取材・執筆・写真/名越 美千代・本誌編集部

シシングハースト・キャッスル・ガーデンは、庭園を愛する人々のあこがれの地。
観光シーズンともなれば1日20台もの団体バスが続々と到着することもあるという。
しかし、どれほど大勢の人々が詰め掛けようと、ここにはどこか隠れ家的な雰囲気と秘められた美しさが漂う。
それは、この庭を創りあげた女性作家、ヴィータ・サックヴィル=ウェストの詩的な感性が、今も息づいているからかもしれない。

多くの役を演じた麗人

ヴィータ・サックヴィル=ウェスト(Vita Sackville-West)には肩書きが多い。 征服王ウィリアム1世の時代から続く名門サックヴィル家の娘、女流作家・詩人、エリート外交官の妻、二児の母―これだけでも十分、華やかな生涯を生きた人物と語るに足りるだろう。
ヴィータの場合、このあと、さらに続く。同性愛者、女流作家ヴァージニア・ウルフの恋人、夫と「オープン・マリッジ」を公言しつつ夫との夫婦仲を終生続けた女性。120年前に生まれ、現在より格段に保守的だったであろう英国社会で、これほど奔放に生きることは決して容易なことではなかったはずだ。

この女性をつき動かしていたものは何か。ほとばしる情熱か、とぎすまされた感性か。あるいはこうした言葉では言い表すことのできないような、魂の慟哭か。
確かなことは、この類まれなる人物が精魂を注いだ庭が、いまもケントに存在するということだ。今号では、この庭と、ヴィータ・サックヴィル=ウェストについてお送りすることにしたい。

名門貴族の令嬢の耐え難き屈辱

1930年、ヴィータは既に作家、そして詩人としての評価を得ていた。中世の時代に建てられたマナーハウス、シシングハーストがその周辺の土地と共に売りに出されたまま2年間も買い手がつかずにいるとヴィータが聞かされたのは、その春のことだった。この情報をもたらしたのは、ヴィータの同性愛の恋愛相手だった、詩人のドロシー・ウェルズリーである。
ハーストとはサクソン語で「囲まれた森」を意味し、文字通りシシングハーストは堀や森に囲まれた邸宅だった。かつては、ベーカー家という富裕な一族が所有し、メアリー1世やエリザベス1世といったイングランドの偉大なる女王たちが訪れたこともあるほどの屋敷だったという。しかし、ベーカー家の没落後は、七年戦争(*)時の捕虜収容所や農場労働者用の安い住宅施設などに使われるまでにおちぶれ、長い間手入れもされないまま、荒れ果てた廃墟となっていた。

© Diliff

ヴィータと一緒に物件を見に行った夫のハロルド・ニコルソンは、屋根の一部まで抜け落ちているような惨状に購入を躊躇したが、ヴィータの考えは違った。電気や水道も通っておらず、排水や暖房の設備も、何もない状態から、シシングハーストを自分達の手で再生させることを決意したのである。膨大な労力と時間がかかることは明らかだったにもかかわらずこの決断を下した背景には、ヴィータの実家である、サックヴィル家が約400年に渡って引き継いできた大邸宅、ノール(Knole)=下写真(コラム参照)=の存在があった。

このノールについて述べるために、ここでヴィータのおいたちを振り返ってみよう。
1892年3月9日、ヴィータ・サックヴィル=ウェストはイングランド南東部ケントにあるイングランド最大級の大邸宅、ノールで、名門サックヴィル家・第3代サックヴィル男爵(Baron)の長女として生まれた。
サックヴィル家は、英王室の開祖である征服王ウィリアム1世と共にイングランドに来たとされる由緒ある家系で、1604年に第1代ドーセット伯爵(Earl)となったトーマス・サックヴィルはエリザベス1世のまたいとこでもあった。ヘンリー8世の時代から王室の所有だったノールを手に入れたのも、トーマスである。
第7代ドーセット伯爵、ライオネル・サックヴィルの代からは公爵(Duke)へと位が上がったが、第4代サックヴィル公爵が落馬事故で若くして急死した後に後継者となる男子がおらず、公爵の爵位は残念ながら途絶えてしまった。しかし、公爵の妹、エリザベスの嫁ぎ先だったウェスト家が家名をサックヴィル=ウェストと改めた上でノールを引き継ぎ、その子孫には新たに男爵の地位が与えられて、今日まで継承されている。
ヴィータの母親のヴィクトリア・サックヴィル=ウェストは第2代サックヴィル男爵の娘で、夫とはいとこ同士の結婚だった。つまり、ヴィータにとって父方と母方の祖父は兄弟であり、ヴィータにはサックヴィル家の血が2重に濃く流れていたのだ。

ハロルドと結婚してから2年ほど後に撮影された、 ヴィータのポートレート。

ところがヴィータにとって、当時の定めは不条理といえるほどに冷酷だった。他に兄弟がいなかったにもかかわらず、女であるという理由だけでサックヴィル家の爵位も財産も継承することができなかったのである。爵位と資産は父方の男子にのみ継承が許されるとする条件に阻まれ、父親が亡くなれば爵位とノールを含む財産はすべて、父の弟である叔父のチャールズへと渡るという事実を、苦い思いでただ受け入れるしかなかったのだ。この時に受けた、屈辱ともいえる悔しさが、ヴィータの魂からあふれでるエネルギーの源となったと言えるのではなかろうか。望むものを手に入れるための『闘い』は、ここから始まったのである。
*七年戦争(1756~63年)…プロイセン(今のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とした王国。首都はベルリン)に帰属することになった、元ハプスブルク家の領土、シレジア(現在のポーランド南西部からチェコ北東部)の奪回を目論んだオーストリアがロシア・フランスなどと組み、プロイセンに挑んだのが発端。英国はプロイセンを支援し、参戦した。

失われた夢を取り戻すための地

1913年に、外交官だったハロルド・ニコルソンと21歳で結婚するまでの21年間を、ヴィータはノールで暮らした。
子供の頃から活発ながら孤独な少女でもあったヴィータは、広大なノールの中を探検して遊んだ。17世紀から先祖が住み続けている大邸宅と豪華な調度品。引き出しの中や屋根裏部屋に仕舞いこまれた珍しい品々。家中に掲げられたサックヴィル家歴代の肖像画と彼らの魅惑的で興味深い人生。
ノールでサックヴィル一族の歴史に触れながら成長するうちに、ヴィータは先祖代々の思いをすべて引き受けたかのような情熱で、この家を誰よりも深く愛するようになったに違いない。だからこそ、女だというだけでノールを継承できないという事実はヴィータを苦しめ、そして悲しませたはずである。ヴィータが結婚前に友人宛に出した手紙には「ノールを去らねばならないことは、棺を覆う黒い布のように私に重くのしかかっている」と書かれていたという。
新婚のヴィータとハロルド夫妻は、ハロルドの海外赴任先でしばらく暮らした後に英国へ戻り、1915年にノールからほど近いセブンオークス・ウィールドに不動産を購入し、居を構えた。まだ若かった夫妻はロング・バーンと呼ばれるこの家で庭作りに力を注ぐようになり、この経験が後のシシングハーストでの庭づくりで生かされることになる。

客人をもてなすのに使われたライブラリー(読書室)
© National Trust Images/John Hammond

ノールから離れても、ヴィータの心は常に、大切な思い出の家とつながっていた。彼女にとって、荒れ果てたシシングハーストは過去に失なった夢を描き出すための真っ白なキャンバスに見えただろう。しかも、一族で最初にノールの主となったトーマス・サックヴィルの妻は、実は、シシングハーストをかつて所有していたベーカー家の出身であったという由縁まであった。ヴィータには、「失われた過去を取り戻すために力を尽くせ」と先祖から声をかけられているように感じられたかもしれない。この時ヴィータは38歳。ノールを出てから17年の月日が経っていた。

ライブラリーの暖炉の上に飾られている、ヴィータの肖像画。
© National Trust Images/John Hammond

とはいえ、ノールほどの大邸宅を再現することはもちろん不可能に近い。そこで、ヴィータとハロルドが考え出したことは、全体の設計にあたって、庭部分を部屋に見立て、その「庭部屋」と現存する建物とをつなぎ、さながら大邸宅のように再生させるというものだった。
シシングハーストの南側に位置する『サウス・コテージ』にはまず、ヴィータとハロルド、それぞれのための寝室と、バスルーム、及び書斎と居間がしつらえられた。
一方、北側には、もともとは教会の司祭のために建てられたという『プリースト・ハウス』があったが、こちらには、ふたりの息子のベンとナイジェル、及び調理人の部屋、そして台所と食堂が設けられた。『サウス・コテージ』と『プリースト・ハウス』の間は屋外なのだが、夫妻はこの部分も「屋敷内」として捉え、例えば、朝、寝室で目覚めてから朝食が用意された食堂へ向かうために、庭という「部屋」をいくつか抜けて行く、というコンセプトで庭作りを進めた。こうして、ミニアチュアサイズではあるがノールの精神を受け継ぐ邸宅が再現されたのだった。

常識破りの愛の形

ここで、ヴィータとハロルドという夫妻の特殊な関係について、述べておこう。 ヴィータは早くから文章を書くことに目覚め、10代で既にサックヴィル家の先祖をモデルにした小説を書いていた。作家としてデビューしてからの彼女の作品では1930年に著された『エドワーディアンズ』 という小説が最もよく知られているが、詩作においても高く評価されており、想像力に富む文学作品に与えられるホーンソーン賞を2度も受賞している。

BBCラジオに出演したハロルド(撮影時期は不明)。© BBC

ヴィータの創作活動にも影響を与えたと思われるのが、ブルームズベリー・グループの存在だ。
このグループは、1905年から第二次世界大戦期にかけて、英国芸術家の知的サークルとして知られた集まりで、同性愛に寛容だった。ヴィータは、早い段階から自分が同性愛者でもあることを認めており、同性愛に理解を示してくれる、ブルームズベリー・グループのメンバーとの付き合いは彼女にとって心地の良いものであったことだろう。ヴィクトリア朝時代には、同性愛は犯罪とみなされ、オスカー・ワイルドのように投獄される者が出るほど、道徳規範に厳しかった英国である。ヴィータが同グループと近くなったのも説明がつく。

ヴァージニア・ウルフ(Adeline Virginia Woolf 1882~1941)。 うつの症状に苦しみ、59歳の折、コートのポケットに石をつめて自宅近くの川に入水、自ら命を絶った。

ヴィータは、10代の頃から同性の恋人を持ち、ハロルドとの結婚後も複数の相手と恋愛を繰り返している。恋人の中には、英国の20世紀モダニズム文学における主要作家、ヴァージニア・ウルフもいたのは有名な話だ(右コラム参照)。相手のハロルドは、後に国会議員や作家としてもキャリアを築くエリート外交官だったが、彼もまた同性愛者であり、妻以外に男性とも関係を持っていた。
夫妻はお互いの恋人については暗黙の了解とする「オープン・マリッジ(開かれた結婚)」の形を取っており、家庭の外での恋愛で夫婦関係が壊れることはなかったようだ。それどころか、お互いに心から愛し合っており、離れている時には毎日必ず手紙を書くほど仲がよかったという。ヴィータとハロルドは、類まれなるパートナー同士であり、この出会いは、ふたりにとって、そしてシシングハーストにとってこのうえなく幸運なものだった。

ヴァージニア・ウルフからの恋文
『オーランドー』

●ヴィータは1920年代に英国を代表する女性作家・ヴァージニア・ウルフ(1882~1941年)と知り合い、恋人関係になった。ウルフの代表作のひとつ、『オーランドー(Orlando)』(1928年)は、エリザベス1世時代に男として生まれたオーランドーが、4世紀もの時を生きることになり、しかもその間に女にもなってしまうという不思議な物語で、ヴィータをモデルに書かれた作品だ。


●オーランドーは名門貴族の生まれという設定。また、のちに詩人となって賞を取るなどヴィータの伝記的な要素を数多く含んでおり、ヴィータの恋人だったヴァイオレット・ケッペルや夫のハロルドを彷彿させるキャラクターも登場する。

●オーランドーが女になったばかりに失う羽目になる大邸宅も、ヴィータの実家のノールがモデルとなっているが、小説の結末はヴィータが味わった現実とは異なり、オーランドーは一度は失った邸宅を取り戻すことに成功する。作品を読んだハロルドはヴィータに「この本の中で、君はノールとずっと一緒にいられる。僕と君が死んだ後も何年も、永遠に」と言ったという。ウルフは、愛するものを引き継ぐ権利を奪った貴族社会の決め事に怒りを抱えていたヴィータを気の毒に思い、小説の中だけでもヴィータの夢をかなえてやったのかもしれない。

●ヴィータの息子で作家のナイジェル・ニコルソンも『オーランドー』について、「文学史上、最も長く、最も魅惑的なラブレターだ」と、著書の中で評している。

●『オーランドー』は、1992年に映画化もされており、ティルダ・スウィントンが男装の麗人を演じている(『オルランド』サリー・ポッター監督)=写真上。

正反対の好みが溶け合った空間

結婚という枠組みからみると、進歩的、いや、常識を超越した夫妻だが、シシングハーストでの庭造りにおいてなにか革新的で新しいことを試みようとしたわけではない。
ただ、ハロルドは直線を生かした幾何学的な設計によって英国庭園の伝統的な優雅さや厳格さを保つことを好み、一方ではヴィータが、自由奔放な詩人の感覚で植栽を行い、室内に装飾を施すように花壇に色とりどりの花をあふれさせて、ロマンチックで自然な風合いを加えた。この結果、ふたりのコラボレーションは、現代でもなお多くの支持を受ける名園を生み出すに至るのだ。
ヴィータは庭づくりへの姿勢について聞かれた際、「最も直線的な厳格さで決め込まれた範囲のなかで、豊かであること、あえて言えば、無節制なくらいに、あふれるほど生い茂らせること」を実践していると語っている。ハロルドがいてこそ、自分の庭造りが生かされることを理解していたのだ。強い信頼関係の中でお互いを尊重し、異なる個性のどちらもなくてはならない存在としてうまく融合させ、新しい形を生み出す。ここには、夫妻が成り立たせてきた特異な関係が投影されていると言えるだろう。

タワー内にある、ヴィータの書斎
© National Trust Images/ John Hammond
細かく区切られたシシングハーストの庭は、「各部屋」毎にそれぞれ、異なる色やテーマで特徴づけられている。正門を入るとまずは、青々とした芝を中心とした『トップ・コートヤード』に入る。周囲を囲むレンガの石壁の薄ピンクと芝の緑が、来客を穏やかに受け入れる雰囲気を醸しだしている。ハロルドは「良き英国庭園では水、木、生け垣、そして芝が基礎となる」と考えており、シシングハーストでも全体的に芝と生け垣を多用している。
『トップ・コートヤード』の北側には紫の植物を集めた『パープルボーダー』。20世紀初頭に庭園デザイナーとして知られ、ヴィータの庭造りにも影響を与えたガートルード・ジェキル女史は、紫色は重くなるので多用しないようにとヴィータに忠告したそうだが、敢えて紫を中心として花壇を作るところが自由人のヴィータらしい。紫と言っても実際には、ピンク味や青味がかった紫をうまく組み合わせたものになっているという。

長イスは、ヴィータが読書をする時に好んで使ったものという。
© National Trust Images/ John Hammond
また、『デロス』と呼ばれた一角はギリシャの島にちなんで名づけられたもの。夫妻は、共に旅をした思い出の地のひとつである地中海沿岸地域の木立を再現しようと試みた。しかし、雨や曇りの日が多い英国の気候に阻まれ、残念ながらこの試みはうまくいかなかった。現在では、英国の野生の森と茂みをテーマにした庭へと作り変えられている。
「作り変える」と書いたが、シシングハーストの魅力のひとつとして、今も多くのスタッフにより、進化し続けている点が挙げられる。ヴィータとハロルドが築き上げた基本を守りつつ、ガーデニング・チームにより注意深く選ばれた草花が植えられ、四季が彩られる。どの場所を取り上げても、ヴィータとハロルドに最大の敬意が払われていることは言うまでもないだろう。

息子が世に出した 『ある結婚の肖像 ― ヴィータ・サックヴィル=ウェストの告白』

●ヴィータが、恋人だったヴァイオレット・ケッペル(結婚後はトレフュシス)との愛のあらましを綴った原稿を息子のナイジェルがまとめて発表したものが『ある結婚の肖像(原題Portrait Of A Marriage: Vita Sackville-West and Harold Nicolson)』だ。

●ヴィータは、10代の頃から既にヴァイオレットと恋人関係にあり、ハロルドと結婚して2人の息子を授かってからも関係を続けていたという。このほか、幼い子供を残してヴァイオレットとフランスへ旅に出た際には人目をごまかすために男装までしていたこと、ヴァイオレットの結婚に嫉妬するあまり、ヴァイオレットと駆け落ちまがいの行動にまで出ていたこと、ハロルドも同性愛者であり、家庭の外で男性と性的関係を持っていたことなど、当時どころか、今読んでもセンセーショナルな出来事が赤裸々に描かれている。

●これらの原稿は、1962年にヴィータが70歳で亡くなった後に、鍵付きのトランクからナイジェルが発見したものをまとめたという。いったいどうして、家柄もよく、社会的に高い地位と名声も得ていた両親のスキャンダルを、彼は敢えて世間に発表したのだろうか。幼い息子達をほったらかして色恋沙汰に大騒ぎしていた両親に対して、戸惑いや悲しみは感じなかったのだろうか。

●ナイジェルの答えはこうだ。「結婚は1対1の関係であるべきだとか、男は女だけを、そして女は男だけを愛するべきであるとか、そんなしきたりを母ははねつけて、愛と男女の権利のために戦ったのです」と、母親を称賛している。

●もしかするとナイジェルは、たとえ両親が常に他の誰かと恋愛していたとしても、それはお互いに完全な自由を認めることができるほど成熟した関係だったからであり、夫婦の愛情がこれによって変わることも影響を受けることもなく、それどころか難局を乗り越えることによってさらに絆は強まっていたのだと、訴えたかったのではなかろうか。実際のところ、ヴィータとハロルドの結婚について知れば知るほど、見た目は奇妙ではあっても実は最も幸福なものだったのかもしれないと思えてくるのだ。

部屋に見立てた庭

シシングハーストの庭は1938年から一般に公開されるようになったが、世間に広く知られるようになったきっかけは、ヴィータが1947年から始めた、英国日曜紙『オブザーバー』の園芸コラムだった。
ガーデニングに関する実用的なアドバイスが主であったが、同時に好きな植物に対するヴィータの情熱もほとばしり出ていた。特に、中世の古いタペストリーにあしらわれているような花、長い歴史を感じさせるような植物をヴィータは好んでおり、『ローズ・ガーデン』に見られるオールド・ローズはその一例だ。
『ローズ・ガーデン』が最も美しいのは6月後半から7月初旬。バラが咲き誇るかたわらで、石壁に沿って配されたイチジク、ブドウ、クレマチスが夏の陽光を謳歌し、土壌が見えないほど咲き乱れる花の色と香りで、むせ返るほどになる。 かたや、夫妻が暮らしていたサウス・コテージから見下ろす位置にある『コテージ・ガーデン』は夕焼けのイメージで作られており、赤や黄色、オレンジといった鮮やかな色の花が使われている。
『ハーブ・ガーデン』は、一般的なハーブ・ガーデンと違って台所から一番遠い場所にしつらえられているが、これは、ここのハーブが食卓への利用を目的としておらず、庭で香りと美しさを楽しむためのものだったからだと思われる。 そして、シシングハーストで最も人をひきつけているのが、全体を白で統一した『ホワイト・ガーデン』。もともとはバラ園だったが、バラが育ちすぎて手狭になったため、1949年の冬にバラを現在の『ローズ・ガーデン』へ移し、代わりに白い花や銀系の葉の植物を集めることにしたのだという。「部屋」としてのキャラクターが最後に確立された一画であり、詩的な舞台効果と園芸の専門知識や伝統的な手法が融合して、ヴィータとハロルドの狙いが最高の形となって現れた場所となっている。
『スプリング・ガーデン』は、接木されたライムの木とそれに沿った花壇が平行して並んで並木道を作り出しており、『ライム・ウォーク』とも呼ばれている。ここではハロルドが設計だけでなく植樹も担当した。ヴィータも、直角と直線の様子が(ロンドン地下鉄の)チャリングクロス駅のプラットホームのようだと評しつつも、この並木道をとても気に入っていたという。

全身全霊をかけて続けた共同作業

シシングハースト内でも、特に人気の高い『ホワイト・ガーデン』
© National Trust Images/Jonathan Buckley

シシングハーストでは、「部屋」毎にテーマが異なり、花の盛りの時期も違えば、かもし出す雰囲気もそれぞれ異なることは既に述べた。それを意識したうえでの散策をお薦めするが、歩きながら、時折後ろを振り返ったり、横を見渡したりすることをお忘れなく。室内でドア越しに隣の部屋を覗くように、ひとつの庭から次の庭が垣間見え、新たな表情が発見できる。楽しみが増すような仕掛けがあちらこちらに施してあるのをみつけるたびに、喜びが積み重なっていくのを感じることだろう。
ハロルドは、直線的なレイアウトによって庭と庭を分断したり、結合させたりして、ヴィータのために様々な「部屋」を持つ「広い屋敷」を用意し、ヴィータがそれぞれの「部屋」を仕上げた。この二人の共同作業の全体像をつかむのに最適な場所は、コートヤードにある『タワー』の屋上だ。ここに登れば、庭とその先に広がるケントの景色を一望することができる。『イチイの小道(Yew Walk)』の直線的に美しく刈り込まれた生け垣やハロルドの幾何学的な設計を、その目で確かめていただきたい。

生垣と生垣のあいだに視線を走らせると、彫像など、 「何か」が目に入るよう工夫されている。
さらに、『タワー』には、ヴィータが仕事場として使っていた書斎があり、当時の部屋の様子が再現されている。天気の良い夏の日には庭からの花の香りが窓から流れ込んできたことだろう。ヴィータはまた、同性愛の恋人もここへ招待していたそうだが、ハロルドは、自宅からは離れた場所で恋人と会っていたという。

庭の外にはレストラン、ショップ(素敵なお土産がみつかる可能性高し)のほか、 ビールの原料のひとつであるホップの貯蔵庫もある。 ちなみに、ケントはホップの産地としても知られる。
また、『ライブラリー(読書室)』も必見だ。エリザベス朝時代に馬小屋として使われていたものを改築したもので、夫妻は「ビッグ・ルーム」と呼び、居間兼書斎として利用していた。置かれている調度品や壁にかけられたヴィータの祖先の肖像画などからは、夫妻がここでもノールの面影を追っていたことが見て取れる。庭と同様にこの部屋も、ヴィータが男に生まれなかったばかりに失った遺産の記録なのかもしれない。

庭を流れる濠(ごうmoat)のほとりに佇むパヴィリオン(Gazebo)。ハロルドの亡くなった翌年、息子たちが父親をしのんで建てた。
ヴィータは結局、自らの資産をすべて、シシングハーストの再生につぎ込んだといっても過言ではない。晩年に体調を崩してからも、庭用の資金を稼ぎ出すために『オブザーバー』紙へのコラムを書き続けている。
ヴィータは、亡くなる前年にハロルド宛に書いた手紙に、「私たちはベストを尽くした。そして、どこにもないような庭を創りあげた」と書いた。1962年に亡くなった際には、後世に残るものを一生をかけて生み出したことに、深い満足を覚えていたに違いない。

夫妻の寝室や浴室があった、サウス・コテージの入り口。戸口の前に見えるイスに、ハロルドが座っていた写真が残っている。
先祖から引き継いできたものを失ったという喪失感と罪悪感を、シシングハーストという庭を生み出すための強いエネルギーに変えて昇華させたヴィータ。しかし、その燃える思いを支え続けた夫・ハロルドのヴィータへの愛も、計り知れないほど大きく強い。ヴィータに先立たれた後のハロルドは孤独と悲しみに打ちひしがれた。シシングハーストを訪れた人々は、頬に伝わる涙を拭こうともせず、庭に座るハロルドの姿を見たという。

『ノール(Knole)』

● ケントのセブンオークスにあるノールは、365部屋に52の階段、そして7つの中庭を擁する、イングランドでも最大クラスの大邸宅。ノールとは「緑の丘の上の家」を意味し、実際に1,000エーカー(およそ4平方キロメートル)の緑地に囲まれている。

● 15世紀半ばにはカンタベリー大司教の公邸であったため、広大な敷地内にはチャペルもあり、ヴィータの洗礼式も結婚式もここで行なわれた。1歳半のヴィータが従者に付き添われて初めて歩いたのは中庭のひとつであったし、男の子の遊びが好きだったヴィータは庭でゴルフも楽しんだ。成長したヴィータが崇拝者からロシアの子グマを贈られ、その子グマに鎖をつけて庭を散歩させたこともあったという。

● また、ヴィータによれば、祖父の第2代サックヴィル男爵、ライオネル卿は「変わり者で静かで、何時間も花をみつめているような」庭好きの老人だったそうで、ヴィータの庭づくりへの情熱は祖父から受け継いだものなのかもしれない。

● 1日ごとに部屋を取り変えても1年かかるほどの広い邸宅内には、先祖代々の肖像画に古典絵画、豪華な家具や織物など、ナショナル・トラストの管理下にある現在でも『世界に誇れるレベル』という調度品が並んでおり、ジェームズ1世が滞在したことから『キングズ・ルーム』と呼ばれる部屋もある。

1709年当時のノールをえがいた図録(『Britannia Illustrata 』より)。 宮殿のような規模を誇る、豪邸であることが良く分かる。

● 大広間の間仕切りを見上げればサックヴィル家の紋章がレオパルド(ヒョウ)に支えられる形で堂々と刻まれているなど、どこを見てもサックヴィル家の歴史の偉大さを感じさせるものばかり。ノールとその歴史がヴィータの作品に数多くのインスピレーションを与えたことも納得がいく。なかでも、子供心にヴィータが気に入っていたのは、ボールルームの壁面に帯状に施された男女の人魚の彫り物だったという。

● 人は誰しも自分が生まれ育った家には愛着があるものだが、ノールを見れば、ヴィータの場合ははるかに愛着の度合いが違うであろうことや、なぜ、ヴィータがあれほどまでにノールに執着したのかがわかるだろう。

ノール(Knole)Sevenoaks, Kent TN15 0RP(位置検索の際にはTN13 1HUとご入力を)Tel: 01732 462100
www.nationaltrust.org.uk/knole

Travel Information ※情報は2013年6月17日現在のもの。

Sissinghurst Castle
シシングハースト・キャッスル・ガーデン

Biddenden Road, near Cranbrook, Kent TN17 2AB
Tel: 01580 710 701
www.nationaltrust.org.uk/sissinghurst

1760年ごろのものとされる、シシングハースト・キャッスルを描いた図。 現在、残っているのは黄色いラインで囲われた部分のみ。
© National Trust Images

開場期間 (2013年) ※12月24・25日はすべて閉場
■庭:3月1日 ~11月3日 11:00 - 17:30
※11月4日~30日、庭は閉場
12月1日 ~31日 11:00 - 15:30

■ショップ&レストラン:3月1日 ~11月3日 10:30 - 17:30
11月4日 ~12月31日 11:00 - 16:00

入場料 (2013年)
チケット購入時に、庭の見取り図が掲載された パンフレットを必ずピックアップすること!
大人 10.80ポンド (ギフト・エイド込みの場合は11.90ポンド)
子供 5.20ポンド (ギフト・エイド込みの場合は5.80ポンド)

週刊ジャーニー (2013年6月20日)掲載