献立に困ったらCook Buzz
献立に困ったらCook Buzz

スコットランド軍が
劇的勝利をおさめてから710年 古戦場バノックバーンを征く【前編】

スコットランドとイングランド。
現在は「連合王国」を形成する隣国同士だが永遠の宿敵でもある。
いや、イングランドに虐げられる時代の長かったスコットランドから見れば憎き仇(かたき)と呼ぶべきかもしれない。
それだけに、710年前、スコットランド軍がスターリング郊外でイングランド軍に対して鮮やかな勝利をおさめたことはスコットランド人にとって今も大きな誇りであり続けている。
今号と来週号では、その戦いの地、バノックバーンを征くことにしたい。

●征くシリーズ●取材・執筆/本誌編集部

勝利を呼び込んだ一撃

「落ち着け、相手の動きをよく見るのだ」
1314年6月23日。スターリング近郊のバノックバーンで、スコットランド王ロバート1世ことロバート・ザ・ブルース(Robert the Bruce)は自分にそう言い聞かせていた。

目の前には、イングランド軍の騎兵隊に属する一人の騎士が立ちはだかっている。まだ本格的な戦闘は始まっていなかったこともあり、スコットランド軍を率いるロバートは、この時、敵の先鋒隊がここまで来るとは予想しておらず、軽装で愛馬の軽量馬にまたがっていた。

相手は完全装備。ひと目で、かなり位の高い人物であることが分かった。騎士の名はヘンリー・ドゥ・ボーン(Henry de Bohun)、ヘレフォード伯爵の甥である。

ロバートの頭部を守る甲冑に、シンプルながらも王冠をかたどった装飾が施されているのを目ざとく見つけたボーンは、功を急ぐ若者らしく、ロバートに一騎打ちを挑んできたのだった。ロバートが携えていた武器は戦闘斧のみ。斧を握る右手が、じっとりと汗ばんでくるのを感じた。

意識を集中して冷静に間合いを計っていたロバートに向かって、まもなく、騎士が仕掛けてくるのが見えた。馬のスピードは見る見るうちにあがり、ふたりの距離はまたたく間に縮まった。次の瞬間、ロバートは急に向きを変え、あぶみの上に立ちあがった。その右手が鋭く空を切ったかと思うと、斧は騎士の脳天から入り、騎士が地面に倒れ落ちる鈍く重い音が響き渡った。まさに必殺の一撃だった。

後に、「バノックバーンの戦い」と呼ばれる、スコットランド軍対イングランド軍の戦いの初日に起こったこのアクシデントは、スコットランド軍兵士の士気を大いに高めた。
翌日の24日、同軍は圧倒的な勝利を収め、この710年で、イングランド軍をここまでたたきのめした戦いは他に記録されていない。

この戦いに備え、ロバートと側近たちは策を練りに練り、兵士たちの訓練を重ねたのは事実ながら、それ以外にも、天がロバートに味方していることを示す条件が揃った。スコットランド軍は勝つべくして勝ったと思わずにはいられない。

しかし、同地での勝利までの道は長く険しいものだった。まずは、この戦いに至るまでの経緯を見てみることにしたい。

JFC
TK Trading
Centre People
ロンドン東京プロパティ
ジャパングリーンメディカル
Dr Ito Clinic
早稲田アカデミー
サカイ引越センター
JOBAロンドン校
Koyanagi
Immigration UK

統一を遅らせた権力闘争

スターリング城前で、剣に手をかけてにらみをきかせるロバート1世の像。

バノックバーンが戦場となる8年前に即位し、ロバート1世(Robert I在位1306~29年)を名乗ることになったロバート・ザ・ブルースは、1274年7月11日に誕生、スコットランド西部エアシャーのターンベリー城で育った。

父親は後に第6代アナンデール卿となるロバート・ドゥ・ブルース(Robert de Brus)。この苗字から推測できるかもしれないが、ブルース家はもともと、ノルマンディ公ウィリアムによるイングランド征服が行われた際、フランスのノルマンディ地方からともに英本土へと渡ってきた貴族のひとつ。このブルース一族をはじめ、11世紀以降、スコットランドに領地を与えられた貴族たちは、スコットランド王の座をめぐり激しい争いを繰り広げることになる。この権力闘争があまりに熾烈だったため、スコットランドとして一丸になるのが難しく、イングランドにつけいる隙を多分に与えたのだった。

ロバート・ザ・ブルースの母は、キャリック伯の領地と称号を相続していた女性当主、マージョリー。ロバートの父親に自分から求婚、それが受け入れられるまでロバートの父親を閉じ込めたという逸話が残されているほど、気の強い女性だった。その長男として産声をあげたロバートが、祖父、父からスコットランド王即位への夢を託され、リーダーとなるための教育を施されたであろうことは想像に難くない。1292年、母親の逝去にともない、ロバートは18歳でキャリック伯爵家を継ぎ、第2代キャリック伯となる。

これにさきだち、スコットランドは混乱という名の黒い大波にのみこまれていた。『聖人』の異名をとったデヴィッド1世(在位1124~53年)の流れをくむ、アサル王家が1290年に断絶したことが発端だったが、この断絶騒ぎも不運の連続の末に訪れた結果だった。アサル王家の最後の王となった、アレグザンダー3世(在位1249~86年)は、嵐の中、若き2番目の妻、ヨランドのもとへと旅路を急いだばかりに馬から振り落とされて落命。臨終に際し、子供はすべて他界していたため、唯一の直系であった孫娘、ノルウェー王女マルグレーテに王位を譲ると遺言した。

わずか3歳で、スコットランド初の女王、マーガレットとして即位したまでは良かったが、1289年、ノルウェーからスコットランドへと向かって出帆した船は大しけにあい、オークニー島にたどりついたところでマーガレットはこときれてしまう。7年という短い生涯だった。


Restaurant
Joke
Henry Q&A
Travel Guide
London Trend
Survivor
Great Britons
Afternoon Tea

敵に審判役を依頼

この不運続きのアサル王家の跡を継ぐのは誰か。

名乗りをあげたのは13名もの『近親者』たちだった。このうちのひとりが、ロバート・ザ・ブルースの祖父、ロバート・ブルース(「ザ」がない点に注意)。最大のライバルは、血筋の上ではより『正統』とされるジョン・ベイリオル(John Bailliol)だったが、ここでスコットランド側は取り返しのつかぬ過ちをおかしてしまう。

内戦勃発を恐れるあまり、あろうことか、宿敵イングランドのエドワード1世に『審判』役を依頼したのである。飛んで火に入る、とはまさにこのこと。大軍を率いて北上したエドワード1世の前に、統率がとれず、対立したままのスコットランド貴族たちはいいなりになるしかなかった。結果的に、ベイリオルが即位するが(在位1292~96年)、エドワード1世の傀儡(かいらい)でしかなかった。

スコットランドの地方都市、パース近郊のスクーン宮殿Scone Palace(発音は「スクーン」である点にご注意を)。
同宮殿の敷地内に置かれた、『運命の石』のレプリカ(積み木のように置かれた石のうち、腰をかける部分)。スコットランド君主は代々、この石に座して戴冠した。エドワード1世により持ち去られてしまった本物の『運命の石』がウェストミンスター寺院からスコットランドに公式に戻されたのは、1996年のこと。現在はエディンバラ城に保管されている。

ベイリオルは、当初こそ、エドワード1世の要求を受け入れていたものの、1294年、他のスコットランド貴族たちがエドワード1世に反旗を翻してフランスと同盟を結んだこともあり、みずからも1296年、挙兵した。しかしながら、エドワード1世軍に大敗。スコットランド王が代々、戴冠する際の『座』として使われてきた、スクーン宮殿の「運命の石(the Stone of Destiny)」を奪われてしまう。

「運命の石」までも失い、王位を捨てることになったベイリオルは、イングランド軍に捕らえられ、長男エドワードとともにロンドンに移送され、3年間、ロンドン塔に幽閉された。だが、ここで処刑はされず1299年、釈放され、フランス北部のピカルディにあったみずからの所領に追われた。事実上の隠遁(いんとん)生活を15年間送ったあと、1314年に逝去した。

スクーン宮殿内にある、戴冠式用の椅子のレプリカ。運命の石のレプリカが座席のすぐ下に組み込まれている。
チャールズ3世の戴冠式にも使われた椅子。石の設置箇所は空洞になっている。

JEMCA
Kyo Service
J Moriyama
ジャパンサービス
らいすワインショップ
Atelier Theory
奈美デンタルクリニック
Sakura Dental

見得のために裏切られた英雄

スコットランドを完全に支配下に置こうと画策するエドワード1世にまず一矢を報いたのは、王権争いには直接には関係のない2人の騎士だった。

一人はウィリアム・ウォリス(William Wallace 1270頃~1305年)、もう一人はアンドリュー・モーレイ(Andrew Moray 生年不詳~1297年 )。前者は、ハリウッド俳優、メル・ギブソンが主演・監督を務めて大ヒットした映画『ブレイブハート』でお馴染みだろう。

2人は、1297年9月11日、スコットランドのスターリング郊外でスコットランド軍とイングランド軍が激突した「スターリング・ブリッジの戦い(the Battle of Stirling Bridge)」において、スコットランド軍を勝利に導いた。重装備のイングランド軍は、湿地帯で足を取られて機動力を減じられ、スコットランド軍に屈した。
この時、エドワード1世はフランスに遠征中だった。

「スターリング・ブリッジの戦い」での勝利は、イングランド軍をスコットランドから駆逐するほどの大勝利ではなかったものの、数や装備で圧倒的に優位にたっていたイングランド軍を破る画期的なもので、スコットランド人に誇りと自信を呼び戻したのだった。

モーレイは残念なことに、この戦いで負った傷がもとで同年、没してしまうが、勢いにのるウォリスは、逆に北イングランドを攻め、スコットランドに展開するイングランド軍に揺さぶりをかける。

だが、その命運は1298年、スターリングの南で繰り広げられた「フォルカークの戦い(the Battle of Falkirk)」であっけなく尽きる。自軍敗退の報を受けて激怒したエドワード1世は、フランス王フィリップ4世と講和を結び、急ぎ帰国。即座に反撃を開始し、ウォリスを追い詰めていったのだ。

ここで、天はウォリスに味方しなかった。
スコットランド史上、同じ「英雄」と称されるロバート・ザ・ブルースとウォリスながら、決定的な違いがあったとすればこの点ではなかろうか。ロバート・ザ・ブルースに限らず言えることだが、人の上に立つには、『運』も必要。ウォリスにはこの『運』が足りなかったようだ。ウォリスの身分が低いとして、スコットランド貴族がウォリスに非協力的だったのである。

フォルカークの戦場でも、騎兵の提供を約束したスコットランド貴族たちが裏切って戦わずして撤退。ウォリスの味わった悔しさと悲しみはいかばかりだったことか。

フランスやバチカンに対し、援軍を要請するために大陸にわたったとされるウォリスだが、1303年に失意のうちに帰還。1305年8月、さらなる裏切りにあい、イングランド軍に捕らえられ、裁判の末、23日にロンドンのスミスフィールド(肉市場がある場所)で、引き回し・絞首の後四つ裂きという最も重い刑に処された。

みずから戴冠した男

1298年の「フォルカークの戦い」での敗北を受けて「スコットランドの守護者(Guardian of Scotland)」の役をウォリスが辞した後、この栄えあるタイトルを与えられたのはロバート・ザ・ブルースとジョン・カミン(John Comyn)だった。カミンは、エドワード1世の傀儡として即位した後にフランスに追われたジョン・ベイリオルの甥である。

ジョン・ベイリオルとの権力争いに敗れた、ロバートの祖父以来、ブルース一族とベイリオル派との対立は因縁深いものとなっていた。

カミンもロバートも、国王の座を争うこのレースで、相手を出し抜くため、表面上は、対イングランドで協力しあうように見せかけながら、様々な策を練っていた。

長らく膠着状態が続いたものの、それが崩れる時が突然訪れた。寒さの厳しいある冬の日、1306年2月10日のことだった。
カミンとロバートは、ダンフリースのグレイフライアーズ教会で話し合いの機会を持つことになったのである。一説によると、ロバートがイングランド軍に対して決起した際にカミンが支援するという約束を密かに交わしたものの、その密約の内容をカミンがエドワード1世にもらしたことをロバートが知って激怒。その裏切りに抗議する目的でロバートがカミンを呼び出したとされている。
ふたりは、教会の中で激論を交わし、やがて殴り合いに発展。ここでロバートは、教会内であったにもかかわらず、剣を抜き、なんとカミンを殺害してしまったのである。

初めからロバートが、カミン殺害を胸にこの会見を提案したのかどうか、ロバート本人にしか分かり得ないことだが、この出来事は、ロバートの生涯の中で、後戻りのできないターニングポイントとなったことだけは明白だ。

カミンを殺害してしまった以上、道はふたつしかなかった。ひとつは罪人として逃げるか。もうひとつは、この罪を許すことのできる絶対権力を有する座にみずから就くか。後者はつまり、スコットランド国王に『なる』ことを意味した。

ロバートは腹をくくった。カミン派の貴族が動く前に先手を打たねばならない。
ダンフリースでの事件の6週間後、ロバートはパース近郊のスクーンで戴冠式に臨んだ。ウィリアム・ドゥ・ランバートン司教の手により、正式に戴冠式を挙行。ロバートは、教会内で蛮行を働いた罪により、ローマ・カトリック教会からは破門されていたものの、この戴冠式にはグラスゴーの司教らも参列。さらに、ロバート支持の貴族たちが集い、門出を祝った。

1306年3月25日、かくしてロバート1世が誕生した。しかし、ロバートの笑顔はさえなかった。頭上に輝く王冠の重みから伝わる喜びよりも、前途に横たわる難題への懸念のほうが大きかったからだ。

スコットランド国王として認められるには、ロバートが武力闘争に勝つしかなかった。スコットランド国内の反対派をすべて鎮圧しなければならない。戦いに明け暮れる日々がこうして幕を開けた。バノックバーンにおける戦いの8年前のことだった。

(後編に続く)

Kyo Service
J Moriyama
ジャパンサービス
らいすワインショップ
Atelier Theory
奈美デンタルクリニック
Sakura Dental

The Battle of Bannockburn Visitor Centre バトル・オブ・バノックバーン・ビジターセンター ※情報は2024年5月27日現在のもの。

Glasgow Road, Whins of Milton
Stirling FK7 0LJ
www.nts.org.uk/visit/places/bannockburn

【館内展示オープン時間】
1月3日~12月21日 毎日 10:00~17:00
※ショップ、カフェ(軽食のほか、スコーンやケーキ類なども楽しめる。なかなかレベルが高くおすすめ)は入場料を支払うことなく利用できる。

【館内展示入場料】
大人 8.50ポンド
シニア 7.00ポンド
ファミリー・チケット 24ポンド
National Trust for Scotland 会員 無料
※完全予約制。1時間ごとのスロットが設定されている。

【バノックバーン古戦場跡】
年間を通じて24時間オープン
※入場料不要。犬の散歩がてら、歩いている地元の人も多い。

バノックバーン古戦場跡のシンボルといえる、ロバート1世騎馬像。

■バノックバーンの戦いの700周年にあわせて一大改装が行われ、各種CG、インタラクティブ展示など、ハイテクを駆使したアトラクションとして再オープン。それから10年。コロナ禍を経て、現在は完全予約制。館内スタッフによる45分ほどのガイドつきツアーで見学。短編フィルム、CG使用の展示なども組み込んだ構成で飽きさせないようになっている。内部の展示見学を終えたら、外に出て、バノックバーンを見渡すように立つロバート1世の雄雄しい像=メインの写真、および写真右=を見るのをお忘れなく。

■公共交通機関で訪れる場合、スターリング駅のそばのバスターミナルからX36/56番のバスで約10分。「Whins of Milton」バス停下車。ここから徒歩約5分。バスの運転手さんに「バノックバーンのビジター・センターまで行きたい」と告げ、バス停に着いたら教えてくれるよう頼んでおくと安心。

週刊ジャーニー No.1344(2024年5月30日)掲載