週刊ジャーニー(英国ぶら歩き)動画
◆◆◆ 曲がったことが大嫌いな聖人の駅 ◆◆◆
東京には「東京駅」があるが、ご存知のとおり、ロンドンには「ロンドン駅」や「中央駅」というものが存在しない。 19世紀、英国では数多くの私鉄がサービスを開始し、大手の鉄道会社は、人目をひくターミナル(終着駅)を競って建てた。しかし、全国の鉄道が国有化されたのは1947年になってからと遅く、どの私鉄も「ロンドン」や「中央」といった名前を駅名につけることができないまま名称が定着、今日に至っている。 南イングランド方面への列車はヴィクトリア駅から、西方面への列車はパディントン駅から、エジンバラなど英国北部の都市へ東海岸寄りの縦断ルートで向かう列車はキングズ・クロス駅からといった具合に行き先によってターミナル駅が異なるのも、この歴史的事情による。 セント・パンクラス駅も、この「私鉄・百花繚乱時代」に生まれた駅のひとつだ。 「パンクラス」は、日本人にはあまりなじみのない聖人の名前だが、紀元304年に14歳の若さで殉教したローマ人の少年という。その頃、ローマ帝国ではキリスト教徒迫害が大々的に行われていた。
時のローマ皇帝ディオクレティアヌスの前に引き出されたパンクラスは、キリスト教の棄教を迫られたが断固として拒否。その意志の強さに驚嘆した皇帝に、改宗すれば富と権力を約束してやるとまで言わしめたものの、頑なに拒み続け、ついには首をはねられてしまったとされている。パンクラスが、束縛する者、偽証する者に対して抗議する守護聖人であり(そしてなぜか頭痛に対しても効力があるとのこと)、子供の守護聖人であるのは、この殉教時のエピソードをうけてのことだろう。 埋葬後、遺骨の一部はイングランドに持ち込まれたと伝えられており、イングランドにも「セント・パンクラス」と名付けられた教会が複数ある。 1868年のセント・パンクラス駅完成にさきだち、誰がこの聖人の名を提案したのかは定かではないものの、締め付けや偽りに対し、決して与(く)みしない不屈の精神が宿るようにという願いがこめられていることは間違いなさそうだ。 完成後、「英国鉄道界の大聖堂」という異名をとるが、それはユーストン・ロードに面してそびえたつ、同駅の玄関口、旧ミッドランド・グランド・ホテルの外観の美しさ、あるいは当時の建築技術の粋を集めた駅構内の見事さに対してのみ与えられた賛辞だったとは思えない。本稿執筆にあたり何度か足を運んだが、この駅には「大聖堂」と呼ぶに値する「何か」がある。それはこの駅に満ちている、気高さ、潔さ、力強さといった「聖人パンクラス」の名にふさわしい独特の空気であるともいえ、同駅は、ウォータールー駅に代わって、大陸(ヨーロッパ)からの客人たちを迎えるホスト役を日々、堂々と務めあげている。*身廊―キリスト教建築の一部分を指す呼称で、入口から主祭壇に向かうまでの中央通路となる部分。
◆◆◆ ライバル駅は隣のキングズ・クロス ◆◆◆
19世紀の英国で、工学技術界の重鎮として複数の大プロジェクトを手がけたウィリアム・バーロウ=左の肖像画。先輩にあたる偉大なエンジニア、イサムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel)の後を引き継ぎ、ブリストル郊外のクリフトン・サスペンション・ブリッジ(Clifton Suspension Bridge)=上写真=の完成に尽力したことでも知られる。 ユーロスターのフランス側のメイン・ターミナルである、パリ北駅も一見に値する。が、(ロンドン在住者だからひいき目に見ているというわけではなく)訪れる者に与える印象の強さにおいては、セント・パンクラス駅に軍配を挙げたい。 なぜ、目にした時のインパクトが強いのか。 他の駅とは異なる、しかも秀でている点がきわだっているからではないだろうか。 十九世紀半ば、その規模においても、また、華やかさや美しさといった見た目においても、他の駅に負けない駅を築き上げるという一大プロジェクトが計画され、それに携わり、成功の鍵を握ったのは二人の偉大なるイングランド人だった。 ひとりは、ヴィクトリア朝時代を代表するエンジニア、ウィリアム・ヘンリー・バーロウ(William Henry Barlow 1812―1902)。そしてもうひとりは、ハイド・パークのアルバート・メモリアルなどの設計でも知られる、ジョージ・ギルバート・スコット(George Gilbert Scott 1811―78)である。 バーロウは、「ヴィクトリア時代の驚異」とさえ言われた、セント・パンクラス駅そのものを、スコットは同駅の玄関口にあたるミッドランド・グランド・ホテルを設計した。 二人に大仕事を依頼したのは、ミッドランド・レールウェイ社(Midland Railway Company)。名前の通り、ミッドランドとロンドンを結ぶ路線を運行していた同社は、グレート・ノーザン・レールウェイ社が1852年に完成させたキングズ・クロス駅をターミナルとして借り、ミッドランドのバートン・オン・トレントという英国随一のビール産地から大量のエール(ラガーより苦味のある英国独特のビール。「Bass」などが有名)をロンドンに運び込んでいた。産業革命直後のロンドンは労働者であふれかえっており、彼らの喉を潤し憂さを晴らすため、膨大な量のエールが必要とされていたのだ。 ミッドランド・レールウェイ社はやがて、自社の列車専用の「ビール御殿」ならぬ「ビール駅」建設に乗り出す。 キングズ・クロス駅をしのぐ駅を目指した結果、キングズ・クロス駅を見下ろすように高い位置にプラットホームを備え(理由については次頁参照)、74メートルという距離にわたって、支柱が一本も建っていない、当時では世界一の「シングル・スパン」(※1)の
かつてのセント・パンクラス駅構内の様子。
大規模な「バーロウ・シェッド」は人々を感嘆させた。(© HighSpeed1)「シェッド」(※2)を有するセント・パンクラス駅が1868年にできあがった。ちなみに、シングル・スパンの建造物としては世界一の規模という栄誉の座は、それから20年間、脅かされることはなかった。 また、ホームと線路の下には広大な「アンダークロフト」(undercroft=倉庫)が用意され、最高で2800万パイント分のビールを収納することが可能だった。 さらにその4年後、コンペで選ばれたスコットの設計図をもとに建てられた、明るい赤茶のレンガ造りの外壁がひときわ目立つミッドランド・グランド・ホテルが落成式を迎える。250の客室を擁したこのホテルは、大英帝国の中でもことさら贅沢なホテルと評されたという。19世紀後半、セント・パンクラス駅を抱える、ミッドランド・レールウェイ社は得意の絶頂にあったのだ。
※1 single-span=途中に支柱がない造り
※2 shed=ホーム、線路などすべてを 覆う屋根つきの空