献立に困ったらCook Buzz
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【参考文献】「The Wellington Arch and The Marble Arch」English Heritage、 Julius Bryant「Apsley House: The Wellington Collection」ほか
今からちょうど200年前に「ワーテルローの戦い」でフランス軍を破り、皇帝ナポレオンをセント・ヘレナ島流刑に追い込んだ英国軍人がいた。初代ウェリントン公(1769~1852年)である。今回は、同公のロンドン公邸アプスリー・ハウスを訪れ、「鉄の公爵」の異名を持ちながら、実は戦争嫌いだったというウェリントンの素顔に迫ってみたい。

●征くシリーズ●取材・執筆/佐々木敦子・ 本誌編集部

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163年ぶりの記念晩餐会

2015年6月18日、セント・ポール大聖堂で「ワーテルローの戦い」200周年を祝う記念式典が開かれたその晩、窓外にハイド・パークを臨む邸宅アプスリー・ハウスでは、食器のふれあう音や賑やかな笑い声が響いた。当主である第9代ウェリントン公爵によって、記念大晩餐会が開かれたのだ。公爵は昨年暮れに父親の第8代ウェリントン公爵を亡くし、「ウェリントン公」の名を継いだばかり。つまり公爵としての最初の仕事が、奇しくも先祖にあたる初代ウェリントン公爵、アーサー・ウェルズリーの偉大な業績を祝うものとなったのだ。
この晩餐会が開かれたのは、初代ウェリントン公が勝利を祝うために作らせた「ワーテルローの間」。ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」への憧れを形にしたという華麗なフランス様式で、84人が着席可能のテーブルが置ける、長さ28メートルの部屋だ。1820年以来、初代ウェリントン公は毎年ここで記念晩餐会を開催し、それは公の死去する1852年まで続けられた。普段は一般公開され見学客で賑わうものの、今回の晩餐会で「ワーテルローの間」は、まさに163年ぶりに本来の姿に戻るために息を吹き返した。
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この記念晩餐会で饗されたのは、唯一現存しているという1839年度のメニューを忠実に再現した、全18コースだという。使われた銀食器の数々は、初代ウェリントン公が当時のポルトガル王室から贈られたもので、ポルトガル銀貨を溶解して作られている。しかし、これはほんの一例に過ぎない。ウェリントン公はフランス皇帝ナポレオンの暴君ぶりに悩んでいた欧州各国の王室から、感謝を表す大量の贈答品を受け取っており、現在私たちが見学できるアプスリー・ハウスにはそうした絵画や調度品が溢れ、その数と豪華さには圧倒されるばかり。ウェリントン公の成し遂げたことが、いかに偉業とみなされたか想像できる。
また、200年前に戦場となったベルギーが、ワーテルローの戦いを記念する2ユーロ硬貨を発行したいと欧州各国に提案したが、即座にフランスから反対されたという逸話もあり、欧州各国にとって、ワーテルローの戦いはまだそう記憶に遠い出来事ではないことを改めて示した。その一方で、当の英国民の意識はかなり低いようだ。
国立軍事博物館(National Army Museum)が、2070人の英国人にワーテルローの戦いに関するアンケートを行ったところ、73%の英国人が、「よく知らない」もしくは「全く知らない」と回答したという。フランスが勝ったと思い込んでいる人や、ウィンストン・チャーチル首相が参加したと答えた人、さらには、児童文学「ハリー・ポッター」シリーズの中に出てくる逸話ではないかとの答えすらあったというから驚きだ。だが、笑ってばかリもいられない。アプスリー・ハウスをより楽しく見学するためにも、ワーテルローの戦いで英軍を勝利に導いた、初代ウェリントン公の生涯について、おさらいしてみよう。

83人のゲストを招いて勝利を祝った晩餐会を描いた「ワーテルローの晩餐」(1836年、トーマス・サルター作、© Stratfield Saye Preservation Trust)

当時の様子が再現されたアプスリー・ハウス「ワーテルローの間」

ワーテルローの戦い

ワーテルローの戦いは1815年6月18日に、英・オランダ連合軍およびプロイセン軍が、流刑先のエルバ島から脱出し再び皇帝宣言をしたナポレオンの率いるフランス軍を破った戦いで、ナポレオン最後の戦いとしても知られる。戦場となったワーテルローはベルギーのブリュッセル南方にある地域で、「ワーテルロー」は「Waterloo」のベルギー/フランス語読み。英語では「Battle of Waterloo(バトル・オブ・ウォータールー)」と呼ぶ。
エルバ島からパリへ戻ったナポレオンに対し、列強国はウィーン会議で彼を無法者であると宣告。ナポレオンを倒すべく動員を開始する。ナポレオンは英蘭連合軍とプロイセン軍がまだ合流しないうちに個別攻撃を計画し、12万の兵を率いてベルギーへ向かう。ベルギーに駐留していたのはウェリントン公率いる英蘭連合軍の11万で、両者は一進一退の戦いを繰り広げる。戦が中盤にさしかかった頃、同盟のプロイセン軍4万8000が到着。戦況がウェリントン公側に一気に有利に傾く。
ナポレオンは最後にかつて「無敵」と謳われた親衛隊を送り込むが、連合軍近衛部隊の射撃攻撃の前に敗北した。これにより、連合国とフランスとの間でパリ条約が締結され、ルイ18世が復位。ナポレオンはセント・ヘレナ島に流されて1821年5月5日に死去した。

アイルランド貴族の地味な四男坊

ウェリントン公は1769年、アイルランドの首都ダブリンにて、アイルランド貴族モーニントン伯爵家の四男坊アーサー・ウェズリー(Arthur Wesley、のちにウェルズリーWellesleyと改名)として生まれる。ちなみにこの年、ジェームズ・ワットによって改良化された蒸気機関が発表されるなど、英国は産業革命まっただなか。またフランスでも、コルシカ島でナポレオン・ボナパルトが誕生し、フランス革命勃発まであと20年を待つばかリという時代だった。
四男坊アーサーは、父のギャレットが死去した1781年、兄たち同様、12歳で英国の名門イートン校に進学するが、優秀な兄とは異なる凡庸な成績と控えめな性格で、母親のアンを心配させたという。3年ほど学んだ後、母親の勧めでアーサーはイートン校を中退し、さほど規律の厳しくないフランスの陸軍士官学校へ入学する。母親は彼が「兵士になら、なれるかもしれない」「フランス語を勉強しておけば、役に立つかもしれない」と考えたのだ。まさかそんな息子が将来、欧州中が恐れる皇帝ナポレオンを打ち負かし、フランスの国政を変えるきっかけを作るとは、夢にも思わなかっただろう。アーサー自身も、大志を抱いていた様子はなく、バイオリン演奏の好きないたってマイペースな少年だったようだ。ウェリントン公は後年「フランス好きfrancophile」と呼ばれるが、彼のフランス趣味と流暢なフランス語は、この時に培われたものだろう。革命前のフランス貴族文化に直接触れたことは、後のウェリントン公の嗜好に少なからず影響していると思われる。
士官学校で軍人としての類まれな才能を開花させ始めたアーサーは、17歳で英国に戻り、英国陸軍・第73連隊に入隊。軍人としてのキャリアを積みながら、21歳にはアイルランド議員の座も獲得し、政界にも足を踏み入れる。
最初の転機が訪れたのは1797年。英国の支配下にあったインドへ、治安警備のために大佐として連隊を率いて赴任することになったのだった。当時のインド提督は兄のリチャードで、積極的な領地拡大政策を打ち出していたのである。28歳になっていたアーサーは、厳しい環境下での任務で大きく成長することになる。一方、この頃ナポレオンは4万の兵を率いてイタリア北部でオーストリア軍と戦い、当時オーストリア領だったイタリア各都市を解放している。2人がベルギーのワーテルローで対決するには、まだ少し時間があった。

大器晩成型のアーサーの覚醒

約8年のインド滞在を終えたアーサーは、1805年に英国に帰国。インドでの指揮官としての活躍により、ナイトの爵位を贈られるまでに出世した。しかしその8年の間に、ナポレオンはすでに皇帝の座にのぼりつめ、欧州に君臨。英国とスウェーデンをのぞく欧州大陸は、フランス帝国の支配下にあった。アーサーが英国に戻ったのは、ナポレオンが英国征服を目指してスペイン沖で仕掛けた「トラファルガーの海戦」の年でもある。これを指揮したネルソン提督はフランス・スペイン連合艦隊を破り、ナポレオンによる制海権獲得・英本土侵攻を阻止。だが提督自身は戦闘中に47歳の若さで敵弾に倒れたのは、英国民にもよく知られるところだ。
さて、アーサーは帰国後、ダブリン出身の裕福なロングフォード男爵家の娘キティ・パクナムと結婚する。実はアーサーは23歳の時に一度、この4歳年下のキティに結婚を申し込んでいるが、伯爵家の子息ではあるものの爵位を持たない軍人で、議員としても駆け出しという当時のアーサーの肩書きがあまりにも凡庸すぎ、「出世の可能性なし」とパクナム家に判断されて破談となっていた。その時アーサーはお気に入りのバイオリンを叩き壊すなどして大荒れだったらしいが、満を持しての再挑戦にパクナム家はOKを出したのだった。気難しくて浪費癖があるなど「悪妻」評が多いキティだが、彼女と結婚した後、なにかと地味だったアーサーの人生に再び転機が訪れる。

妻のキティ(キャサリン)・パクナムと、26歳の頃のアーサー(のちのウェリントン公)。
1807年、38歳でアイルランド担当大臣に就任したアーサーは、その一方で軍人としてもその力量を発揮し始める。コペンハーゲンへ遠征して、ナポレオンと手を組むデンマーク軍を撃破。1813年には英軍がスペイン・ポルトガル軍と連合を組み、イベリア半島のフランス軍を破った「ビトリアの戦い」を指揮している。この戦いには5年もの長い準備期間を費やし、ナポレオンの皇帝即位以来、初めて陸上戦でフランス軍を破った戦いとして、多くの人々に感銘を与えた。ベートーベンが『ウェリントンの勝利』という交響曲(別名『戦争交響曲』作品91)を作曲しているほどだ。
翌年、モスクワ侵攻にも失敗したナポレオンは、とうとう退位に追い込まれる。こうした功績が認められ、アーサーは元帥の地位と「ウェリントン公爵」の爵位を受ける。英国大使としてパリのテュイルリー宮勤務も決まり、他国の大使たちとともに、ナポレオン失脚後の混乱したフランスを立て直すことになった。今やウェリントン公の評判は欧州中に広がっており、フランス語堪能、もの静かでスマートなその姿は、多数の女性を魅了したという。また、あえて暗い色合いの軍服を着用し、カツラが正装の時代には珍しい短髪。そのシャープなセンスに、兵士たちはウェリントン公を「Beau」(洒落者)と呼んだ。

ナポレオンと宿命の対決大器

奇しくも、ウェリントン公と同年生まれだったナポレオン。
ところが、翌年の1815年に衝撃のニュースが飛び込んで来る。イタリアのエルバ島に追放されていたナポレオンが、脱出してパリへ向かったというのだ。間もなく、王政復古に不満をもつフランス国民の支持を受けたナポレオンは、皇帝として復活。英国をはじめ諸国連合軍とプロイセン軍は、皇帝を打倒すべく共同宣言を発令し、ウェリントン公は連合軍の司令官として、戦場となるベルギーに向かう。そしてとうとう6月18 日、天下分け目の「ワーテルローの戦い」が勃発した(上記コラム参照)。
ウェリントン公は防衛戦に長け、常に現状を確実に把握し、細かい点まであらゆる可能性を予期して、綿密な作戦を遂行。一方のナポレオンは天才肌で、カリスマ的な魅力で軍の能力を引き出すのだが、栄光を極めた頃のような冴えはすでになく、がむしゃらな戦略で兵力を消耗した。

アプスリー・ハウスの「ワーテルローの間」の窓には、鏡付きの引き戸が取り付けられている。夜になると戸が引かれ、窓はすべて鏡に変身。キャンドルの炎やシャンデリアの光が反映し、室内はさらに煌びやかな雰囲気になった。
結果はウェリントン公率いる連合軍の勝利で、ナポレオンの百日天下は終った。ウェリントン公がこの戦いで見せた卓越した指揮には誰もが絶賛の声を寄せ、同公は英雄として英国に凱旋した。だが、彼はこの戦争で多くの部下や同僚を亡くし、「これほど多くの犠牲を払って戦いに勝った時ほど悲しいことはない」と戦死者のリストを見て涙を流したという。ウェリントン公が常に綿密な準備で戦いに臨んだのは、勝利はもとより、いかに戦死者を出さないようにするかを念頭に置いたからだといわれる。
実は戦争嫌いだったウェリントン公。軍人としてのキャリアは46歳で終え、残りの40年近い人生を政治家として過ごした。宿敵ナポレオンは運命の対決での敗北後、英領セント・ヘレナ島に送られ、1821年に51歳で死去している。アプスリー・ハウスには意外なほどにナポレオンの彫像や肖像画が多いが、ウェリントン公はナポレオンの像を前に沈思することもあったという。英雄扱いを嫌い、常に謙虚であろうと努めたウェリントン公。アプスリー・ハウスの豪華な内装は、戦友や部下をもてなすための装飾でしかなかったのかもしれない。1852年9月14 日、ウェリントン公はケントにあるお気に入りの居城、ウォルマー・キャッスル内の質素な寝室でひっそり息を引き取る。83歳だった。

黄色の壁紙が目に鮮やかな、アプスリー・ハウスのピカデリー・ドローイング・ルーム。

ウェリントン公が最期を迎えた ウォルマー・キャッスル

イングランド南東のドーバーから程近い海辺に建つ、ウォルマー・キャッスル。ヘンリー8世の時代に、スペインの侵攻を防ぐために建造された要塞のひとつである。
ウェリントン公は首相を務めていた1829年、イングランド南東部の海防を担う5港(ロムニー、サンドウィッチ、ハイズ、ヘイスティングズ、ドーバー)をまとめる「五港長官」に任命される。彼は死去するまでその任に就いていたが、長官の居城であるウォルマー・キャッスルをことのほか気に入り、毎年秋にこの地を訪れては、「もっとも愛すべき海辺の住居」、城を取り囲む広大な庭園や森を「世界一素晴らしい」と賞賛し、のんびりと余暇を過ごしていたという。
1852年9月14日、ウェリントン公は同城の寝室にて83歳の生涯を閉じた。シングル・ベッドから離れ、隣にある肘掛け椅子に腰を下ろし、そのまま逝ったという。現在もその寝室=写真上=や書斎は、家具の配置など当時のままに残されている。

Walmer Castle

Kingsdown Road, Walmer, Kent CT14 7LJ
Tel: 01304 364288

www.english-heritage.org.uk/visit/places/walmer-castle-and-gardens

開館時間:10:00~17:00(11月〜2月中旬は16:00まで、土日のみ)
入場料:£9.70
アクセス:
【自動車】ロンドン中心部からA2を経てM2へ入りDeal方面へ、またはA20からM20へ入ってジャンクション13で下り、その後A258に進む。所要約2時間半。
【電車】ロンドン・セント・パンクラス駅、あるいはチャリング・クロス駅から約1時間半。

ウェリントン・ブーツ誕生秘話

長靴でありながら、おしゃれアイテムとしても定着しているレイン・ブーツ。この誕生のきっかけとなるアイディアを出したのが、ウェリントン公その人だった。
当時、兵士用のブーツは長さが腿の上まであったが、ウェリントン公はこれを、乗馬時にも足にフィットするように膝下までにし、さらに格式張らないパーティーなどに、そのまま履いて行けるようなスマートさも兼ね備えたものにしたい、と靴店(ロンドンの「Hoby of St James Street」)に依頼した。こうして出来上がったのが子牛の皮で作られた膝丈のブーツだった。このブーツは実用性が認められただけでなく、ファッション・アイテムとしても人気が高まり、当時のダンディたちが競って身につけたという。
ちなみに、ウェリントン公が履いていたブーツ=写真=は、現在ウェリントン・アーチ内の博物館でみることができる(通常はウォルマー・キャッスルに展示)。やがてゴムが発明され、ゴム製のブーツが誕生するが、英国では今も「ウェリントン・ブーツ」(略して『ウェリー』)と呼ぶ。ゴム長靴の本格生産が始まったのは第一次世界大戦時だが、これは水の溜まった塹壕でも快適に活動できるようにということから。軍の注文を受けたのは、現在も圧倒的な人気を誇る「Hunter」社だ。

アプスリー・ハウス 館内紹介

■アプスリー・ハウスが建つのは、18世紀ロンドンの「入口」にあたる地であったため、長らく「ロンドン1番地(No 1, London)」というニックネームで呼ばれてきた。
同館のオリジナルは1778年、アプスリー男爵の依頼で建築家ロバート・アダムによって建てられ、以来、男爵の名を取ってアプスリー・ハウスとされている。1808年にウェリントン公の兄にあたるウェルズリー侯爵リチャードが買い取り、1817年にはウェリントン公の公邸となる。その際、建築家ベンジャミン・ディーン・ワイアットによる大規模な改築が行われ、今に至る。代々ウェリントン公爵家の邸宅であったが、1947年、第7代公爵によってその大部分が国に寄贈された。1952年から一般公開されているが、公爵家は今も1階の北側部分(非公開)を私邸として利用している。
❶ エントランス・ホール
ウェリントン公によって改築された際、新たにできた部分。元の入口となるドアも残されている。
❷ インナー・ホール
ロバート・アダムがエントランス・ホールとして建築した部分。大理石の胸像が各所に置かれている。モザイクのタイルやラジエーター・カバーは1860年代の物。
❸ 吹き抜け階段
螺旋階段の中心に置かれている巨大な大理石彫像=写真=は、軍神マルスになぞらえたナポレオン像で、第一執政時にナポレオン自身が制作を注文したもの。イタリアの彫刻家アントニオ・カノーヴァ作。
のちに皇帝に即位したナポレオンは、自分の体型とあまりにかけ離れた神々しい像を恥ずかしく思い、ルーヴル美術館の倉庫にしまいこんだという。それをワーテルローの戦いの翌年に英国政府が購入し、ウェリントン公にプレゼントした。この贈物にウェリントン公は随分驚いただろうと想像できる。ちなみに、この彫像に向き合うドアは、現公爵家の私邸へ繋がっているので、開けないように!
❹ ピカデリー・ドローイング・ルーム
明るい雰囲気のドローイング・ルーム(居間)。ロバート・アダム建築の最良の部分を残しながら、ウェリントン公の好みに改装されている。現在、同館所蔵のイタリア・ルネサンス画家ティツィアーノの特別展が開かれている(10月末まで)。
❺ ポルティコ・ドローイング・ルーム
暖炉にアモールとプシュケが描かれるなど、ロマンチックな雰囲気に満ちたこの部屋は、「レディーの居間」とも呼ばれている。ただし飾られている絵画はワーテルローの戦いに関連したもので、なかでも、勝利を祝う晩餐会の様子を描いた「ワーテルローの晩餐」(上のコラム参照)が印象的。
❻ ワーテルローの間
館内でもっとも豪華で印象深い部屋のひとつ。ウェリントン公が、毎年の戦勝記念晩餐会のために新たに作らせた。壁は欧州各国の王室から贈られた絵画で埋まっている。
フランス貴族趣味に愛着を抱いていたウェリントン公は、この部屋をヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」のようにすべく、すべての窓に鏡付きの引き戸を取り付けた。200年記念となる今年、ここで晩餐会が料理も含めて再現された(室内の再現は11月まで)。
❼ イエロー・ドローイング・ルーム
建築家ロバート・アダムの特徴が表れている部屋。ウェリントン公が実際に居間としてよく利用していた。音楽好きだった公爵らしく、ピアノなどが置かれている。
❽ ストライプト・ドローイング・ルーム
元々は使用人たちの部屋として作られたものを、ウェリントン公が4つ目の居間に改造。晩餐会に招かれた客が、ディナーの前後にリラックスするための部屋として利用された。「ワーテルローの戦い」(上のコラム参照)のほか、ウェリントン公の友人でもある軍人たちの肖像画がある。ウェリントン公の肖像画(一番上)もこの部屋で見られる。
❾ ステート・ダイニング・ルーム
「ワーテルローの間」が完成するまでは、ここで戦勝記念晩餐会が開かれていたが、最終的にはウェリントン公がワーテルローの戦いに参加した兵士たちと昔話を楽しむための談話室となった。戦いが起きた当時の欧州各国の君主の肖像画が飾られている。
▲無料でオーディオ・ガイドが利用できる(日本語なし)。各部屋の基本的な説明(約1時間)以外に、様々な背景を知るための工夫もあり、思わぬエピソードを聴くことがことができるので、ぜひ利用してみることをオススメする。

新国立競技場のようにモメた!?

ウェリントン・アーチ

マーブル・アーチ同様、ワーテルローの戦いでナポレオン軍を破った英国軍と、軍を勝利に導いたウェリントン公を讃えるために、1830年に建設された凱旋門「ウェリントン・アーチ」。現在はアプスリー・ハウスの向かいにあるが、建設当時はハイド・パーク・コーナーの南端にあり、バッキンガム宮殿の外門的役割を果たしていた。当初のデザインでは豪華な装飾を施す予定だったが、バッキンガム宮殿の改装工事と重なり、資金不足のため極力シンプルなデザインへと変更されるなど、建設まで「すったもんだ」した。アーチの上には功労者であるウェリントン公の騎馬像がそびえることになったが、像の高さは8.53メートル、当時の感覚からすれば非常識な大きさで、物議を醸したようだ=写真下。

©English Heritage
やがてロンドンの人口が増えるにつれ、このアーチの存在が周囲に交通渋滞を巻き起こすことになり、1882年に現在の場所に移された。その際に「ウェリントン公の像も取ってしまえ」と、1912年に小さめの「勝利の像」がアーチの上に乗ることになった。私たちが現在見ているのは、実は場所を動かされ、騎馬像も取りはずされた姿なのだ。
ところで、このウェリントン・アーチの上に登れるのをご存知だろうか。内部は3階建て(日本でいう4階)で、1992年まではロンドンで2番目に小さな派出所として、15人の警官が常駐していたという。だが、1999年からイングリッシュ・ヘリテージの管理下に置かれ博物館になった。2階にはアーチの歴史関連資料が展示されており、3、4階ではワーテルローの戦いに関する資料のほか、ウェリントン・ブーツなどが見られる(11月まで)。4階から外へ出られ、ハイド・パーク方面やザ・マルを見下ろすことができる。それ程高い建物ではないので絶景とは言い難いが、せっかく来たなら上ってみることをオススメする。入口にギフト・ショップがあり、入場券はここで購入できる。
The Wellington Arch
Apsley Way, Hyde Park Corner, London W1J 7JZ
開館時間:10:00~17:00(11月〜3月は16:00まで)
入場料:アーチのみ£4.30、アプスリー・ハウスとの共通券£10

Travel Information

※2015年10月13日現在

アプスリー・ハウス Apsley House

149 Piccadilly, Hyde Park Corner
London W1J 7NT
Tel: 0370 333 1181
www.english-heritage.org.uk/visit/places/apsley-house

開館時間:
水〜日曜10:00~17:00
(11月〜3月は16:00まで、土日のみ)
入場料:
アプスリー・ハウスのみ£8.30、ウェリントン・アーチとの共通券£10。毎週水曜日には「トワイライト・イブニングス」と称して、18:00〜20:30に見学ツアーが開催されている。要予約で、料金は£12(ウェリントン・アーチへの入場料は含まない)。
アクセス:
ロンドン地下鉄ハイド・パーク・コーナー駅からすぐ。改札を抜けた後、左手に進み、左側の出口から外へ出れば、ハイド・パーク・スクリーン(②)の前に出る。

アプスリー・ハウス周辺マップ

Apsley House
Hyde Park Screen
Wellington Statue(写真上)
Royal Artillery Memorial
Australian War Memorial
The Wellington Arch
New Zealand War Memorial
Machine Gun Corps Memorial

週刊ジャーニー No.903(2015年10月15日)掲載