野田秀樹新作舞台 NODA•MAP「正三角関係」世界配信決定
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封じられた地下都市と悲劇

 さて一方、ニュータウンに対して「オールドタウン(旧市街)」と呼ばれるようになった従来のエディンバラの街に、黒い影が忍び寄っていた。
下水処理設備が整っていなかった当時、生活用水や汚物といった不衛生なものは、家の窓から屋外にすべて投げ捨てられていた。1日2回、朝と昼の決められた時間に、市民たちが大声で掛け声をあげながら一斉にバケツから放つ情景は、ある種の「壮観さ」があったに違いない。街中は常にひどい悪臭が立ち込めていたという。そして、この悪習の被害をもっとも直接的に受けたのは、地下で暮らすことを余儀なくされた人々である。投棄された汚水は地下に流れ込み、不衛生な環境が招く様々な疫病が流行、しまいにはペストが発生するという事態に陥る。最初のペスト犠牲者が発見されてから、約18ヵ月でこの死の病はスコットランド中を脅かすまでになり、大幅に人口が減少。感染者を隔離するものの、その猛威は一向にとどまることを知らなかった。そこで政府は、ペストの蔓延をなんとか食い止めようと、非情な決断を下す――地下空間の封鎖である。発生源を封じ込めることで疫病の広がりを止めようとしたのだ。
感染者たちが逃げ出すことを恐れ、封鎖はある日突如として行われた。貧しい人々を地下に閉じ込めたまま、その出入り口を塞ぐという暴挙に、生き埋めになった人もいたと伝えられる(ただし、人骨等が見つかったとの発表はない)。市民の約3分の2がペストの犠牲になったとの記録もあり、感染の恐怖は計り知れない。地下を封じた後に、ペストの流行が落ち着きを見せたことを鑑みると、当局の決断は誤りとは言い切れないのかもしれない。だが、あまりにも非道な手段であったがゆえに、公には語り継がれない裏の歴史として秘され、地下空間の存在も忘れ去られてしまった。この悲しい歴史が「地下都市の発見」という形で明るみに出るのは1980年代のこと。現在も調査・発掘が続けられる傍ら、一部の区画は一般公開されている。



スコット・モニュメントから見るロイヤル・マイル(西方面)とエディンバラ城。
高台に街が建っていることがわかる。
右下は、フェルメールなどを収蔵するナショナル・ギャラリー。

 

見どころ満載のロイヤル・マイル

 ここまでエディンバラの歩みと秘された暗部について述べてきたが、実際にスコットランドの歴史と伝統を肌で感じたいなら、オールドタウンを訪れてみるべきだろう。
エディンバラは、ロンドンよりもコンパクトにまとまっているとはいえ、見どころ満載の街。残念ながら、比較的短時間で見て回らざるをえない場合は、とにかくロイヤル・マイルを歩くことをおすすめめしたい。スコットランド版ハロッズともいえる高級デパート「ジェナーズ」をはじめ、有名ブランド店などがズラリと軒を連ねる、ニュータウンのプリンシス・ストリートの魅力に抗うのは骨が折れるが、ロイヤル・マイルを抜きにして、エディンバラもスコットランドも語ることはできない。
街の中心となるのは、先述したプリンシス・ストリート・ガーデン。氷河期に残された谷底に横たわるように広がる公園だ。中央駅であるウェイヴァリー駅もこの谷底にある。公園を境として、北にニュータウン、南にオールドタウンが広がり、それぞれプリンシス・ストリートとロイヤル・マイルという目抜き通りが鉄道と並行して走っていると覚えれば、理解しやすいだろうか。



至る所で目にするクロースは、ロイヤル・マイルの魅力のひとつ。
右はWarriston's Close、左はAdvocate's Close。

 

ロンドンのキングス・クロス駅、またはユーストン駅から4時間半の電車の旅を終え、ウェイヴァリー駅に到着。プリンシス・ストリートに降り立ち、背後に広がるオールドタウンをふと振り返って目にした光景に息をのむ。崖のように切り立った高台に、サンドストーンで造られた落ち着いた色合いの建物がビッシリと立ち並んでいる。その威圧感のある佇まいは、中世の要塞の雰囲気を色濃く放ちながらも優美さをも兼ね備え、イングランドとは異なる「国」であることを実感する。
プリンシス・ストリートからノース・ブリッジを渡り、石畳のロイヤル・マイルへと歩を進める。ロイヤル・マイルは、キャッスル・ヒル、ローンマーケット、ハイストリート、キャノンゲートの4つの通りがひとつに繋がったもの。西端のエディンバラ城と東端のホリルードハウス宮殿を結ぶ、文字通り「ロイヤル」な通りである。
いつからロイヤル・マイルと呼ばれるようになったかは定かではないが、偶然にもこの道の距離が1マイル(約1・6キロメートル)だったことが名前の由来とされている。ロイヤル・マイルの名称が初めて書物に登場するのは1901年。1920年代にはその名を掲げたガイドブックが数冊発行されており、この頃にはすでに一般に広く定着していたことがうかがえよう。

 

狡猾で図太い二重人格者
ディーコン・ブロディ

  ウィリアム・ブロディ(通称ディーコン・ブロディ、1741~88年)は、ローンマーケットのブロディーズ・クロースで、裕福な家具職人の父のもとに生まれた。エディンバラでも有数の実力者となっていったブロディは、ギルド(商工業者の組合)の組合長のほか、エディンバラの市議会議員も務めていた。
しかし一方で、「完璧な紳士」を演じるストレスからか、夜に別の顔を見せるようになる。賭博が大好きで毎晩のように散財しては、抱えた多額の負債を一掃するため、また時にはスリルを求めて、街の裕福な家を狙って窃盗を働いた。
だが、そんな二重生活も1788年に破綻を迎える。キャノンゲートにある税務局本部を襲った際、窃盗仲間が逮捕されたのだ。ブロディはロンドンに向かい、その後オランダへと逃亡したが、アムステルダムで逮捕された。事情聴取により、彼は家庭も2つ持っていたことが判明。2人の妻は、互いに顔をあわせたことはなかったという。ブロディは絞首刑に処せられたが、その時に使われた絞首台は、皮肉にも彼がデザインした真新しいものだったという。