建築家マッキントッシュが彩った街 グラスゴーを征く

写真上:マッキントッシュ・ハウス© Mackintosh House
写真下左から:マッキントッシュの自宅のキャビネットに施されたデザイン© DRS、チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1893年撮影)、グラスゴー・スクール・オブ・アート、芸術愛好家のための家に設けられたミュージック・ルーム。


スコットランド最大で、ロンドン、バーミンガム、リーズに次ぐ英国第4の都市グラスゴー。2014年7月には、4年に1度の総合競技会「コモンウェルス・ゲームズ」の開催地として脚光を浴びた。この都市は、貿易、造船などで栄えたことから産業都市としてのイメージを残す一方、建築家チャールズ・レニー・マッキントッシュの『作品』が点在するアートの街として観光客を集めている。今回は、19世紀後半に活躍したマッキントッシュの建築物を中心にグラスゴーを歩いてみたい。

●征くシリーズ●取材・執筆/ 本誌編集部

燃え盛る遺産

グラスゴーで暮らす人々に今年(2014年)の一大イベントを挙げてもらうとするならば、スコットランド独立の可否を問うた住民投票、コモンウェルス・ゲームズの開催が上位にランクインするはずだ。これらに並び、5月に起こったあの出来事も地元民の脳裏に深く刻まれていることだろう。
5月23日、お昼をちょうど回った頃。同国を代表する建造物のひとつとして称えられる「グラスゴー・スクール・オブ・アート(グラスゴー芸術学校/GSA)」周辺は騒然としていた。アール・ヌーヴォーの傑作としても呼び声の高い校舎の一角が、燃え盛る炎と黒煙に包まれていたのである。テレビの画面越しでも、火の粉に混ざって窓ガラスやフレームが外へと飛び散る様子がはっきりと確認できた。
肩を落とし、目には涙をたたえながら、破壊されていく様をただ眺めることしかできない一般市民、また、テレビカメラに向かって「スコットランドの遺産が失われた…」とコメントする住民の姿には、無力感と沈痛な思いがにじんでいた。
失われた歴史的遺産――。この校舎を設計したのが、ほかならぬ地元出身の建築家チャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh)である。マッキントッシュの生きた19世紀末から20世紀というと、日本でも人気のアルフォンス・ミュシャやグスタフ・クリムトらに代表されるアール・ヌーヴォーが開花した時代。そんな時代にあって、マッキントッシュはどのような活躍を果たし、何を残したのか。その人生とともに、グラスゴーの街をご紹介したい。

繁栄する産業都市

スコットランドの首都エディンバラが王の都として発展したなら、その約75キロ西、スコットランド南西部に位置するグラスゴーは、貿易によってその礎を築いた街である。中心部を流れるクライド河の水運を利用し、15世紀頃から貿易の要所としてにぎわい、1770年代には河の拡張を実施。産業都市としての基盤が整えられた。タバコ、綿、砂糖などの貿易と造船業で街は潤い、とりわけタバコ商人らは財産を蓄えて街のあちこちに優美な邸宅や教会を建設。19世紀には、ロンドンに次ぐ英国第2の都市といわれるようになった。
チャールズ・レニー・マッキントッシュが産声を上げたのは、グラスゴーが好況に沸いていた1868年6月7日のことだ。
余談だが、マッキントッシュの姓はスコットランドに多く、グラスゴー出身のマッキントッシュといえば他に、レインコートの素材となる防水布を発明したチャールズ・マッキントッシュ(Charles Macintosh/1766〜1843年)も有名。彼が発明した技術と伝統を現代に伝えるファッション・ブランド「マッキントッシュ」は日本でも人気なのでご存知の方も多いだろう。
のちにGSAをこの街に残すことになる建築家マッキントッシュは警察官の父のもと、アッパー・ワーキング・クラスの一家に生まれ、大多数のグラスゴー住民と同様の集合住宅に住んでいた。街が繁栄していたとはいえ、一般的な家庭には窓つきの部屋が1、2部屋しかないのが主流。マッキントッシュ一家には窓付きが3部屋もあったとされ、暗く貧しい子供時代を送ったわけではなかった。父は実直に任務遂行に励み、何度かより良いフラットへと引っ越しをしており、そうした姿は幼いマッキントッシュに上昇志向を植え付けた。
生まれつき体が弱く、足に障害を抱えていたことから、外遊びは苦手だった。かといって学校での勉強が振るったかといえば、そうでもなく、難読症に悩まされていたことから、つづりを覚えるのに苦労したというエピソードが残っている。
外遊びも勉強も得意ではなかったが、園芸好きの父がフラットを常に花々で飾っていたこともあり、幼い頃から自然に関心を抱いていた。こうした幼少期の記憶が、のちの彼の作風に影響を与えたことは想像に難くない。
16歳になるとマッキントッシュは地元の建築家のもとで修行を始める。
グラスゴーの人口は、18世紀半ばの3万人弱から19世紀半ばには33万人に急増し、それからのヴィクトリア朝時代、続くエドワード朝時代を通して、その数は80万人に到達。駅舎や工場、ホテル、住居のほか、学校や商業施設などの建築ラッシュが続いていた。
マッキントッシュの通った道には、中世の面影を残すグラスゴー大聖堂、タバコ貿易で栄えた商業エリアに加え、瀟洒な建造物が顔をそろえるビューカナン・ストリートなどがあり、新旧が入り交じったダイナミックな雰囲気を日頃から肌で感じながら青年期を過ごした。修行先へ向かう道すがら、威厳ある建造物に加え、新たに建設が進む公共施設や、その内装のぜいたくさに触れ、胸を高鳴らせていたことだろう。
さらに時代は、産業革命の大量生産によって失われた芸術性を生活の中に取り戻す「アーツ・アンド・クラフト」運動が盛んになった19世紀。建築の道に足を踏み入れた多感な青年は、芸術性を追求すべく、建築家修行のかたわらGSAの夜間コースへと通った。

主なマッキントッシュ建築

↓画像をクリックすると拡大します↓

市内マップ
マッキントッシュ巡りにお得な
「マッキントッシュ・トレイル・チケット」 1日1人10ポンド
ヒル・ハウス、芸術愛好家のための家、マッキントッシュ・チャーチの入場料に加え、ウィロー・ティールームなどのギフト・ショップで使える割引券、地下鉄、ファースト・バスの乗り放題チケットがセットになったお得な1日券。

※オンライン(www.crmsociety.com)またはツーリスト・インフォメーションなどにて購入可。



❶ ライトハウス
The Lighthouse

マッキントッシュがデザインした新聞社「ヘラルド」の社屋。1999年に一大アート・センターへと生まれ変わった。マッキントッシュ関連の展示のほか、アート系イベントが行われている。ビル内の一部では、当時のままの壁と近代的要素が見事に同居した空間があり、まさにグラスゴーの長所を凝縮したような建物。

11 Mitchell Lane, G1 3NU
www.thelighthouse.co.uk
入場無料


旅のメモ 最上階からはグラスゴーの街並みを一望!


❷ スコットランド・ストリート・スクール・ミュージアム
Scotland Street School Museum

かつては学校として使われていたが、現在は博物館に。設計は1903年だが、マッキントッシュと教育委員会との間でたびたび意見が食い違い、完成したのは1906年。

225 Scotland Street, G5 8QB
www.glasgowlife.org.uk
入場無料


旅のメモ 建物左右にある、マッキントッシュがこだわったガラス張りの塔の内部はそれぞれ階段部分になっており、明るく差し込む光が印象的。

❸ 芸術愛好家のための家
House for an Art Lover

1901年にドイツの雑誌社が「芸術愛好家のための家」というテーマで建築デザインを募集した際に、マッキントッシュが応募したものをもとに建てられた家。彼のデザインをもっとも自由に具現化したとして評価が高い。併設されるレストランは開放的な雰囲気で地元の人からも人気(予約推奨)。

Bellahouston Park, 10 Dumbreck Road, G41 5BW
www.houseforanartlover.co.uk
入場料: 4.5ポンド


旅のメモ オープン時間が日によって異なるので、行く前に要チェック。

❹ デイリー・レコード・ビルディング
Daily Record Building

1904年に完成した新聞社「デイリー・レコード」の旧社屋。内部は一般公開されていないが、1階でカフェ「Stereo」が営業中。白、ブルーのレンガを使った外観が特徴的。街の中心部にあるので散策がてら覗いてみては?

20-26 Renfield Lane, G2 5AT



❺ グラスゴー芸術学校
The Glasgow School of Art (GSA)

© Alan McAteer
マッキントッシュの最高傑作とされる建造物で、現在も多くの学生が通う。秀逸とされる図書室=写真=をはじめ、校舎の一部が一般公開されていたが、2014年5月の火災で一部が焼失。2014年12月現在修復中。

167 Renfrew Street, G3 6RQ
www.gsa.ac.uk


旅のメモ ウィロー・ティールームのソーキホール店から徒歩3分なので、外観だけでも見に、足を運んでみよう。また、マッキントッシュをより深く知るためのシティ・ガイド・ツアーを主催している。

❻ ウィロー・ティールーム
The Willow Tea Rooms

1903年に完成したティールーム・ソーキホール店。現在では1階がギフトショップ、2、3階が軽食やアフタヌーンティーを楽しめるカフェ、4階がギャラリーとなっている。

217 Sauchiehall Street, G2 3EX
※Buchanan Streetに支店あり
www.willowtearooms.co.uk


旅のメモ 3階のRoom de Luxeは特にぜいたくな造りになっているので必見(予約推奨)。

❼ マッキントッシュ・ハウス
The Mackintosh House

© Mackintosh House
1906~1914年にマッキントッシュ夫妻が住んでいた家が、ハンタリアン・アート・ギャラリー内で再現されている(ガイド・ツアーでのみ見学可)。

Hunterian Art Gallery, 82 Hillhead Street, G12 8QQ
www.gla.ac.uk/hunterian
入場無料
※ガイド・ツアーは所要約30分。
午前10時(日曜は午前11時)~午後4時(日曜は午後3時)。
1回の定員は最大12人。予約不可。


旅のメモ ツアーは先着順なので、閉館時間に近くなると入れない場合もある。朝から行く方が賢明!

❽ ヒル・ハウス
The Hill House

© National Trust for Scotland
出版社所有のウォルター・ブラッキーの個人宅(1903年完成)。現在、スコットランドのナショナル・トラストが管理しており、当時の家具、調度品、インテリアを忠実に復元している。部屋の利用目的に合うよう、部屋ごとに異なる雰囲気が作り出されている。

Upper Colquhoun Street, Helensburgh G84 9AJ
www.nts.org.uk/Property/The-Hill-House
チケット:10.50ポンド


旅のメモ 開館は4月~10月のみで、グラスゴー中心部からバス、あるいは電車で1時間強だが、行く価値あり!

その他の見所

1 グラスゴー大聖堂
Glasgow Cathedral

グラスゴーの守護聖人である聖マンゴーを称える大聖堂。12世紀に建てられ、16世紀の宗教革命の嵐を耐え抜き美しい姿を残している。

Castle Street, G4 0QZ
www.glasgowcathedral.org.uk


2 市庁舎
City Chambers

街の中心に建つ、ヴィクトリア朝時代に完成した市庁舎。平日の午前10時半、午後2時半からガイド付き見学ツアーが行われている。

George Square, G2 1DU
www.glasgow.gov.uk
見学ツアー:無料、所要45分


3 バレル美術館
The Burrell Collection

造船王バレル卿の集めた美術品8000点が、グラスゴーに寄付され、一般公開されている。

Pollok Country Park, 2060 Pollokshaws Road, G43 1AT
www.glasgowlife.org.uk


4 リバーサイド交通博物館
Riverside Museum

「交通」を軸にグラスゴーの歴史を紹介。建築設計は気鋭の建築家ザハ・ハディト。

100 Pointhouse Place, G3 8RS
www.glasgowlife.org.uk


5 ケルビングローヴ博物館&美術館
Kelvingrove Art Gallery and Museum

1901年に開館したスコットランドを代表する美術館。博物館や美術館が多いグラスゴーの中でも随一の規模と美しさを誇る。

Argyle Street, G3 8AG
www.glasgowlife.org.uk

意識の芽生え

マッキントッシュの人生に弾みがつくのは、1889年、建築事務所「ハニーマン・アンド・ケッピー」で働きはじめた頃のことである。製図家として入社した後、しばらくは新しい建物を手がけることはなかったが、父親譲りの向上心あふれるマッキントッシュは、学校に在籍しながら、自分の時間を使ってコンペに参加。そのうち建築関連の賞を獲得するようになる。
なかでもパブリック・デザインの分野で権威のある賞(Alexander Thomson Travelling Studentship)の受賞は重要な転機をもたらす。22歳となっていたマッキントッシュは、奨学金を獲得するとイタリア周遊へと出発。現地の教会や美術館を訪れてスケッチし、感じたものを日誌に記すといったおよそ3ヵ月半の旅は、彼の作風に影響を与えたというよりは、そのキャリアに箔をつけた。
旅から戻ったマッキントッシュは建築に関する講義を行う機会を得たほか、事務所内での地位を高め、1893年には初めて本格的な建造物を受け持つ。長い歴史を誇る日刊紙「グラスゴー・ヘラルド(現・ヘラルド)」の社屋である。
各階の窓回りをそれぞれ異なったものにするといったこだわりが見られるこの建物は現在、アート・センターとなっており、中にはマッキントッシュ関連の展示コーナーがある。グラスゴーを訪れた際は、ぜひ覗いていただきたい(ライトハウス=上記参照)。
その頃マッキントッシュは、同じ事務所で働くハーバート・マクネーア(Herbert McNair)と親しくし、時に建築論議に花を咲かせるなどして切磋琢磨した。仕事を終え、夜になると一緒にGSAに通った。
男性ばかりだった建築事務所とは打って変わり、画家やデザイナーなど、才能あふれる女性アーティストらも在籍したGSAでの時間は、マッキントッシュの中に変化をもたらす。
女子学生のなかでも、金属工芸やテキスタイル・アートを学んでいたマクドナルド姉妹(Margaret & Frances Macdonald)の才能は他の学生とは一線を画していた。彼女らとの出会いから装飾美術に強い関心を寄せるようになったマッキントッシュは、バラなどの植物や女性を抽象的に描くようになる。そして、マッキントッシュ、マクネーア、マクドナルド姉妹という、のちに2組の夫婦となるこの男女4人組「ザ・フォー」は、1890年代中頃の数年間にたびたび共同で作品を制作。グラスゴー発信の新しいデザイン「グラスゴー・スタイル」の旗手として注目されるようになる。
マッキントッシュが自身をアーティストとして意識するようになったのもこの時期だ。
女性らの多くは昼間のコースに通い、そのほとんどが中流階級の生徒。かたやマッキントッシュは夜間コースに通う、労働者層一家の息子。まったく交流がなかったとしても不思議ではない。しかし、知人を介して女子学生らと知り合い、「アート」を通じて親交を深めたマッキントッシュは、社会のしがらみのなかで生きる職業人という枠を超え、自由な発想で自己を表現する『アーティスト』としての自分を強く意識。彼の作風は次第に伸びやかになり、豊かな表現能力が大きく開花していった。

分かれる評価

音楽雑誌のために制作したポスター(1896年)。
幻想的な曲線の装飾と、繰り返される植物と人間のモチーフが特徴の「グラスゴー・スタイル」。一見、不気味にも見えるイメージを用いたことから、国内での評価はさほどよいものではなかった。グループの中心的役割を果たしたマッキントッシュは、1896年にロンドンで開催されたアーツ・アンド・クラフト協会主催の展覧会に出品しているが、批評家からはほとんど無視されたと言っていい。
ただ唯一、高い関心を示したのは、国際的に影響力の高い英国の雑誌「スタジオ(The Studio)」。オーストリアの画家グスタフ・クリムト率いるウィーン分離派など、モダンアートを切り開いたアーティストらが熟読したとされるこの雑誌に取り上げられたことで、ヨーロッパでその存在を知られるようになる。1900年にウィーンで開かれたエキシビションでは一大センセーションを巻き起こし、マッキントッシュはその名を轟かせた。「ヨーロッパにおいてもっとも著名な建築家」と評する者もいたほどだ。
その後もトリノやモスクワなどの都市でエキシビションを行う機会に恵まれ、大陸で活躍する気鋭のアーティストらとも親交を結び、彼らの芸術思想にも多大な影響を与えていった。
他方、国内でのマッキントッシュを支えたのは、彼の才能にほれ込んだ、アートに造詣の深い数人の支持者だ。そのひとりが、出版社を所有したウォルター・ブラッキーで、グラスゴー中心部から35キロほど北西へ行った、ヘレンズバラの丘に邸宅を建てた際には、外観から内装まで、一切をマッキントッシュが担当している(ヒル・ハウス=上記参照)。
ブラッキーは当初、全部を任せるつもりはなかったようだ。しかし最終的には、新調する予定のなかった家具を含めたすべてをマッキントッシュにゆだねている。その理由は、彼の建築家としての姿勢にある。
実用性と美しさを兼ね備えた「用の美」に徹したマッキントッシュは、設計にあたり、数日間ブラッキー一家と過ごすことはできないかと提案している。一家について理解を深めることで、より一家に合った住居を建てることができると考えたからだ。
さらに建設が始まっても構造の細部にまでこだわり続けるその熱意にブラッキーは深い信頼を寄せた。

ふたりの空間

マーガレット・マクドナルド(1895年頃撮影)。
マッキントッシュの才能と情熱に魅せられて仕事を依頼した支持者は他にも挙げられるが、その前に、一番そばで彼を支えた人物について触れておきたい。
同じアーティストとして刺激し合った、ザ・フォーのひとり、4歳年上のマーガレットだ。ふたりが結婚したのは1900年のことである。男と女という関係だけでなく、互いにアーティストとして深い結びつきがあったふたりは、自分たちにとって心地良いフラットを造り上げている。
シンプルで軽やか、かつ明るい雰囲気のリビング・ルームは、ヴィクトリア朝時代の定番だった重厚かつ過剰気味な装飾とはかけ離れたもので、彼らの家を訪れた人は、その洗練されたインテリアに心を打たれた。「家はいつもきれいで、暖炉には火が入り、上品なお菓子と美味しい紅茶を振舞ってくれた」と知人のひとりは語っており、温かく家庭的な空間だったことをうかがわせる。彼らの私生活については多くの記録は残っていないものの、ふたりの住んだフラットは現在再現され、その暮らしぶりを想像させてくれる(マッキントッシュ・ハウス=上記参照)。
ふたりが生み出した幸せな空間は、プライベートだけでなく、公共の場でも実現されている。
1880年代からグラスゴーで大流行したティールームがその場所だ。マッキントッシュの支持者として欠かせない存在のキャサリン・クランストンは、ティールームを多数手がけた、当時では珍しい女性経営者。禁酒運動の流れからティールームが社交場として重宝がられていたことに目をつけたクランストンは、ただの喫茶の場ではなく、「美を味わう場」を提供。空間を、男性用、女性用、読書用、喫煙用などに分け、それぞれにくつろげるように配慮し、そこにアートをプラスすることも忘れなかった。
一方のマッキントッシュは、アーティストとして、また生活空間を設計する建築家としての実績を積むなかで、「アートは日常のどこにでもあふれ、人々の手に届く所になければならない」との理想を抱いており、クランストンはこうした考えに共感。エネルギーみなぎるマッキントッシュに1896年、店内の壁画を初めて依頼した。以来、20年におよぶパートナーシップが築かれる。新店舗ができるたびに取り入れられた彼のデザインは、ティールームの象徴的存在となる。
1903年に新店舗をオープンさせる際は、既存の建物を利用したものではあったが、部屋のコンセプトづくり―つまりほぼゼロの状態からマッキントッシュが請け負った。どんな目的の空間にするか、壁画や照明設備、家具から食器、ウエイトレスのユニフォームなど、これまでにない広範囲にわたるプロジェクトだ。マーガレットとともに自分たちのフラットをデコレーションしてからというもの、内装に目を向けていたマッキントッシュは、この仕事を通し、インテリア・デザイン、空間デザインの技量をしなやかに伸ばしたことは言うまでもない。
「私には素質があるだけだが、マーガレットは天才なんだ」と友人に語るほど、妻の持つセンスに敬意を抱いていたマッキントッシュ。女性として、アーティストとして慕うマーガレットが、マッキントッシュの仕事にどのくらい、どのようにして関わったのかを具体的に知ることはできない。だが、マッキントッシュ・デザインに触れたとき、男性的な力強さと、女性的な繊細かつ上品な曲線美を見ることができる。そこには妻マーガレットに支えられ、刺激を受けながら、作品と向き合ったマッキントッシュの姿が浮かんでくる。ふたりは生涯、子供を持つことはなかったが、生み出されるインテリアや空間の数々はふたりにとって実の子供のような存在だったのではないだろうか。
同年10月にオープンしたクランストンの新店舗(ウィロー・ティールーム=上記参照)は、地元紙から熱烈な歓迎を受けた。同夫妻が彩った空間はグラスゴーの一大社交場として、大変なにぎわいを見せ、街はマッキントッシュ・ブームに包まれた。

アーティストか、スパイか
――マッキントッシュの晩年

マッキントッシュの絵画やテキスタイル・デザインを紹介する本なども販売されている。
1900年代のグラスゴーでマッキントッシュ旋風を巻き起こしたものの、GSAの完成以降は仕事が激減する。彼の前衛的なスタイルのほか、妥協しないデザイナーというレッテルを貼られたことが原因として挙げられるが、そうした仕事の行き詰まりからか、マッキントッシュは酒浸りになってしまう。普段から酒を嗜んでおり、忙しいときの飲酒は気分を高めるのに一役買っていたが、仕事が減るにつれ、憂鬱な気持ちを助長するようにしか作用しなくなる。さらに、体調も崩しがちになり、仕事における信頼が失われていく。
45歳になっていたマッキントッシュは、事務所との契約を解消し、自身のオフィスをスタートすることになるが、彼の元にはティールームの仕事がわずかに入ってくるだけだった。
グラスゴーを離れることを決めたマッキントッシュ夫妻は、GSAの校長ニューベリーに招かれ、アーティストに人気があったサフォークの海辺の街でしばしの時を過ごした。ちょうど今から100年前の1914年、ヨーロッパを中心に第一次世界大戦が嵐となって吹き荒れはじめた頃のことである。
療養を兼ねたこの滞在で、マッキントッシュは水彩画に没頭した。高評価を受けていたドイツで、水彩画の本を出版する計画があったと考えられている。ところが、サフォークの田舎町で一日のペインティングを終え、夕暮れの街をひとりでとぼとぼと歩くその姿は、地元の人に不信感を抱かせるものだった。ひときわ癖があることで知られるグラスゴー訛りの『奇妙』な英語もその要因のひとつだったようだ。さらに第一次世界大戦勃発間もない時期である。敵国のドイツ、オーストリアとの交流が深いマッキントッシュは、敵と密通しているとのスパイ疑惑がかけられ、同地を去ることを命じられる。

◇ロンドンへ

サフォークをあとにし、1915年ロンドン・チェルシーへと移り住んだが、建築家としての基盤は築けず、テキスタイル・デザイン、絵画に転向していく。少ない収入を補うために、支持者のウォルター・ブラッキーが所有する出版社の本のカバー・デザインも行った。
自分のキャリアに深く失望していたマッキントッシュだが、アルコール問題からはすでに立ち直っており、彼の創造性は少しも衰えていなかった。周囲も驚くほどの活力に満ち、発信するデザインは際立つ幾何学模様が目を引き、鮮やかな原色は革新的でもあった。だが、彼のデザインの非凡なエネルギーと個性はイングランドで完全に無視された。

1925~26年にかけて過ごした南フランスで描かれた『The Fort』。© The Hunterian, University of Glasgow 2014
1923年にはロンドンを去り、フランスへと向かい、そこで水彩画を描き続けた。だが、1927年、妻マーガレットは体調を崩し、治療のためひとりでロンドンに戻っている。マッキントッシュが彼女に宛てた日々の手紙の一枚一枚には、ユーモアがあふれ、自然界の小さな出来事を喜ぶ姿が現れていた。彼女への依存ぶりを覗かせることもあったが、何よりも妻への愛に満ちていた。
その年の終わり頃、今度はマッキントッシュ自身が喉の痛みを訴え、ロンドンで治療を受けることとなった。舌癌だった。手術やその後の治療もむなしく、翌年、60歳でその人生をひっそりと終えた。マーガレットは、その後、夫の作品を集めた展示会を企画するが、実現されることはなく、マッキントッシュの死から4年が過ぎた頃、チェルシーの自宅で息を引き取った。
マッキントッシュの存在はすっかり忘れ去られてしまったが、1970年代に再び脚光を浴びたことは本文で触れたとおりだ。国民の誇りとまで称賛されるに至ったマッキントッシュの肖像は、2009年にクライズデール銀行が発行するスコットランドの100ポンド紙幣に採用されている。

工事の遅れが生んだ傑作

さまざまな経験を積んだ1909年、いよいよ完成したのが冒頭で紹介したGSAだ。マッキントッシュは41歳を迎えていた。実は、学校長を務めていたフランシス・ニューベリーの後押しを受けて、マッキントッシュが新校舎建設のコンペに勝ったのは、なんと12年前。当時、ニューベリーの精力的な学校運営で国際的認知度を上げ、勢いをつけていたGSAだが、マッキントッシュの計画を完成させるためには予算が不足していたのだ。それでも、どうにか計画が実行に移されると、まずは東側のみの建設が進められた。2年ほどで完了したが、西側部分の工事を進めるための予算が集まるまで、それから8年を待たねばならず、工事が開始されたのは1907年、最初の設計から10年が経過していた。
ただ、幸いなことに、この10年はマッキントッシュが華々しく活躍した期間。住居や商業施設の設計、内装や家具のデザイン、エキシビションのための作品制作など、多岐にわたって経験と実績を積んでいた働き盛りのマッキントッシュは、学校を訪れて西側のデザインを再考している。
そして1909年に遂に完成を迎える。東側と西側にはマッキントッシュの10年間の、成長と呼べる変化がみてとれる。東側の重苦しく要塞のような外観に比べ、西側は特徴的な出窓を配したデザイン性の高い、遊び心のあるモダンなものとなっている。また、2014年5月に火災で焼失するまで、学生や観光客からも人気のあった図書室が誕生したのも、工事の遅れゆえのこと。予算不足によって長らくかかっての完成だが、それにより、GSAの魅力は一層増したといえる。

蘇った文化都市

マッキントッシュの死からおよそ70年後、その偉業に敬意を示し、彼のデザインをもとにした施設「芸術愛好家のための家」が建てられた(上記コラム参照)。
ただ、アーティストとして妥協を許さない設計思想が国内で広く受け入れられることはなく、GSAの完成以降は、仕事の数も減っていき、マッキントッシュは暗澹たる思いでグラスゴーの街を去る(晩年については上記コラムにて)。
繁栄を極めたグラスゴーも、第二次世界大戦以降は衰退し、一時は「ヨーロッパ最悪のスラム街」と呼ばれたこともあった。
しかし1980年代以降、工場跡地など、うちすてられた土地を活用し、主力産業を「観光」に切り替えようという取り組みが行われ、その流れでアートの役割も大きく変化。1970年代にマッキントッシュの家具が再生産されるようになるなど、その価値が再認識されていたことも手伝って、再びその名が知られるようになる。現在では、マッキントッシュのデザインを取り入れた建築物はグラスゴー近郊だけでも12施設あり、多くの観光客を惹きつけている。
また、古い建物を保存・改修しながら都市開発を進めてきたグラスゴーは、1990年には「欧州文化首都(European Capital of Culture)」に選出された。さらには音楽の分野でも優れたアーティストを多数輩出し、ユネスコ音楽都市にも選ばれている。例年ロンドンで開かれるターナー賞展は、来年、この地で開催予定だ。
かつて工場からの煙や排気ガスで空気は灰色ににごり、建物の外壁は黒くくすみ、昼でも暗い印象のあった産業都市の面影と、文化都市として再生したエネルギーが融合するグラスゴーへと足を運んでみてはいかがだろうか。

ヨーロッパで花開いたジャポニズム

マッキントッシュは日本文化から大きな影響を受けているが、その背景にあるのが、1862年にロンドンで開かれた国際万国博覧会。会場には、「日本コーナー」が設けられ、大変な注目を集めた。200年という長い鎖国が終わり、1854年に開国されたばかりの日本から寄せられた浮世絵や木版画などの芸術品は異国情緒にあふれ、ヨーロッパのアーティストらを魅了。1870年代には英国の芸術やデザインの分野で流行の最先端となり、一種のブームを巻き起こした。日本文化に影響を受けたアートを指す単語「ジャポニズム」が生まれたのも、同年代のフランスでのことである。
日本ブームは1900年頃まで続き、マッキントッシュはその真っ只中の1890年代に活躍することとなる。造船業で栄えていたグラスゴーでは、造船の技術を学ぶために日本からエンジニアが訪れていた経緯もあり、日本との結びつきがひときわ強かったことも彼が影響を受ける一因となった。残念なことに彼自身が日本の地を踏むことはなかったが、若かりし頃に過ごした部屋には、自身でデザインした壁の装飾に並んで日本画が飾られており、マッキントッシュ・デザインにさらなる独創性を与えたと考えられる。

グラスゴー早分かり

■グラスゴーの名前の由来は、アイルランドから渡ってきたスコット人が使っていたゲール語の「dear green place」。「緑の地」を意味するその名の通り、公園や緑地が多い場所でもある。

■グラスゴーの人々はグラスウィージャン(Glaswegian)と呼ばれ、おおらかで、江戸っ子に通じる気風のよさが特長。また、グラスゴーで話される英語は訛りが強烈で、英語を母国語とする人でさえ、手を焼くこともあるという。日本の東北地方の方言にも似て、語尾が上がるだけでなく、発音もずいぶん異なる。

■音楽活動が盛んで、プライマル・スクリーム、パステルズ、トラヴィス、フランツ・フェルディナンドなど、世界で活躍するバンドを輩出。週平均で130の音楽イベントが開催されている。

TRAVEL INFORMATION

※2014年12月15日現在

■アクセス:電車の場合、ユーストン駅からグラスゴー・セントラル駅までおよそ4時間半~。Virgin Trains、East Coastが運行。キングズ・クロス駅からの直通(エディンバラ経由)もあるが、便数が少なく、時間もかかる。飛行機の場合、ロンドンの各空港から約1時間20分。easyJet、British Airwaysが運航。市内へは、車、バスなどで15~30分。

Special thanks to:
The Scottish Tourist Board
www.visitscotland.com
Virgin Trains
www.virgintrains.co.uk
Glasgow City Marketing Bureau

週刊ジャーニー No.861(2014年12月18日)掲載