◆◆◆ 二度よみがえったターミナル ◆◆◆


「Sir」の称号も与えられた、ジョージ・スコット。ヴィクトリア女王の亡夫、アルバート公を記念してハイド・パークに建てられたアルバート・メモリアルをはじめ、50以上の建造物の新規設計、修復作業に携わった。ただ、本人は、最も成功したプロジェクトとしてセント・パンクラス駅のミッドランド・グランド・ホテル=当時の写真(©HighSpeed1)=を挙げたとされる。
 しかし、栄華は久しく続かないというのは古今東西共通のことわり。
 きらびやかな栄光の日々を味わったセント・パンクラス駅ながら、鉄道駅として使用されなくなるという屈辱を味わう。全鉄道路線の国有化をめざす政府が1921年に鉄道法を施行、120もひしめいていた私鉄会社の統合を次々と強制的に進める中で、ミッドランド・レールウェイ社が、ロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ・レールウェイ社に吸収された結果、ユーストン駅にターミナルの役割を奪われてしまったのだった。セント・パンクラス駅は、1935年からはオフィスとして利用されるようになり、やがて、さらなる悪い知らせが届く。
 第二次世界大戦後、政府念願の鉄道国有化が実現し、セント・パンクラス駅の所有権も英国国鉄に移ったが、国鉄は財政が逼迫しており、それにつけこむように、この駅をつぶしてプールを造りたいといった申し出が相次いだ。誘惑に負け、セント・パンクラス駅を見捨てようとした国鉄に対し、1960年代、強力な反対キャンペーンを展開したのが、後に桂冠詩人となったジョン・ベッチャマン(John Betjeman 1906―84)である。

セント・パンクラス駅の航空写真。すぐ右手にはキングズ・クロス駅が見える。
(©HighSpeed1)
 既に詩人として高い評価を得るに至っていたベッチャマンは、1958年、他の創設メンバーとともに「ヴィクトリアン・ソサエティ」と呼ばれる組織を発足させた。資本主義経済の名のもとに、切り捨てられ、永遠に失われようとしていた、老朽化の進む歴史的建築物の保護を積極的に推進。同組織が勝ち得た、もっとも名高い勝利は、セント・パンクラス駅を取り壊しの危機から救ったことだろう。現在、同駅は、ウィンザー城などと同クラスの「グレードⅠ」の歴史的建造物として登録されており、半永久的に保護することが義務付けられている。
 死の淵からよみがえったといっても過言ではないセント・パンクラス駅だったが、80年代、90年代は再び不遇の時代を経験する。複数のマイナー路線
セント・パンクラス駅は、キングズ・クロス駅を見下ろすように、ホテルもプラットホームも「高台」(実際には地下倉庫)の上に築かれたことが、この階段=左下写真=を見るとよく分かる。セント・パンクラス駅のすぐ北にリージェント運河が横たわっており、線路をどう通すか、様々な方法が検討された。最終的に、プラットホームを高い位置に置き、線路をゆるやかな坂状にして運河の上を越えさせる方法がとられたのだが、「高台」に駅を築くことにより、技術面での問題がクリアされただけでなく、プライドも満たされ、まさに一石二鳥の結果となった。
の発着駅としては使われたものの、かつての面影はなかった。
 そんなセント・パンクラス駅に、思わぬところからスポットライトがあたることになる。サッチャー政権時代の1994四年にユーロスターが開業。当初はウォータールー駅発着だったものの、ロンドン南東部からトンネルを通し、ゆくゆくはキングズ・クロス駅の地下にターミナルを移すことが考えられていたという。
 しかし、これに異議を唱える人物が登場した。ロンドン東部の再開発に関して並々ならぬ情熱を燃やしていた、当時のマイケル・ヘーゼルタイン副首相だ。トンネルはロンドン東部から掘られることになり、ルートの再検討がなされた。ここでセント・パンクラス駅の再利用案が急浮上する。
 ベッチャマンによってよみがえったセント・パンクラス駅が、再び栄光を取り戻すチャンスを与えられた瞬間だった。