名門貴族の令嬢の耐え難き屈辱

 1930年、ヴィータは既に作家、そして詩人としての評価を得ていた。中世の時代に建てられたマナーハウス、シシングハーストがその周辺の土地と共に売りに出されたまま2年間も買い手がつかずにいるとヴィータが聞かされたのは、その春のことだった。この情報をもたらしたのは、ヴィータの同性愛の恋愛相手だった、詩人のドロシー・ウェルズリーである。
ハーストとはサクソン語で「囲まれた森」を意味し、文字通りシシングハーストは堀や森に囲まれた邸宅だった。かつては、ベーカー家という富裕な一族が所有し、メアリー1世やエリザベス1世といったイングランドの偉大なる女王たちが訪れたこともあるほどの屋敷だったという。しかし、ベーカー家の没落後は、七年戦争(*)時の捕虜収容所や農場労働者用の安い住宅施設などに使われるまでにおちぶれ、長い間手入れもされないまま、荒れ果てた廃墟となっていた。
ヴィータと一緒に物件を見に行った夫のハロルド・ニコルソンは、屋根の一部まで抜け落ちているような惨状に購入を躊躇したが、ヴィータの考えは違った。電気や水道も通っておらず、排水や暖房の設備も、何もない状態から、シシングハーストを自分達の手で再生させることを決意したのである。膨大な労力と時間がかかることは明らかだったにもかかわらずこの決断を下した背景には、ヴィータの実家である、サックヴィル家が約400年に渡って引き継いできた大邸宅、ノール(Knole)=下写真(コラム参照)=の存在があった。

 


© Diliff

 

 このノールについて述べるために、ここでヴィータのおいたちを振り返ってみよう。
1892年3月9日、ヴィータ・サックヴィル=ウェストはイングランド南東部ケントにあるイングランド最大級の大邸宅、ノールで、名門サックヴィル家・第3代サックヴィル男爵(Baron)の長女として生まれた。
サックヴィル家は、英王室の開祖である征服王ウィリアム1世と共にイングランドに来たとされる由緒ある家系で、1604年に第1代ドーセット伯爵(Earl)となったトーマス・サックヴィルはエリザベス1世のまたいとこでもあった。ヘンリー8世の時代から王室の所有だったノールを手に入れたのも、トーマスである。
第7代ドーセット伯爵、ライオネル・サックヴィルの代からは公爵(Duke)へと位が上がったが、第4代サックヴィル公爵が落馬事故で若くして急死した後に後継者となる男子がおらず、公爵の爵位は残念ながら途絶えてしまった。しかし、公爵の妹、エリザベスの嫁ぎ先だったウェスト家が家名をサックヴィル=ウェストと改めた上でノールを引き継ぎ、その子孫には新たに男爵の地位が与えられて、今日まで継承されている。
ヴィータの母親のヴィクトリア・サックヴィル=ウェストは第2代サックヴィル男爵の娘で、夫とはいとこ同士の結婚だった。つまり、ヴィータにとって父方と母方の祖父は兄弟であり、ヴィータにはサックヴィル家の血が2重に濃く流れていたのだ。
ところがヴィータにとって、当時の定めは不条理といえるほどに冷酷だった。他に兄弟がいなかったにもかかわらず、女であるという理由だけでサックヴィル家の爵位も財産も継承することができなかったのである。爵位と資産は父方の男子にのみ継承が許されるとする条件に阻まれ、父親が亡くなれば爵位とノールを含む財産はすべて、父の弟である叔父のチャールズへと渡るという事実を、苦い思いでただ受け入れるしかなかったのだ。この時に受けた、屈辱ともいえる悔しさが、ヴィータの魂からあふれでるエネルギーの源となったと言えるのではなかろうか。望むものを手に入れるための『闘い』は、ここから始まったのである。

*七年戦争(1756~63年)…プロイセン(今のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とした王国。首都はベルリン)に帰属することになった、元ハプスブルク家の領土、シレジア(現在のポーランド南西部からチェコ北東部)の奪回を目論んだオーストリアがロシア・フランスなどと組み、プロイセンに挑んだのが発端。英国はプロイセンを支援し、参戦した。

 



ハロルドと結婚してから2年ほど後に撮影された、
ヴィータのポートレート。