絶対的な存在として君臨

 結局、欧州滞在は18年間にも及び、英国に腰を落ち着けるべく戻ったのは、1860年、30歳のときのことだった。欧州滞在の際に中東の文化や美術の影響も強く受けたレイトンは、オリエンタリズムの画風にも強い影響を受け、自身もコレクターになるほど中東の陶磁器や布地、工芸品などに魅せられた。この嗜好は、レイトンが自邸を、さながら自らの美術作品のように仕上げていく過程で、色濃く反映されることになる。
さて、ロンドンに戻ったレイトンはラファエル前派の人々との交流を深めるようになった。また、1864年にはロイヤル・アカデミーの準会員に選ばれ、1868年にはロイヤル・アカデミー会員、さらに1878年にはロイヤル・アカデミーの会長に就任、以後20年近く会長として君臨し、英美術界における彼の地位は絶対的なものとなった。
ギリシャ神話で、全知全能の最高神として描かれるゼウスになぞらえ、レイトンを「英美術界の『ゼウス』」と皮肉る言葉が聞かれたというから、その存在は、良い意味でも悪い意味でも、英美術界、ひいては英国の上流社会で、極めて目立つものだったと想像できる。
同じく1878年には、ウィンザーで勲爵位を授けられ、准男爵となる。
このように名実共に、英美術界の頂点をきわめたレイトンだったが、1890年代になると、健康状態が優れなくなり、体調を崩すことが多くなる。
1896年1月24日、レイトンの名が新年の叙勲リストに記された。これにより、ストレットン男爵フレデリック・レイトン卿が誕生することになる。
ところが、めでたく貴族となったその翌日の25日、レイトンは狭心症の発作を起こし、姉のアレグザンドラ、妹のオーガスタが見守るなか、この世を去る。享年65。あまりにも突然の幕切れだった。病床で、徐々に弱っていくような終わり方ではなく、栄誉の頂点で、まるで大輪の花が前触れもなく落ちるかのような最期だった。
こうして、わずか1日だけの貴族となってしまったレイトンだが、「ロード」を名乗ることができる、男爵位以上の爵位を与えられたのは、英美術界では後にも先にも彼ただひとり。また、終身(一代)貴族として過ごしたのが1日のみというのは、英史上、最短記録であるという。
死するときにもなお、巨大なインパクトを世間に与えたレイトン。今は、セント・ポール大聖堂で偉大なる建築家クリストファー・レンの隣りに眠っている。

 



1881年に発表された、レイトンの自画像。フィレンツェにあるウフィツィ美術館が所蔵している。

 

 

神秘的なイメージを確立させた巨匠

 フレデリック・レイトンは、一体どのような人物だったのだろうか。
伝えられるところによると、レイトンは「太陽神アポロンの優美さと全能の神ゼウスの威厳を持つ」といわれるほどの才能と美貌を備えていたという。富裕な家庭に生まれ、知的でハンサム、魅力的でエレガント、絵の才能はもちろん、語学にも堪能、そして王室にもゆかりがあるという、まさに誰もが羨むような条件が揃っていた。
さぞかし女性たちにモテたと思われるが、逆に、威厳のある風貌とはうらはらに、晩年に太るまでは、胸板は薄く、なよっとした体型で、女性を落胆させていたという正反対の説もある。
極端な諸説があるのは、私生活があまりに謎に包まれているためであろう。
レイトンはプライベートをあまり表にしない性格で、その素顔を極力見せなかった。結婚せず、一生涯を独身で過ごしたことから、ホモセクシュアル説も根強い。また、若かりし頃の欧州旅行中にローマで出会ったオペラ歌手のアデレード・サルトリのことが忘れられず、独身を貫いたという説もある。
ふたりが出会った当時、レイトンは22歳、サルトリは38歳。年上の憧れの女性への思いが強かったとされるレイトンは、生涯彼女を越える女性に出会うことができなかったのかもしれない。
その一方で、モデル女性のひとりと昵懇の仲になり、密かに子供ももうけたという説もある(下コラム参照)。
今回、博物館内を案内してくれたガイドのイーディーさんにレイトンの私生活について尋ねると、「レイトンは仕事に没頭する人でしたから、忙しすぎて結婚する暇もなかったんでしょう。それに孤独を好む性格でもありました。いわば、芸術と結婚したといえます」と、レイトンを庇うニュアンスのある答えがかえってきた。
実際、博物館内にある彼の寝室は、小さいベッドが置かれているだけという簡素さがきわだつ部屋だった。
邸内の豪華な部屋と比較すると、驚くほど質素で、まったく釣り合わないほどだ。この地味な寝室を舞台に情熱的な恋愛物語が繰り広げられたとは、とても思えない。いや、もともと、他人を寝室に入れないという強い確信のもとに、この寝室をデザインしたと言うべきか。
美しいものにこだわりがあるはずのレイトンの寝室が、なぜここまで地味なのか、興味をかきたてられるところだが、答えは想像の粋を出ないようだ。
レイトンの私生活に関係する記述は日記や手紙に残されておらず、その隠された素顔を探るよすがは、彼の作品にしかない。
レイトンの作品は、中世の歴史画や聖書や古典にまつわるテーマが多く、礼節や道徳を重んじたヴィクトリア朝時代らしく、派手で衝撃的な要素は少ない。一方で、美しい女性たちを描いた作品も多い。
レイトンは作品を手がけるとき、モデルに全裸になってもらい、骨格や筋肉の具合も丹念に観察してスケッチをしてから、カンバスに向かったという。この辺り、医師一家の出身というレイトンの人体へのこだわりが伺えるエピソードだが、美しい全裸のモデル女性と画家という間柄は、どのようなものだったのだろう。
彼の作品に描かれた女性たちは、決して扇情的ではないが、内側から滲み出てくるようなしっとりとした艶めかしさをも持ち合わせているように見受けられる。このような女性の姿を描くことができるレイトンがホモセクシュアルだったという説には疑問が残る。
レイトンは、ギリシャ神話のナルキッソスの如く、自身の才能と美貌に恋していたのか。それとも、あまりに完璧すぎて、自身のプロフィールに釣り合う女性が見つからなかったのか。あるいは、秘密の恋に身をやつしていたのか。
博物館内部を探索しながら、様々な思いをめぐらしてみていただきたい。

 



遺作となった『クリュティエClytie』。
クリュティエは、太陽神アポロンを恋いながらも疎まれ、
悲しみのあまり憔悴死した女性で、ヒマワリに生まれ変わったとされている。
ヒマワリが常に太陽に向かって咲くのはそのためという。
レイトンの「生」への執着が表現されているとも言われる作品。

 

隠し子がいた?

繰り返しになるが、一生を独身で過ごしたレイトンの私生活は謎に包まれている。ゲイだったという説が根強いが、実際同性愛者だったという証拠になるものはない。

日記や回顧録などがいっさい残されていないため、レイトンには隠し子がいたという噂もまことしやかに流れ、それを否定する有力な証拠もまだ挙げられていない。

子供の母親とされるのは、お気に入りのモデルのひとりだったドロシー・ディーンDorothy Dene=写真。本名をアダ・アリス・プーレンといい、1859年にロンドンで生まれた。ドロシーが20歳だった1879年にふたりは出会い、以降、レイトンの『ミューズ』として、『フレイミング・ジューン』をはじめ、 数多くの作品のモデルを務めた。

ドロシーは女優を目指していたが、コックニー訛り(ロンドンの下町言葉)が強く、レイトンは彼女の訛りを直すのに協力を惜しまず、これがジョージ・バーナード・ショーの戯曲「Pygmalion」(後に『マイ・フェア・レディ』としてミュージカル化された)のネタになったともいわれている。

ドロシーには、ヘッディ、エディス、リナという3人の姉妹がおり、それぞれレイトンの絵のモデルを務めている。レイトンは彼女たちを特別にかわいがり、姉妹宛に遺産も残している。

しかしながら、ゲイ疑惑同様、隠し子についてはもちろん、レイトンとドロシーが男女関係にあったのかについても何の物的証拠がないため、真偽は明らかになっていない。たとえ、ドロシーがレイトンの恋人であったとしても、王立芸術院のトップと、下町出身のモデルという身分の差に加え、親子ほどの年齢差もあったことから、結婚には至らずに秘密の関係を続けるしかなかったのではないかと推察するのみである。