◆熱血図書館司書、パニッツィ登場
大英博アントニー・パニッツィ=上のイラスト=は、大英博物館内のリーディング・ルーム(現グレートコート内に建つ)=写真下=のデザインにも関わった。カール・マルクスなどの著名人がここで研究と著述に没頭した。
大英図書館ができるまでの流れをざっと振り返ってみた訳だが、ひとり、ここでどうしても触れておきたい人物がいる。
その名をアントニー・パニッツィという。 もとは英国人ではない。本名はアントニオ・ジェネズィオ・マリア・パニッツィ(Antonio Genesio Maria Panizzi 1797~1879)で、イタリアの出身だ。モデナ公国のブレスチェッロという町に生まれた。パルマ大学で法を学び、学位を取得して1818年に卒業。その頃のイタリアはまだ統一されておらず(イタリア王国が統合されるのは1861年)、各地で地元諸侯と、統一を目指す革新派による争いが繰り広げられていた。
パニッツィも血気盛んな若者だったようで、故郷に戻って学校の監察員として働くかたわら、統一を夢見る革新派のメンバーとして活動に従事。22年にモデナ公国の警察長官が暗殺される事件が起こると、革新派は続々と逮捕され、処刑される者も出た。パニッツィは、警察の手が迫りつつあると密かに知らされ、あわててスイスに逃亡。同国で、革新派に対するモデナ公国の弾圧を、公然と非難する本を著して出版したのだった。この著作を発表したことにより、パニッツィは不在裁判で死刑を宣告されてしまう。
帰郷は死を意味する。
1823年5月、パニッツィは英国への亡命を選んだ。
当初は英語が話せず、イタリア語やイタリアの歴史を教えるなどして生活の糧を何とか得ていたが、31年、つてを頼って、大英博物館の図書館部門に職を得た。もともと、図書館司書としての仕事に興味があったのかなかったのかは不明ながら、パニッツィがこの職に就いていなかったら、英国の、いや世界における図書館の発展の歴史はまた違ったものになっていただろう。それほどに、パニッツィは図書館業務に深く関わっていくことになる。
32年には英国籍を獲得。故郷にはもう戻れないという事実は、愛国心あふれるパニッツィにとって、受け入れるのが容易ではなかったと想像できるが、他に選択肢はなかった。パニッツィはその悲しみや怒り、不満といった感情を、図書館業務への情熱に昇華させたようである。 順調に『出世』を果たし、56年にはついに図書部門のトップの座に就く。この『出世』を彼にもたらしたのは、大英博物館図書部門の蔵書目録の再編成作業だった。それまでの蔵書目録は、蔵書名をだらだらと書き連ねたリストにしか過ぎなかったのである。
パニッツィは各蔵書について、著者名、出版社名、出版年などの情報を、形式を定めて記録。これを用いて、図書部門の利用者が、自分の探す蔵書を検索することを可能としたのだった。彼は自分の考案した目録作成法を『91ヵ条の目録規則(Ninety-One Cataloguing Rules)』にまとめた。
大英博物館図書部門では、前世紀半ばまで、これにのっとって目録が作成されたほか、パニッツィの『91ヵ条の目録規則』は、世界各国で図書館の目録作成の基礎として用いられ、彼は「近代目録法の祖」と呼ばれた。
57年には、現在、グレートコートと呼ばれている施設の一部として、旧リーディング・ルーム(閲覧室)が大英博物館の敷地内に建てられたが、これに関わったのもパニッツィである。
一方、42年の『著作権法(Copyright Act)』に関しては、その成立に尽力。この『著作権法』にもとづき、大英博物館図書部門は、「中央図書館」としての性格を与えられ、刊行物は出版されるたびに1冊、寄付することが義務付けられた。しかし、従順な発行人や出版社ばかりではなく、最初は寄付を渋る者も少なくなかった。パニッツィは屈強な男たちを雇い、出版社や発行人のもとに赴かせ、刊行物を集めさせたというエピソードが残っている。
69年には、ヴィクトリア女王からナイトの爵位を賜ったパニッツィは、79年、ロンドンで逝去。ケンザル・グリーンのカトリック墓地に眠っている。合理的な発想と、類まれな行動力、そして、時には頑固者ともいわれたが、物事をやり遂げるに必要な強い意志を兼ね備え、そして何より熱い血をたぎらせた人物だった。余談ながら、大英図書館内には彼に敬意を表し、今も「パニッツィ・ルーム」と名づけられた会議室があるという。
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