慶應義塾ニューヨーク学院  ロンドン説明会 9月20日 (金) 6 PM - 7:30 PM
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戦い終えた翼の安息の地 RAF博物館を征く【後編】

●征くシリーズ●取材・執筆/手島 功

■バトル・オブ・ブリテン最後の大規模空襲となった1940年9月15日。ドイツ空軍爆撃機のロンドン侵入を懸命に阻止していた英空軍のパイロットたち。しかし午後12時15分、バタシー上空付近で1機の双発爆撃機、ドルニエDo17に防衛ラインを突破されてしまう。レイ・ホームズ軍曹=当時(22)=はこれを追尾。バッキンガム宮殿に迫る敵爆撃機に機銃の照準をピタリと合わせ引き金を引いた。しかし、弾丸はすでにそれまでの戦闘で底を尽いていた。

バッキンガム宮殿を守れ

ハリケーンに乗るレイ・ホームズ軍曹(中央)。

敵機は刻一刻とバッキンガム宮殿に接近して行く。ホームズは覚悟を決めた。操縦桿をグッと引き、愛機ハリケーンの高度を上げながら敵機を追い越して反転。そして今度は操縦桿を一気に押し下げ、ドルニエ目がけて急降下した。

一瞬の出来事だった。

ハリケーンの左翼が、ドルニエ最大の弱点である細い胴体をスパッと切断した。尾翼を失ったドルニエはまっ逆さまに墜落。ヴィクトリア駅前の広場に激突し、粉々に砕け散った。

ホーカー・ハリケーン。
JFC
TK Trading
Centre People
ロンドン東京プロパティ
Dr Ito Clinic
早稲田アカデミー
サカイ引越センター
JOBAロンドン校
Koyanagi
ドルニエDo17。

ホームズ軍曹のハリケーンに体当たりされて墜落するドルニエ。

一方のホームズも左翼を大きく損傷。ホームズはやむなく脱出。主を失ったハリケーンは時速約六百キロの猛スピードでバッキンガム・パレス・ロード西端とピムリコ・ロード東端が交差する地点にクラッシュ。機体は粉々に飛散したが、エンジンと操縦席部分は地中深く、突き刺さった。

レイ・ホームズのハリケーンに切り裂かれ、墜落するドルニエDo17の様子を捉えた奇跡の映像。

この体当たり劇は多くの市民によって地上から目撃され、墜落するドルニエの映像すら残っている。それらを元に、チャネル5の番組が墜落位置を探り当て、エンジン発掘となった。

パラシュートで無事、地上に降り立ったホームズ。バッキンガム宮殿を守ったヒーローを市民が放っておくはずもない。ホームズはそのまま100ヤード先にあった「オレンジ・ブルワリー」というパブ(現存)に担ぎ込まれ、ブランデーを振舞われた後、タクシーを拾って第504飛行中隊へと戻った。


タクシーが向かった先、それはヘンドンであった。そう、第504飛行中隊は、グレアム・ホワイトが作ったヘンドン飛行場を基地としていたのである。

その日から64年の歳月を経て、ホームズはかつて愛機に積まれていたエンジンと、奇跡的な対面を果たした。

まるで宮殿防衛の命を受けて地上に送られたかのようなこの老人は、エンジンとの再会からわずか1年後の2005年6月、青雲を切り裂いて上昇するハリケーンのように、神のもとへ召されていった。享年90。

バトル・オブ・ブリテンの終了とともに、ヘンドン飛行場の航空基地としての役割は終了した。滑走路がスピットファイアなど新鋭戦闘機の離発着には短くなったためで、その後は主に物資の輸送センター的な使われ方がなされていたが1957年、飛行場はわずかな敷地を残して民間に払い下げられ、宅地化されたり、警察学校が置かれたりするなど、徐々に消滅の方向へと向かっていく。

そんな中、かつてグレアム・ホワイトが作り、そしてバッキンガム宮殿を救った若者が飛び立った歴史的な飛行場がここに存在したことを後世に語り継ぐ、一つの置き土産が残された。それがこの、RAF博物館である。

Restaurant
Joke
Henry Q&A
Travel Guide
London Trend
Survivor
Great Britons
Afternoon Tea

兵どもが夢のあと…

RAF博物館はエリザベス女王列席のもと、1972年にオープンした。当時の展示機はわずかに36。現在と較べると、その規模はまだ半分にも至っていない。

その後、英国各地に点在するRAF基地が所有していた航空機などを徐々に獲得、整備を施し、コレクションは増大していった。開館以来、拡張に拡張を重ね、現在は6つの展示場を擁するまでになった。博物館の入場は無料。国防省から割り当てられる予算に加え、ロッタリーファンドや企業からの寄付金等によって運営が賄われている。

パンデミックの間、館内では大幅な改装が行われ、見学にはワンウエイシステムが導入された。さらに「ヘンドン・カフェ」が新設され、昔と比較にならないほど食事が改善されたのは本当に嬉しい。

さて、前述の通り、館内には6つの展示場がある。それぞれハンガー(Hanger=格納庫)1~6と呼ばれ、テーマがそれぞれ異なる。どのハンガーも見ごたえがあるので、時間が許す限り、じっくり見学したい。

第一次世界大戦で活躍した英空軍のロイヤル・エア・ファクトリー社製S.E.5a。
ハンガー1 H1

●新設された入場口でRAF100年を振り返る展示がされている。ここにもカフェがあり、土産物を扱うショップも置かれている。

JEMCA
Kyo Service
J Moriyama
ジャパンサービス
らいすワインショップ
Atelier Theory
奈美デンタルクリニック
Sakura Dental
ハンガー2 H2

●このホールには実際にグレアム・ホワイトが作って飛ばしていた頃の複葉機の数々が展示されている。また、大戦を戦ったヒーローパイロットたちの肖像写真が壁に掲げられている。

英国人ヒーローパイロットらに交じって掲げられている日本人パイロット『ハリー・フサオ・オハラ』氏の肖像写真。

●その中に精悍な顔立ちをした一人の日本人がいる。ハリー・フサオ・オハラ(Harry Fusao O'hara)氏。二十歳の頃、早稲田大学を中退。当時英国領だったインドに渡りジャーナリストを志して働く中、第一次世界大戦が勃発。英軍インド人部隊やグルカ兵部隊に入隊した後、渡英して英陸軍ミドルセックス連隊に入隊した。フランスの西部戦線に派遣され、英兵と共に塹壕戦を戦った。その勇敢さを讃えられ勲章も授与されている。その後、空軍の前身である陸軍航空隊に志願し、整備士を経て戦闘機乗りとなりヨーロッパの空で戦った。塹壕戦とその後の空戦で全身に受けた傷は70ヵ所という。 戦後、英国人女性と結婚し子宝にも恵まれ、日本語教師などをして生計を立てた。しかし第2次世界大戦が勃発。オハラ氏も敵性外国人となり苦難の日々を過ごした。1951年死去。享年59。

本紙編集部が作成したユーチューブ動画「英空軍のサムライ 欧州の空を舞った若き日本人パイロット“ハリー・フサオ・オハラ氏”。 RAF英空軍博物館」も併せてご覧ください。

ハンガー6 H6

●かつて「マイルストーン・オブ・フライト」と呼ばれていたH6は、航空史上、重要な役割を果たした名機の数々が展示されているホールで、垂直離着陸機ハリアーやユーロファイター(タイフーン)の試作機までが展示されている。

ハンガー3/4/5 H3/H4/H5

●1918年から1980年までに活躍した世界の戦闘機や爆撃機などを展示している。かつて「ボマーホール」と呼ばれた爆撃機の展示エリアに日本の「五式戦」や「桜花」が窮屈そうに並べられている。

●展示されている多くの機体は最新のものと比較すればどれも旧式だ。しかし彼らはどれをとっても美しい。その美しさには不謹慎にもため息すら漏れてしまう。ロシアによるウクライナ侵攻から1年を経た今、戦争が一日も早くこの世からなくなって欲しいと願う気持ちに偽りはない。ただ、彼らを美しいと感じてしまう自分の気持ちをごまかすことは難しい。人類の負の遺産の勇ましさと美しさに触れると同時に、戦争の悲惨さを知り、そして戦争のない世界に思いを馳せる。それがこうした戦争博物館の、本当の役目なのだろう。

航空ショーなどでいつも一番人気のハリアー。垂直に離発着できる。フォークランド紛争でも活躍した。
スピットファイアの宿敵、ドイツのメッサーシュミットBf109。急横転、急降下性能に優れていた。本土防衛を目的に設計されたため、航続距離が極端に短かった。
スピットファイアMK1。第二次世界大戦時の英国空軍最高の単座戦闘機。美しい楕円形の主翼が特徴。2万3000機あまりが製造された。
P51 マスタング。第二次世界大戦中後期の最優秀戦闘機と言われる米ノースアメリカン社製戦闘機。航続距離の長さが買われB-29の護衛機として日本にも多数飛来した。
アブロ・ランカスター。英国のアブロ社が製作した四発の重爆撃機。ドイツ各都市爆撃に威力を発揮したが、損失機数も3000を超えたと言われる。
ユンカース Ju89。ドイツ空軍が第二次世界大戦初期から敗戦まで用いた急降下爆撃機。急降下する際にサイレンを鳴らし、「悪魔のサイレン」と恐れられた。ただ鈍重で、それほどの戦果は上げられなかったという。
川崎飛行機キ100(五式戦闘機)
1945年2月、満を持して登場した川崎飛行機のキ100(通称:五式戦闘機)。大馬力の液冷エンジンを搭載し、鼻のシュッとした美形の戦闘機が予定されていた。ところが液冷エンジンの開発に手を焼き、良好な結果が得られなかった。陸軍上層部は液冷を諦め、三菱重工製の空冷式エンジンにすげ替える決断を下す。そのため鼻デカになったが、テスト飛行では予想以上の成績を納めたため量産態勢に入った。しかし、その名を世界に轟かせる前に終戦を迎えた。
三菱重工 キ46 (100式司令部偵察機)
高々度を高速で飛行することを目的として軽量化と極限まで空気抵抗を削減した結果、連合軍の迎撃戦闘機を振り切るほどの優秀な性能を発揮した旧日本陸海軍を代表する傑作機となった。その美しいフォルムから「第二次世界大戦で活躍した軍用機の中で最も美しい機体の一つ」と評価される。大戦末期にはごく少数ながら特攻機としても使用された。
特別攻撃機 桜花
日本海軍が特攻兵器として開発した特殊滑空機。先端部分に大型の爆弾を搭載。母機の一式陸攻に吊るされて目標付近で切り離された後、固体燃料ロケットを作動させて加速した。しかし目標に接近する前に待ち受けた米艦載機によって母機ごと撃墜されるケースが相次いだ。連合国側は自殺攻撃を行う「愚か者」という意味で「Baka Bomb」と呼んだ。755機が製造され、55名が特攻して戦死した。

週刊ジャーニー No.1283(2023年3月23日)掲載