2010年12月16日 No.656 |
取材・執筆・写真/本誌編集部 |
ニューフォレストで過ごすやわらかな時間 ハンプシャー、ドーセット、ウィルトシャーの |
千年の歴史を誇る「新しい」森
遠き古代の昔から、人類は狩猟を行ってきた。 初めは、ただ生き残るために。農耕という行為により食料を確保することができるようになるまで、日々の糧を得るには、休むことなくひたすら狩りに出るしか選択肢はなかったのだ。やがて文明が生まれ、農耕に支えられた定住生活が始まっても、人々は狩りを止めなかった。貴重なたんぱく源を確保するため、そして、他部族、あるいは他国という敵と戦う際の技術を磨くため、鳥獣を追って馬を駆り、弓矢を放った。いや、あるいは、人間が備え持つ戦闘本能からくる欲求を満たすためだったと、いうべきなのかもしれない。様々な文明が残した、壁やつぼなどに描かれた絵画の中に、狩猟に対する人々のほとばしらんばかりの情熱を見いだすのは筆者だけではなかろう。 キリストが現れて紀元前の時代が終わりを告げ、文明はさらに進んだ。国家という概念もより広く浸透し、ヨーロッパでは決してスタートが早かったとはいえないグレート・ブリテン島の歴史にも、統一国家に近いものが登場するようになる。1066年にはヘイスティングズの戦いが勃発、フランス北部から侵攻してきたノルマンディ公ウィリアムがウィリアム1世として即位。同王は現在までつながる英王室の祖となり、イングランドの主要地域はその支配下に入った。
支配する者と、支配される者が明確に分かれるようになると、狩猟の目的も二極化。支配される者は主として食料を得るため、これに対して支配する者は趣味として、鳥獣を追い求めた。 ウィリアム1世も例外ではなく、狩猟を愛した。もちろん、趣味としてである。 彼は1079年、現在のサウサンプトンの南西から海岸部分に向かって広がるエリアを王室領に定め、自然や鳥獣を守る規則を設けて、王本人と、王が認めた貴族や従者以外がここで狩猟をすることを固く禁じた。 この地を「ニューフォレスト」と名づけたのも、ウィリアム1世だったとされている。当時は「新しい」森だったのだろう。 ウィリアム1世は、この原生林を含む広大な場所の保護を願い、ニューフォレストを管理するための組織を置いた。現在でも「Verderers」と呼ばれる管理官たちが森林の運営にあたっている。彼らの仕事ぶりはなかなか優秀と見受けられる。それが証拠に、東京都の約4分の1という広さのニューフォレスト内を走る幾つかの舗装道路の両脇には、原野とみまがうような景観が広がる。この千年近い時間の中で、ウィリアム1世が始めたシステムが今も機能し、こうして自然が守られているのを目の当たりにすると感嘆せずにはいられない。
シトー派修道院として建てられたビューリー・アビー |
1888年から1925年にかけてのモンタギュー・アームズ・ホテルの様子 |
王侯貴族も認めた「ハンサム」な場所
厳しく自然保護が行われているニューフォレストながら、人の居住を禁止しているわけではない。 先ほど述べたようにニューフォレスト内を複数の舗装道路が走っており、それらが交差するポイントを中心に村や小さな町が点在する。取材班が今回向かったビューリー(Beaulieu)も、そうした小さな町のひとつだ。 ここ2週間ほど上空に居座っている寒波が英国を襲うしばらく前のこと、まだ陽光が晩秋の輝きを残していたある日、我々はロンドンからビューリーへと車を走らせた。 今回の目的地まではロンドン中心部から距離にして約90マイル(約141キロ)、車で2時間弱というところ。M3からM27、M271を経て、A35、A326を進み、さらにニューフォレスト内のB3054に入ると、あたりの様相が一変する。道路沿いに柵やガードレールはなく、草をはんでいた馬が突然、道路わきのすぐまぎわまで歩み寄ってきたり、大胆な馬になると道路上にはみだしてきたりする。くれぐれも馬たちと衝突事故を起こさないよう、左右に気を配りながら、スピードを抑えて運転していただきたい。 標識に従ってさらに車を進めると、ほどなく、目指すビューリーの町に到着した。 この町の歴史は古い。 もともと、王室用のハンティング・ロッジ(狩猟時専用の宿泊所)が建てられていた所とされる。このロッジ、今は残っていないものの美しい建物だったらしく、「Beau」(ハンサムな)「Lieu」(所)と呼ばれていたという。1204年には、同ロッジは廃墟となってしまっていたが、「失地王」こと時のイングランド王、ジョンが、一時険悪な関係になってしまったシトー派修道士たちとの和解のしるしとして、このロッジ跡に修道院(Abbey)を建てることを許可したという記録が残っている。 恐らく修道院建築に携わった人々が住み始めたのが町の始まりだったと考えられているが、現存する民家が建てられたのは17世紀に入ってから。我々が訪れようとしていたモンタギュー・アームズ・ホテルは、それよりやや古い時代、16世紀には既に「イン(旅籠)」として営業を開始していたという。モンタギュー・アームズ・ホテルだけでなく、複数のインやビール醸造所があったことも記録に見られ、にぎわっていたことがうかがえる。 こうしたインに泊まり、地ビールで乾杯としゃれこんでいたのは、材木業者や材木の買い付け商、あるいはビューリーで開かれる市場のために集まった人々だった。1607年からは年に一度、大きな市がたつとともに、週ごとに小規模な市も定期的に行われていた。1809年までは毎年、家畜の競り市も開かれるなど、小さな町とはいえ、ビューリーは辺り一帯では人々の暮らしの要ともいえる存在だったようだ。 さて、いましがた、ビューリーには材木業者や材木の買い付け商が集まってきたと述べたが、これはビューリーの中心を流れるビューリー川を、南に2マイル(約3・2キロ)下ったところに「バックラーズ・ハード(Buckler's Hard)」と呼ばれる地があることと深く関係している。「ハード」とは「船揚げ場」のことで、ここではネルソン提督が艦長を務めたこともある「アガメムノン(Agamemnon)」号を含む、数々の名船が建造された。バックラーズ・ハードには海洋博物館など、当時の造船の様子を伝える観光スポットがあるので、興味のある方はぜひ訪れていただきたいものだが、ニューフォレストのオーク(樫)といえば、船の優れた建材として広く知られていたのである。 モンタギュー・アームズ・ホテルが、かつては「The Ship」と呼ばれていたのも納得がいく。このインはさらに「The eorge」(その頃、英国は「ジョージ王朝時代」を迎えていた)と名前を変え、1742年からいよいよ「モンタギュー・アームズ」を名乗るようになる。