ニューヨーク・メッツ対フィラデルフィア・フィリーズ
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シェパード・マーケット 秘密のメイフェア

■米国発のボードゲーム「モノポリー」のロンドン版に有望な不動産投資先として登場するメイフェアMayfair。ブランド店が数珠のように軒を連ねるボンドストリートが南北に走り、5つ星ホテルや高級フラットにブランド店、そしてオフィスビルや数多の飲食店が混在するロンドン屈指のアップマーケットなエリアとして知られる。しかしこの一帯、わずか300年前までは名前すらない、ただの湿地帯だった。

●英国ぶら歩き●取材・執筆/手島 功

人住まぬ湿地帯

およそ高級エリアに似つかわしくない通りの名前が今も残る。

北はオックスフォードストリート、南はピカデリー、東にリージェントストリート、そして西にパークレーン。4つの著名な大通りに囲まれた四角いエリアがメイフェアだ。中央部分には南北にタイバーン(Tyburn)という川が流れている。ハムステッドを水源とする小川で、スイスコテージやプリムローズヒル渓谷を通ってメイフェアに流れ込み、グリーンパーク辺りで幾つかに分岐してテムズ河に注ぐ。このタイバーン川、路面下に封じられ、暗渠(あんきょ)となったため目にする機会はほぼないが今日もちゃんと流れている。

かつてメイフェア一帯は湿地帯が広がる、人が暮らすには不向きな土地だった。メイフェアを散策すると「Farm Street(農場通り)」や「Hey's Mews(まぐさの厩舎)」などの通り名を目にすることがある。一見、高級エリアに不釣り合いな通り名だがこれらはメイフェアがかつてどのような土地であったかを鮮明に物語る生き証人だ。

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1660~1720年

かつてロンドンの中心地と言えばシティからウエストミンスターまで続くテムズ河沿いだった。テムズ河が主要な交通路だったためだ。17世紀中頃、貴族たちは開発され始めたコヴェントガーデンやソーホー地区に居を構え始めた。その頃、メイフェアはまだ名前さえない湿った草原。家畜がのどかに放牧されていた。

ソーホーの一角と間違えるような風景だが、ここがメイフェア始まりの地、シェパード・マーケット。

1686年、王政復古で返り咲いたジェームズ2世が湿地帯の一角に「市」を開く許可を出した。開催期間は毎年5月1日から2週間。「5月の市(Mayfair)」と呼ばれた。日本大使館の裏に「シェパード・マーケット」というおよそメイフェアらしからぬ昔ながらの風情を残した古い一角があるが、「メイフェア」はまさにここで始まった。

当初「5月の市」は家畜の取引がメインだったが年々規模が大きくなっていった。周辺には住居も建ち始めた。人と金が集う所には不純物も引き寄せられて来る。やがて飲酒、暴力、賭博、売春、騒音で「市」は荒れ始め、住民から苦情が寄せられるようになった。


目と鼻の先にあるセント・ジェームズ宮殿まで喧騒が轟くようになると宮殿の主だったアン女王の堪忍袋の緒がプチっと音を立てて切れた。女王はエドワード・シェパード(Edward Shepherd)という建築家兼デベロッパーに近代的マーケットの建設を命じた。シェパードは1735年から10年の歳月をかけて劇場付きの2階建てマーケットを建設。道を舗装し、広場にはアヒルが浮かぶ池を完成させた。この一帯はシェパード・マーケットと呼ばれるようになった。

浄化計画は功を奏し喧騒は収束。約100年続いた「5月の市」は終わりを告げた。年に2週間だけ開かれる「市」は常設市場となった。マーケットの活力と喧騒がアーティストや物書きの創作意欲を刺激するのは今も昔も変わらない。かつてソーホーやショーディッチがそうであったように著名な作家や音楽家がこの辺りに住み着き始め、名作が次々と世に送り出された。

映画「マイフェアレディ」撮影時のオードリー・ヘップバーン(1964年)。

シェパード・マーケットは高級コールガールの巣窟だったことでも知られ、数々のスキャンダルも生まれた。コールガールはつい最近までこの一帯で営業していた。恐らく今も。オードリー・ヘップバーン主演の名画「マイフェアレディ」。英題は「My Fair Lady」だが、これはオードリー演じる主人公イライザが「メイフェア」をコックニーなまりで「マイフェア」と発音していたことによると言われている。タイトルに2つの意味を含ませた制作側のちょっとした遊び心だ。

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1720~1850年

産業資本家などの新興富裕層と一線を画す出で立ちで一躍ファッションリーダーとなったボー・ブランメル(1778~1840)。

1700年代初め、名もない草原を相続していたグロヴナー卿(現ウェストミンスター公爵家)がグロヴナースクエアを、スカボロー伯爵がハノーヴァースクエアを建設したことをきっかけに、メイフェアは大変貌を遂げていく。以降大規模な開発が行われ、スクエア周辺に大邸宅が次々と建設された。貴族たちはシティやホワイトホール、ソーホーやホルボーンにあった古くて手狭になった家を捨ててメイフェアを目指した。大邸宅を手に入れ、内装も豪華に飾り立てては互いに富貴を競った。メイフェアに高級な家具や皮革製品、ジュエリーを扱うショップやギャラリー、オークションハウスなどが集まったのにはそういった背景がある。

ブランド店が軒を連ねるボンドストリート。
18世紀初めのグロヴナースクエア北側を描いたイラストと現在。

1811年、建築家ジョン・ナッシュがリージェントストリートを完成させた。今では到底考えられないことだが、ナッシュはリージェントストリートを境に西側メイフェアを富裕層が住むエリア、東側を貧困層が暮らすソーホーと意図的に分断した。当時ソーホー地区にもまだ貴族が暮らしていたが、これを機に貴族の大移動が始まった。富裕層が去り「もぬけの殻」となった邸宅は部屋ごとに安く賃貸されるようになり、ソーホーはたちまち低賃金労働者や移民で溢れ返った。19世紀中頃、貴族たちの社交の場はバッキンガム宮殿、住まいの中心はメイフェアとなった。

富裕層のためのメイフェア(右)と移民や低所得者階級が暮らすソーホー(左)に分断したリージェント・ストリート。
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1851年~第一次世界大戦前

ヴィクトリア時代はダイナミックな転換期だった。古くから領地を所有し、貸出料などのサブスクを収入源とする不労所得貴族とは全く別の層が台頭してきた。産業革命と植民地政策が生み出した産業資本家、いわゆるブルジョワ層だ。

貴族らの土地で羊や農業、林業等が生み出す収入では金融や鉄道、貿易や鉱山開発などの新しいビジネスが生み出す巨大マネーに太刀打ちできる訳もない。メイフェアの主役はたちまち貴族からブルジョワ層に取って代わった。没落し始めた貴族たちは嫉妬し、退廃的なダンディズムの世界に没入する者もいた。ポッと出の成金がどんなに金ピカになろうとも所詮は「庶民」のはずだった。ところが新興ブルジョワ層は王室メンバーが主導する慈善事業に積極的に投資するなど巧みに取り入って爵位を取得し、にわか貴族になる資本家が続々と誕生した。19世紀中頃の住民調査によるとメイフェアやベルグレーヴィアでは新興貴族の数が古くからの貴族を凌駕したとある。

1918年~現在

第一次世界大戦と世界恐慌は貴族や新興ブルジョワ層双方に大打撃を与えた。累進課税や相続税など富裕層を狙い撃ちにした新税制が貴族院の反対を押し切って可決され、彼らの多くは豪勢な暮らしを維持できなくなった。大幅なダウンサイズを余儀なくされ、手持ちの美術品を売り飛ばし、小さな家やフラットに転居した。メイフェアにあった貴族や富豪の邸宅は取り壊され、大型ホテルやオフィスビル、フラット等に建て替えられた。

第二次世界大戦が終わると税制はより過酷となり、大打撃を受けた貴族や大富豪の多くはベルグレーヴィアやチェルシー、ピムリコなどグロヴナー卿が所有する他の土地へと転居していった。メイフェアから貴族や富裕層が出ていき、替わりに入居してきたのは各国大使館だった。1970年代以降はオイルブームにより湾岸アラブ諸国やアジアの王族などが移り住んできたが、ナイツブリッジやリージェンツパークにより魅力を感じた彼らも徐々に転出していった。近年はフィンテックやヘッジファンドがメイフェアにオフィスを構えるなど、ビジネスと居住、商業や飲食店などがバランスよく共存。時代時代でプレーヤーを変えながら今も「高級」のステータスを維持している。

メイフェアに最初の「5月の市」が立ってから三百数十年。今では最もメイフェアからかけ離れた存在に見えるシェパード・マーケットの一角だが、ここが紛れもないメイフェア誕生の地であり原点だ。「名誉革命直前、湿地帯で始まった家畜の市」。それを知って歩いてみるとメイフェアの街並みも以前と少し違った風景に見えて来るかもしれない。

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シェパード・マーケットをぶら歩こう

メイフェア発祥の地でありながら最もメイフェアっぽくなくなってしまったシェパード・マーケット。その一帯に辿り着くにはどこから行くにも細い道を通らなくてはならず、まさに秘密の隠れ家的存在となっている。

シェパード・マーケットにはインターナショナルなレストランやバーが建ち並ぶ。

小さな一角だが、この辺りはユニークな飲食店が多く、弊紙「外さないレストラン」担当のたべ太蔵氏も怪しげな雰囲気にはまって絶賛食べ歩き中だ。近くに宮殿のように聳え立つサウジアラビア大使館があるためかイランやレバノン、トルコ料理店などが軒を連ねる。看板もない名前も分からないプライベートクラブがいくつもある。小さな空間に3軒もの古い床屋さんがあるのも謎。ロールスロイスやベントレーなど、場違いに映る高級車がひっきりなしに往来するのも怪しく楽しい。上流の清らかな流れもいいけれど、不純物やミネラルをたっぷり抱えた下流の水もまた複雑な味わいがあって魅力的だ。

裏道を歩くのもまた楽しい。

呪われたフラット

キャス・エリオット(Cass Elliot)

●シェパード・マーケットの足下、カーゾンプレイス(現カーゾンスクエア)9番地のフラット12。大ヒット曲「カリフォルニア・ドリーミング」を歌った米ポップカルテット「ママス&パパス」の元メンバーで、グループ解散後にソロ歌手として成功したキャス・エリオット(Cass Elliot)=写真=は1974年7月29日、満席となったロンドンパラディアム劇場での公演を終えた後、このフラットで就寝中に死去した。心筋梗塞と言われている。32歳だった。

カーゾンスクエア9番地。最上階左端の窓がそのフラットと言われている。
下の動画は、エド・サリバン・ショーで「カリフォルニア・ドリーミング」を披露する、ママス&パパス(1966年12月11日)。© Ed Sullivan Show

キース・ムーン。2013年ギブソン社が選ぶ「史上最高のロックドラマー10人」で3位と今でも高く評価されている。

●4年後の1978年初夏、英ロックバンド「ザ・フー(The Who)」のドラマー、キース・ムーン(Keith Moon)は友人だった歌手ハリー・ニルソンが所有していた同フラットへの入居を希望した。ニルソンは「このフラットは呪われているかもしれない」と言ってムーンへの貸し出しを躊躇した。しかしザ・フーのギタリスト、ピート・タウンゼントは「雷は同じ場所に2度落ちないものさ(Lightning doesn’t strike twice.)」と言って一笑に付した。ムーンはこのいわくつきのフラットの住民となった。アルコール依存症に苦しんでいたムーンには禁断症状を和らげるクロメチアゾールという鎮静剤が処方されていた。同年9月6日、ムーンはポール・マッカートニーとリンダ夫妻が主催する映画試写会に参加。終了後コヴェント・ガーデンでマッカートニー夫妻と食事をしてから帰宅。翌朝、ベッドで冷たくなっているムーンが発見された。死因は鎮静剤のオーバードース(過剰摂取)とされた。ムーンが死去したのは奇しくもキャス・エリオットと同じ、32歳の時。世間は「同じ場所に雷が2度落ちた」と噂し合った。

© Jim Summaria 下の動画は、ザ・フーの「My Generation」(YouTubeの「The Best Of - Home Of Classic Music」チャンネルより)。

週刊ジャーニー No.1315(2023年11月2日)掲載