作家トーマス・ハーディが手がけた建築設計

 サマー・ロッジが建てられたのは、今から200年以上前の1789年のこと。この辺り一帯の土地を所有していたイルチェスター伯爵の2代目、ヘンリー・トーマスは、未亡人となった母親のために、瀟洒な別宅を建てた。当時、裕福な貴族がこうした別宅を建てることは珍しくなかったらしく、「ダウアー・ハウス」(寡婦=未亡人の館)という言葉が確立されていた。4エーカー(1・6ヘクタール)の敷地に建てられたサマー・ロッジは、高貴な家の未亡人が住むのに、寂しすぎることも、逆にわびしすぎることもない、ほど良いサイズの「ダウアー・ハウス」として誕生したのだった。
100年の歳月を経た1893年、6代目イルチェスター伯爵は建物を拡大することを決め、親交のあったトーマス・ハーディ(Thomas Hardy)に依頼した。
ハーディといえば、『ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles)』『日陰者ジュード(Jude the Obscure)』などの小説で知られる作家。なぜ作家に建築を? との疑問に対する答えを探るべく、彼の生い立ちを覗いてみたい。
石工職人だった父親の下、ウエスト・ドーセットのハイアー・ボックハンプトン(Higher Bockhampton)で生まれたハーディは、16歳のときに父を手伝い、古城の修復にかかわることになった。古城の所有者であった建築家のジェームズ・ヒックス(James Hicks)は若いハーディの仕事ぶりに才能の片鱗を見いだすと、見習いとして修行させることにした。石工職人だった父から見れば、息子が建築家になるチャンスを与えられたことは、誇らしいことだったに違いない。5~6年の修行時代を経て、ハーディはロンドンへと居を移し、今度は著名な建築家、アーサー・ブロムフィールド(Arthur Blomfield)に師事し、さらなる修行を積む。彼の書いた建築論文は、英国建築界の権威である王立英国建築家協会から評価を得るなど、建築家としての資質は着実に磨かれていった。ところが、この頃からハーディの情熱は執筆活動に傾きはじめる。ドーセットに戻り、建築家として再びヒックスの下で働きながら、1867年に最初の小説『The Poor Man and the Lady』を執筆。しかし彼の原稿はどの出版社にも受け入れられることはなかった。あきらめることなく執筆を続けた彼の努力がようやく報われたのは1874年。当時34歳だったハーディは『遥か群集を離れて(Far From the Madding Crowd)』で執筆を生業とするのに十分の読者を獲得するのだった。
彼はドーセットを中心とする田園地帯を舞台とした作品を多く残しており、その美しい自然が小説の中にたびたびえがきだされている。その世界を求めてこの地を訪れる人は今も少なくない。
話をサマー・ロッジに戻そう。6代目イルチェスター伯爵が建築設計を依頼した当時、ハーディは50代半ばにさしかかり、作家としての肩書きを確固たるものにしていた。しかし建築家としての知識を持ち、審美眼の備わった彼に建築設計を依頼するのは至極まともなこと、いや、それどころか至極贅沢なことだったろうと推測できる。これにより拡張されのが前述のラウンジだ。完成した邸宅で、1893年当時の住人たちがどんな風に過ごしたかと想像を巡らすと、このラウンジで、時が経つのを忘れて日がな過ごしてみたいという衝動に駆られた。



トーマス・ハーディ Thomas Hardy
(1840年6月2日~1928年1月11日)
自然主義の古典作家として世界中にファンを持つ英作家・詩人。
代表作『日陰者ジュード』は、古典英文学の定番と評される。
だが出版当初は酷評され、それ以降小説執筆を辞め、詩作に専念した。