ゼロから積み上げたキャリア
ジョン・ソーン(英語での発音は「ソウン」だが、本稿では「ソーン」で統一)は1753年、ロンドンにほど近いバークシャーのゴーリング・オン・テムズにレンガ工の息子として誕生。15歳で建築家ジョージ・ダンス(息子のほう)の元で見習いとしてロンドンに暮らし始める。14歳で父親を亡くしてしまったソーンだったが、その翌年に、早くも大きなチャンスにめぐりあったことになる。というのも、ダンスが王立芸術院(Royal Academy of Arts)の創立メンバーの一人であったおかげで、ソーンは同校で学ぶ機会を得たのだった。もし、ここでジョージ・ダンスのもとに弟子入りしていなかったら、その後のソーンの活躍も、彼の自邸が博物館として公開されることもなかったかもしれない。
さらに、在学中にソーンはブライトンのロイヤル・パビリオンやロンドンのカールトン・ハウスの設計で知られる建築家ヘンリー・ホランド宅に下宿するが、これもソーンにとって大きな刺激となった。ホランドの自宅はオフィスも兼ねており、そこでは多くの大工たちも働いていた。ソーンはここで設計図から実際にどのように建物が作られていくのか、どんな材料が使われるかを目の当たりにすることができたのだ。後年ソーンは、その経験がいかに貴重で、その後のキャリアに役立ったかについて言及している。
アポロ像の置かれた廊下。狭い…。
さて、アカデミーで貧欲に知識を吸収し大いに学び、優秀な成績を収めたソーンは、在学中にデザイン・コンペティションで金賞を受賞。レンガ工の息子という出自は恵まれたものではなかったが、聡明だったばかりでなく、ソーンには建築家としてのセンスが備わっていたといえる。
この賞金を使い、友人とともに文化の都イタリア見聞の旅に出た。この時代、裕福な子弟たちがこうした旅を経験することが流行しており、それは「グランド・ツアー」と呼ばれたが、ソーンの場合は自力で勝ち取ったイタリア行きだった。同国滞在中に多くの裕福な英国人たちと知り合ったソーンはここでも運の強さを示す。彼らの多くがソーンの未来の顧客となったからだ。
また、ソーンは尊敬するジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージGiovanni Battista Piranesi(1720~78)=写真左上=に面会することができたともいう。ピラネージは新古典主義建築に多大な影響を与えたイタリアの建築家で、古代ローマ遺跡を愛し多くのエッチングを残したことから「廃墟画家」の異名もとる人物だ。ソーンのイタリア滞在期はピラネージの最晩年にあたる。後年ソーンはピラネージのエッチングを大量に購入し、コレクションに加えているが、若い頃はただ尊敬するだけだったピラネージの作品を購入するだけの財力を得て、ソーンはご満悦だったことだろう。
※3月7日からジョン・ソーン博物館の2階で、このピラネージの企画展が開催される。詳細は13頁参照。
ブレックファスト・ルーム。19世紀にソーンがデザインした、イングランド銀行の内部図に見られる、ドーム=上の絵=と、天井部分がそっくり。
1780年に英国に戻ったソーンは建築家としてのキャリアを本格的に開始したものの、最初はそうすぐに思うように仕事が来た訳ではなかった。
そんなソーンに救いの手を差し伸べたのは、かつてソーンが見習いとして働いていた時の親方ジョージ・ダンスだった。彼はダンスから仕事を分けてもらい、壊れた建物内部の修復、門のデザイン、という具合に一部分を受け持つ仕事で糊口をしのぐ。やがてそれは地方都市の教会、貴族のカントリー・ハウスと規模を大きくしていき、評判が評判を生むという形で、ソーンは着実に「イングランドを代表する建築家の一人」への道を歩んでいったのだった。
88年、ついにソーンはイングランド銀行の設計という大仕事に着手するまでになる。ソーンが35歳の時のことだ。いわゆる労働者階級の出身で、何の後ろだてもなかったことを考えると、大出世といって良いだろう。
ソーンはその後45年にわたりこの銀行の建設に携わり、ほぼ全体を作り替えるのだが、その傍らで快進撃を繰り広げる。ロンドンだけでも、セント・ジェームズ・パレス、ホワイトホール、ウェストミンスター・パレス、チェルシーのロイヤル・ホスピタル、ロンドンのフリーメイソン・ホール、マリルボン・トリニティ・チャーチ、ダリッジ・ピクチャーハウスなど枚挙にいとまがないほど、重要な建築物を次々に手がけていったのだった。
ただ、第二次世界大戦で破壊されたり近代になって建て替えが行われたりなどし、現存するソーンの建築は意外に多くない。ソーンのデザインしたイングランド銀行は20世紀になって壊され、建て替えが行われたが、美術史家のニコラウス・ペヴズナーは、これを「犯罪に近い行為」と呼んでいる。
紙芝居のような ホガースの連作絵画 |
© Tate Britain
■ロンドンに生まれた庶民派の画家ウィリアム・ホガース(William Hogarth 1697~1764)=写真右=は、鋭い観察力を駆使し、人間の普遍的な性(さが)や、ロンドンの風俗を遠慮なく描いた人気作家だった。 ① 遺産相続……父親が他界し、トムに遺産が転がり込む。彼は懐妊した婚約者に手切金を払って自由の身になろうとしている。 |