シェイクスピアが、マーケットタウンとして繁栄していたこの街に誕生したのは、1564年のこと。イングランドは1558年からエリザベス1世の治世となり、国力が高まるとともに芸術や文芸が大きく花開いていく時期であった。シェイクスピアも20数年後にはロンドンに出て、劇作家として英国ルネサンスの黄金期の一翼を担うことになる。シェイクスピアは日記や自伝を残していないため、その生涯については不明な事柄が多いのだが、残された記録から推測できるだけでも、少なからず紆余曲折の人生を歩んだことがわかる。
シェイクスピアの父、ジョン・シェイクスピアは革手袋職人で、革や羊毛の売買でも成功し、町長の地位にまで就いた人物であった。母のメアリー・アーデンも裕福な地主農家の出身で、シェイクスピアは恵まれた環境に生まれたと言える。8人兄弟の3番目で長男にあたるが、当時は子どもの生存率が低く、ペスト(黒死病)の流行もあって、兄弟姉妹のうち成人するまで生き残ったのは5人だけ。シェイクスピアは、実質上の長子として育った。彼の正確な出生日はわからないが、教会に残る洗礼式の記録から逆算して、イングランドの守護聖人、聖ジョージの日でもある4月23日とされている。ちなみに、亡くなったのも奇しくも4月23日で、ストラトフォード・アポン・エイヴォンでは毎年この日にシェイクスピアを讃える祝典が行われている。
逆境にも負けなかった才能
1570年代から父の事業が傾いて家計が困窮したために、シェイクスピアは学業を断念し、2歳下の弟とともに父の仕事を手伝っていたとされる。にもかかわらず、のちに進出したロンドンの演劇界では高等教育を受けた劇作家たちを抑えて名声を勝ち取り、現代英語の基礎を築いたと言われるほどの数々の新しい英語表現を生み出したのだから、彼がどれほどの才能の持ち主だったかは明らかだろう。家の没落後に生まれた2人の弟たちは残念ながら十分な教育が受けられず、とくに10歳下の弟は読み書きすら怪しかったという説もあるが、16歳下の末っ子エドモンドはシェイクスピアの描く物語と華やかなロンドンの暮らしに憧れて故郷を離れ、兄の助けを得てロンドンで俳優として活動していたという。しかしながら、エドモンドは27歳の若さで亡くなってしまい、シェイクスピアが盛大な葬式を出してロンドンのサザークに埋葬したとされている。
10代での早い結婚
ともあれ、2人が結婚した1582年は、アンの実家がある集落の土地は稀にみる豊作だった。収穫を終えた後には祝いの祭りが行われたはずで、ハサウェイ家と親交のあったシェイクピアも出かけて行っただろう。そして、その9ヵ月後に長女スザンナが誕生。2人の結婚は純粋に、若さゆえのロマンスの産物だったのかもしれない。長女誕生から1年も経たないうちに夫妻はハムネットとジュディスという男女の双子も授かったが、悲しいことにハムネットは11歳で亡くなった(ペストが死因と考えられている)。
故郷への愛と遺書の「2番目に良いベッド」
彼がいつからロンドンで演劇活動を始めたのかは不明だが、シェイクスピアに向けて当てこすったとみられる作品が残っていることから、1592年までにはライバルの劇作家から攻撃されるほどにロンドンの演劇界で頭角を現していたようである。ついには、演劇界を牽引する人気劇作家となって、ロンドンのグローブ座劇場も立ち上げ、エリザベス1世やジェームズ1世の寵愛を受けたことは周知の通りだ。しかし、シェイクスピアはロンドンを生活の基盤にしながらも、ストラトフォード・アポン・エイヴォンへ家族に会いに帰っていたと伝えられており、1597年には街で2番目に大きな家「ニュー・プレイス」を購入。一家はここで豊かな生活を送っていた記録が残されている。
シェイクスピアは1612~13年頃にストラトフォード・アポン・エイヴォンへ帰郷し、1616年に52歳で世を去った。その亡骸は、洗礼を受け結婚式も挙げたホーリー・トリニティ教会に埋葬された。ちなみに、シェイクスピア一家は教会の内陣に特別に埋葬されているが、これは彼の劇作家としての名声ゆえではなく、教会に高額な寄付を納めていたおかげという。
シェイクスピアは故郷に戻って以降、著作活動はほとんど行わずに不動産売買で地元の名士となり、蓄財に励んだため、当然ながら遺産の行き先に注目が集まった。遺言では、遺産の多くは長女スザンナ夫婦に残され、次女のジュディスには不祥事を起こした夫(別の女性との婚前交渉疑惑が浮上した)へ遺産が渡らないように配慮した配分がなされた。また、劇団仲間には記念の指輪を買うためのお金が残されている。
興味深いのは、妻には「2番目に良いベッド」しか残していないこと。晩年の夫婦の間に感情のもつれでもあったのかと勘ぐってしまいそうだが、実はこれは、当時の英国の市民法で「妻は夫が遺した財産の3分の1と亡くなるまで住む家」が約束されていたうえに、娘たちも母親の面倒をみるだろうという前提があっての話。ベッドは高価で家族全員分が揃っていることは珍しく、しかも一番良いベッドは通常、客用に使われていた。つまり、夫婦が共用していたのは「2番目に良いベッド」だったわけで、ある意味、この遺言は妻へのロマンチックなメッセージとも受け取れるかもしれない。
残念ながら、シェイクスピアの直系の血筋は絶えてしまったのだが、彼が生み出した作品はこれから先もずっと、生き続けていくことだろう。
ストラトフォード・アポン・エイヴォンを歩こう !
■ストラトフォード・アポン・エイヴォンは、こじんまりした街ながら、シェイクスピアに関連した場所を1日ですべて訪れようとすると、かなりハード。徒歩では行けないスポットもあるので、今回は編集部が歩いたルートを紹介しよう。
ロンドン・マリルボン駅から約2時間で、ストラトフォード・アポン・エイヴォン駅に到着。ここから街の中心部までは徒歩10分ほど。まずはエイヴォン川のそばにあるツーリスト・インフォメーション()で、街歩き用の地図(無料)をもらう。最初に訪れたのは、「シェイクスピアズ・バースプレイス」(、写真左)。シェイクスピアが生まれ育ち、結婚後も数年ほど住んだ家だ。もし時間が極めて限られている場合も、ここだけは訪れておきたい。家の一部は父親・ジョンの革手袋取引に使われていたそうで、当時の服装をまとったガイドが革手袋作りを説明してくれる(同右下)。16世紀に使われていた家具や小物、そのレプリカなどを使い、10歳のシェイクスピアが両親や兄弟と暮らしていた頃を再現している。
ハイストリートへ向かっていると、左側に現れるのが地元で人気の英国風カフェ「ホブソンズ」()。サンドイッチやキッシュ、パイのほか、ケーキやクリームたっぷりのスコーンなどが揃っており、ランチにもお茶にも便利。持ち帰り用のクリームティー・セット(4・95ポンド)もあるので、エイヴォン川沿いでのんびり食すのもいいかも。
ハイストリートに建つ「ハーヴァード・ハウス」()は、1596年に裕福な商人が建てたもの。米ハーヴァード大学の創設に貢献したジョン・ハーヴァードの母親が住んでいた由縁から、1909年に米国人大富豪が購入してハーヴァード大学に寄付したとか。シェイクスピアとは関係ないが、時間に余裕があるなら行っておきたい。
チャペル・ストリートとイーリー・ストリートが交差する角にたたずむ、赤煉瓦とテラコッタでできたHSBC銀行をふと見上げたら、正面玄関の上部に金色に輝くシェイクスピアのモザイクを発見()。19世紀に制作された、「ヴェニスの商人」「リア王」「ハムレット」などのシーンが描かれたレリーフも飾られており、物語をいくつ見つけられるか試すのも面白そう。
「ニュー・プレイス&ナッシュズ・ハウス」()は、現在改装のために閉鎖中(今年7月に再オープン予定)。ニュー・プレイスは1597年に劇作家として大成功を収めたシェイクスピアが購入した家で、当時、街で2番目に大きなものだった。シェイクスピアの晩年の作品「テンペスト」はここで書かれたと言われており、彼が亡くなったのもこの家。家屋は1759年に壊されたが、土台と庭は残されている。また、隣のナッシュズ・ハウスにはシェイクスピアの孫娘、エリザベスとその最初の夫が住んでいた。
シェイクスピアの遺骨は盗まれていた?
これまでにも、シェイクスピアの頭蓋骨盗難説はしばしば、ささやかれてきた。例えば、1879年に発行された雑誌に掲載された小説には、1794年に教会からシェイクスピアの頭蓋骨を盗むくだりが出てくる。17~18世紀にかけて墓荒らしが横行し、とくに当時は有名人の頭蓋骨を欲しがる人も多かったとされている。シェイクスピアの墓には「この石をそのままにするものに祝福あれ、我が骨を動かすものに災いあれ」という墓銘が刻まれている。もしかしたらシェイクスピアは、埋葬後に自分の頭蓋骨が狙われることを心配していたのだろうか。
もしシェイクスピアの頭蓋骨が盗まれたのなら、今は一体どこにあるのか。番組では、謎の頭蓋骨が保管されている教会に出向いて調査したが、残念ながら女性のものだと判明し、空振りに終わった。
ギルド教会に隣接するのが、シェイクスピアも通ったとされる「キング・エドワード6世スクール」(、同右)とギルドホール。チャーチ・ストリートに沿ってチューダー様式の建物の壁が長く伸びる様子は圧巻だ。普段は構内を見学できないが、毎年4月に行われるシェイクスピアの誕生記念祝典の日には特別公開され、生徒たちが案内してくれる(有料)。
オールド・タウンという道を進んでいくと、左側に見えてくるのが「ホールズ・クロフト」()。シェイクスピアの長女スザンナ夫婦が住んでいた家だ。遺産の多くを継いだ2人は裕福だったようで、内部はかなり広々。
ついに、街の端にある「ホーリー・トリニティ教会」()に到着。教会奥の内陣に、シェイクスピアと妻のアン、長女のスザンナらが眠る(内陣への入場は有料)。生後間もないシェイクスピアが洗礼を受けた教会でもあり、当時使われていた洗礼台やシェイクスピアの洗礼・埋葬の記録のコピーも展示されている。教会の内陣に向かって左側の壁に据えられたシェイクスピアの胸像(同左頁)は残された家族や友人が1623年につくらせたもので、シェイクスピア本人の姿にかなり近い像と言えそう。右手の羽ペンは、記念祝典で毎年交換されるという。
一息つきたい場合にオススメしたいのが、2つの名前で知られるエイヴォン川沿いのパブ「ザ・ダーティ・ダック(ザ・ブラック・スワン)」()。英国で唯一、2つの名称で認可を受けているパブだとか。ロイヤル・シェイクスピア劇場の近くにあるため、舞台に出演した俳優のポートレート写真や自筆サインが壁一面に飾られている。ジュディ・デンチなど、知っているスターの顔が見つかるはず。
4月23日はシェイクスピア生誕祭!
目玉となるパレードでは、「シェイクスピア・カラー」とされる金と黒色の風船が一斉に空へ放たれた後、世界中の劇場や文学界から招待された人々、地元の名士やシェイクスピアの母校とされるキング・エドワード6世スクールの生徒を含む子供たち、シェイクスピアにちなんだ仮装をした人々が、手に花を持って、軍楽隊の演奏とともに街中を行進(写真左)。パレードの最終地点はホーリー・トリニティ教会で、シェイクスピアの墓は参列者が持ってきた花で飾られ(同右頁のコラム)、胸像が持つ羽ペン(シェイクスピアの業績の象徴とされる)はキング・エドワード6世スクールの代表生徒が運ぶ新しいものと交換される。
ライブミュージックや詩の朗読、野外劇、大道芸などのほか、夜はバンクロフト・ガーデンズで花火もあり。詳細はウェブサイト(www.shakespearescelebrations.com)にて。
ツーリスト・インフォメーションからバンクロフト・ガーデンズのほうへ道を渡ったところに、こちらを見下ろすように建つのがシェイクスピアの銅像(、同右下の奥)。その周りをシェイクスピアが生み出した4人のキャラクター、ハムレット(同右の手前)、フォルスタッフ、ハル王子、マクベス夫人の像が囲む。これらの像は、哲学、喜劇、歴史、悲劇をそれぞれ表しているという。
日暮れまでにもう一ヵ所足を運ぶなら、シェイクスピアの妻が育った家「アン・ハサウェイズ・コテージ」()がいいだろう。チューダー様式の茅葺き屋根の家は、街の中心部の建物とは異なる趣がある。手入れの行き届いた広い庭も見所。シェイクスピアが遺言でわざわざアンに残したという「2番目に良いベッド」は、ここの2階に展示されている(1番良いベッドもあり)。
シェイクスピアが生まれ育ち、生涯を終えた、ストラトフォード・アポン・エイヴォン。没後400年を迎える今年、ぜひ訪れてみてはいかがだろうか。
シティMAP
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シェイクスピアズ・バースプレイス
Shakespeare's Birthplace
シェイクスピアの生涯をたどることができる「シェイクスピア・センター」も併設。生家を見学するには、センターからの入場となる。
ホブソンズ
Hobsons Patisseries
ハーヴァード・ハウス
Harvard House
HSBC銀行
ニュー・プレイス&ナッシュズ・ハウス
New Place & Nash's House
ギルド教会
Guild Chapel
隣に建つキング・エドワード6世スクールと扉で繋がっている。シェイクスピアも学生時代、ここで祈りを捧げていたのかも。
キング・エドワード6世スクール&ギルドホール
King Edward VI School & Guild Hall
ホールズ・クロフト
Hall’s Croft
長女スザンナは医者と結婚。医者の家らしく、調薬器具の並んだ診療室やハーブガーデンがある。
ホーリー・トリニティ教会
Holy Trinity Church
ザ・ダーティ・ダック(ザ・ブラック・スワン)
The Dirty Duck(The Black Swan)
ロイヤル・シェイクスピア劇場
Royal Shakespeare Theatre
シェイクスピアの銅像
The Gower Memorial
アン・ハサウェイズ・コテージ
Anne Hathaway’s Cottage
街の中心部から徒歩で約30分。シェイクスピアズ・バースプレイスほかで入手できる地図「Walk the Anne Hatha-way」を片手に、フットパスを行くのがおすすめ。向かいにはカフェもあり。
メアリー・アーデンズ・チューダー・ファーム
Mary Arden’s Tudor Farm
シェイクスピアの母の実家。街からは少し離れているので、タクシーに乗るか、ストラトフォード・アポン・エイヴォンの観光ポイントを巡回するバス「City Sightseeing Stratford upon Avon」を使うと便利。
Travel Information
※2016年4月19日現在
アクセス
【車】ロンドンからオックスフォード方面へ北上し、M40を進む。ジャンクション15で降りて、A46をストラトフォード方面に走る。所要約2時間。【電車】ロンドン・マリルボン駅からストラトフォード・アポン・エイヴォン駅まで、所要約2時間。
【コーチ】ロンドン・ヴィクトリア・コーチ・ステーションからストラトフォード・アポン・エイヴォンまで、所要約3時間