古代ローマの遺跡まである家

 ではいよいよ、ソーン博物館となるリンカーンズ・イン・フィールズに話を移そう。1784年にソーンはエリザベス・スミスと結婚し苗字を「Soan」から「Soane」に改めている。改名の理由は分からないが、加えられた「e」は彼にとって結婚記念のようなものではないだろうか。妻のエリザベス(ソーンは愛情を込めて「イライザ」と呼んでいた)はロンドン中の不動産を牛耳る業界一のやり手、ジョージ・ワイアットの姪である。
ワイアットは1790年に死去するが、彼に子供がいなかったため、ソーン夫妻は莫大な遺産を受け取った。これによって、ソーンは不動産だけではなく、好きな考古学資料や芸術品を購入するのに十分な財力をも身に付けたのだった。やがて当時サマセット・ハウスにあった王立芸術院で教鞭をとることになった彼は、通勤の便がいいこのリンカーンズ・イン・フィールズ12番地の住宅を購入し、1794年に郊外(イーリング)の自宅から家族共々、引っ越してくる。


ソーン夫人、エリザベス。ひざの上には愛犬ファニーの姿が見える
(ジョン・ジャクソン作、1831年)。

ソーン夫妻には2人の幼い息子、ジョン・ジュニアとジョージがいた。ソーンは息子たちが成長したあかつきには自分の建築事業を継がせようと考えていた。彼が様々な美術品を購入しては自宅に展示し、さらには隣の13番地も購入しオフィスとして改造し、展示スペースも増やした理由の一つには、素晴らしい芸術作品に囲まれて暮らすことで、息子たちの感性が育まれると考えたからのようだ。若い頃ヘンリー・ホランドの自宅兼オフィスに下宿した自分の経験を踏まえてのことだろう。
しかしソーンの熱い期待と、家中にクモの巣を張り巡らしたかのごとく、逃げ場なく置かれた莫大なコレクションは、息子たちにしてみれば息の詰まるような重圧以外の何物でもなかった。
ソーンの教育はあだとなり、彼は将来ひどく落胆させられることになる。息子たちは展示物に興味を持たないばかりではなく、ティーンエイジャーになる頃には、展示物の中にあった銀製品を剥がして売り飛ばすという悪戯までするようになったのである。
精神的に傷ついたソーンは、これ以降、息子たちのことをあきらめ、自分の教える学生や住み込みの弟子たちへの教育に力を入れ始める。ただしソーンの考えでは、「それにはコレクション展示が重要」。ナポレオン戦争で欧州大陸に簡単に行けなくなった学生たちのために、などといろいろ理由を付け、ソーンの蒐集は相変わらず続くのだった。息子たちに伝わらぬ愛情と情熱を、蒐集に振り向けたと見なしても良いだろう。古代の建築の破片、石彫をはじめ、多種多様な美術工芸品、考古学的な骨董品、絵画作品。それに加えて3万枚ともいわれる建築図面のコレクションは、王立美術院での講義でもしばしば利用されたという。

ソーンが憎みに憎んだ
反抗児ジョージの隠れた役割

■ソーンの次男ジョージ=肖像画内の左側=は、成人した後、父親の仕事を継ぐことを拒否しただけではなく、父親への反発を見せつけるかのように、ジャーナリストの娘と結婚している。
■俳優志望だったとも言われているジョージだが、過度の飲酒が原因で借金がかさみ、2度も債務者監獄(debtors’ prison)に投獄された。当時は、借金が返済できない者を収監する専用施設である債務者監獄が英国各地にあった。ちなみに、チャールズ・ディケンズも父親の借金により家族とともに一時、債務者監獄内で暮らした経験を持つ。
© Henry Nicholls ■1度目は母親のエリザベスが借金を払い出獄できたものの、2度目は、激怒したソーンが夫人に借金の肩代わりをすることを許さず、服役。ソーンの冷たい態度を逆恨みしたジョージは、ある新聞の日曜版に「不正者・ペテン師・模倣者と呼ぶべきソーン卿に関する匿名の批判記事」と題した記事を投稿する。
■この頃、胆石を患って重い病の床に伏していた夫人のエリザベスは、息子が夫を罵倒するこの記事を病床で読みひどく悲しんだ。自分にとって、まさに「死の一撃」だとソーンに伝えたという。
■エリザベスはこの後2ヵ月もたたないうちに逝去してしまう。最愛の妻を死に追いやったとして、ソーンは終生ジョージを許すことはなかった。そして自分の死後にジョージの手にリンカーンズ・イン・フィールズの自宅が渡ってしまうのを何としても阻止したいと考えたソーンは、自宅を博物館として登録してしまう。つまり、現在私たちがソーン博物館を見ることができるのは、次男ジョージのおかげといえるのかも?