●征くシリーズ●取材・執筆/手島 功
■ロンドン北西部ヘンドン地区。シティへの通勤にも便利なため、フィンチリーやゴールダーズ・グリーンなどと並び、日本人も多く暮らす地域だ。11世紀後半に作られた土地台帳「ドゥームズデイ・ブック」にもHendunという名で登場しており、「一番高い丘にて」という意味だという。
そのヘンドンのコリンデールに往年の戦闘機や爆撃機など、100機を超えるコレクションを誇る、英国随一の航空博物館「RAFミュージアム」がある。RAFとは、「The Royal Air Force」の略で、「王立空軍」という意味だが、もっと分かりやすく言えば「英国空軍」のことだ。
さらにそこにはスピットファイアやメッサーシュミット、Pー51マスタングなど、第二次世界大戦時の欧米の名機に混じって2023年3月現在、日本の「五式戦闘機」や「100式司令部偵察機」、ならびにロケット式特攻機「桜花」がほぼ完璧な状態で保存、展示されている。
一体なぜ、住宅街の一角に空軍の博物館が置かれているのだろうか。その理由を知るためには、今からちょうど100年程前に、この地を拠点に活躍した、一人の英国人青年のことに触れなくてはならない。
ヘンドンに飛行場を作った男
この青年の名はクロード・グレアム・ホワイト(Claude Grahame-White 1879~1959)。サウサンプトン生まれの英国人だ。グレアム・ホワイトは10代の頃より、ヨットや自動車など、風を切って疾走する乗り物を愛する若者であった。
1903年、ライト兄弟が動力付き飛行機の初フライトに成功したとの報に触れるや否や、彼の情熱は一気に飛行機へと向かうこととなる。そして航空産業では英国に先んじていたフランスに渡り、飛行ライセンスを取得。さらに1910年、英国でも飛行ライセンスを獲得し、英国人としては6番目の有資格パイロットとなった。
その後、高額な賞金が掛かった飛行レースに参加するだけでなく、フランスで経営を始めたフライトスクールも軌道に乗せ、当時まだ人々の目には新鮮だった空飛ぶ物体を武器に、富を蓄えていく。そして1911年、グレアム・ホワイトはヘンドンに約200エーカー(約0・81平方キロ)の土地を買い、ここにロンドンで初となるヘンドン飛行場(Hendon Aerodrome)を建設。同所にフライトスクール、並びに航空機製造会社を設立し、フランス製の機体をライセンス生産するのみならず、自らも飛行機を設計し、実際に製作しては飛ばし始めるのである。
ヘンドン飛行場では頻繁に航空ショーが催され、物珍しさもあって、多くの観衆を集めることとなった。こうしたショーではのべ50万人もの観衆を集め、当時はアスコット、エプソンの競馬に並ぶ重要な催し物と評されるほどであったという。
グレアム・ホワイトは「Wake up Britain(英国よ、目を覚ませ)」のスローガンを掲げ、花で作った模擬爆弾を、地上の目標に投下して見せたり、機関銃などの兵器を飛行機に積んでは実際に的を撃ったりして見せ、さらには世界初の夜間飛行にも成功して、近い将来、起こりえるかもしれない戦争に、飛行機がいかに有益であるかを説く忙しい日々を過ごしていた。
そんな中、1914年に第一次世界大戦が勃発。その2年後、陸軍省は490名ものパイロットを育てたグレアム・ホワイト経営のフライトスクールを徴用する。それでもおな、グレアム・ホワイトは、ドイツ軍の飛行船の警戒任務にあたったほか、世界で初めてパラシュート降下も成功させるなど、戦時下における飛行機の有益性を訴え続けていた。
もともとはその強大な海軍力で7つの海を制した英国であるが第一次世界大戦を経て、これからは制海権のみならず、制空権の掌握が重要だと認識することになる。まさにグレアム・ホワイトが叩き続けた「Wake up Britain」の鐘の音が、軍部の耳元で大きく鳴り響く結果となったのである。
しかし、軍部を目覚めさせたこの鐘の音は、皮肉なことにグレアム・ホワイトを主人公とした、悲劇の幕開けを告げるベルにもなってしまう。
1918年4月。戦時下に陸軍航空隊と海軍航空隊が融合して独立、世界初の空軍となる英国空軍、RAFが誕生していた。戦争も終わった22年のある日、英国空軍はヘンドン飛行場を警告なしに接収、つまりグレアム・ホワイトから取り上げ、空軍基地とする決定を下すのである。
軍部の一方的な決定に憤慨し、徹底抗戦を誓ったグレアム・ホワイトであったが、彼を待ち受けていたのは、長く、醜い法廷闘争であった。しかし、国防を楯に立ちはだかる強大な軍部の前に彼はあまりにも小さな存在でしかない。1925年、グレアム・ホワイトは、わずかな賠償金と引き換えにヘンドン飛行場を諦め、失意と憤怒の中、この地を後にした。
英国航空界のパイオニアとして100年後もその名を残すことになるグレアム・ホワイトであるが、これ以降、二度と飛行機に関わることはなく、後に渡米。彼の地で宅地の開発業者として成功を収め、巨万の富を築いた後にフランスのニースへと移り、1959年、その波乱に満ちた生涯を閉じた。享年80。ヘンドンを追われるようにして去ってから後、二度と英国の土を踏むことはなかったと言われる。
天下分け目のバトル・オブ・ブリテン
2004年5月、チャネル5の『The Search for the Lost Fighter Plane(失われた戦闘機を探して)』という番組が、歴史的瞬間となる映像を捉え、それを全国に生中継した。撮影現場はロンドンのバッキンガム・パレス・ロードの一角。金属探知機の反応を頼りに、重機が路面を掘っていく。数メートル掘ったところで現れたのはロールスロイスの文字の一部が残る、戦闘機のエンジンだった。
操縦桿も同時に発見され、驚いたことに機銃を発射するボタンは「FIRE」、つまり発射状態のままになっていた。
このエンジンは1940年9月15日、ドイツ空軍を迎え撃った英空軍の戦闘機、ハリケーンのものだ。
発掘作業を進める人たち、撮影クルー、そしてこの歴史的瞬間の目撃者たろうとする大勢の群集の中に混じって、宝物の出土を静かに待ち続ける一人の老人の姿がそこにあった。レイ・ホームズ(Ray Holmes)。彼こそが、発掘されたエンジンを搭載したハリケーンを操縦していた人物であり、彼にとっては64年ぶりの愛機の心臓部との再会であった。
1939年9月にドイツがポーランドに侵攻して始まった第二次世界大戦。ドイツ軍は翌1940年5月には西方電撃戦を開始し、わずか1ヵ月ほどでフランス、ベルギー、オランダを降伏させることに成功。これによりドイツの次なる敵は英国に絞られた。ドイツは英国を屈服させるため、英国本土への上陸作戦(通称アシカ作戦)を計画。大量の兵士を英国本土に上陸させるためには、兵力の海上輸送を邪魔する英軍の航空戦力を先に取り除いておく必要があった。
1940年7月10日以降、ドイツ空軍は英国南岸部の飛行場や軍施設の他、ドーバー海峡、英国海峡を往来する船舶や艦船などへの攻撃を開始。英空軍はこの迎撃に大忙しとなった。
ドイツ空軍の作戦は徹底しており、爆撃機とそれを援護する戦闘機は時に1000機を超え、まさに大空を黒く染めるかの勢いで英国南岸部へと襲いかかり、英国側に甚大な損害を与えていた。
しかし英国側も早くからレーダー網を完備し、事前に敵の動きを察知することで巧みに対抗。さらにドイツの誇る戦闘機メッサーシュミットBf―109は、祖国防衛を基本概念に作られていたため航続距離が極端に短いという致命的欠陥を抱えていた。フランスから飛来して英国上空で交戦できるのはわずか15分程度。そのため、英国南部の海岸線を越えて北上するドイツ空軍爆撃機は、小回りのきかない双発戦闘機程度の護衛しか得られず、英空軍の戦闘機ハリケーンやスピットファイアの餌食となりやすかった。
戦争の泥沼化を避けたいヒトラーは当初、都市部への爆撃を避けて軍事施設や工場などを攻撃し続けていたが、同年8月24日、テムズ河口の施設爆撃の任務を受けたドイツ空軍爆撃機が誤ってロンドン市街地に爆弾を投下してしまう。時の英首相チャーチルはこれにすぐに反応。翌25日には英爆撃機軍団をベルリンに送り、市街を空爆させた。
ヒトラーは激怒した。報復の報復として9月7日と15日、いずれも1000機を超える大編隊をロンドン空襲に向かわせた。英国側も22個飛行隊から全機を出撃させ、ロンドン上空で激しい戦闘が展開された。
しかし、損害が激しい上に期待したほどの戦果も上げられずにいたドイツ軍は9月17日、遂に英国本土上陸作戦の無期延期を決定。その後、散発的な小競り合いは続くが、10月31日の攻撃を最後に、作戦はほぼ終了した。これが、後に言われる有名なバトル・オブ・ブリテンであり、大戦の行方を決定する、重要な転機になったとされる。
バトル・オブ・ブリテン最後の大規模な空襲となった9月15日。標的となったのはロンドンだった。この日はドイツ空軍の攻撃が朝から始まり、ロンドン近郊の飛行場から飛行可能な戦闘機全機が出撃、上空で敵機の襲来を待ち受けていた。
その中にレイ・ホームズ軍曹もいた。この時、22歳。
敵爆撃機のロンドン侵入を懸命に阻止していたホームズたちであったが、12時15分、バタシー上空付近で一機の双発爆撃機、ドルニエDo17に防衛ラインを突破されてしまう。ホームズはハリケーンの機首を反転させ即座にこれを追尾。彼の目の前を行く敵爆撃機に機銃の照準をピタリと合わせた。だが次の瞬間、ホームズの目に飛び込んできた光景に、操縦桿を持つ彼の手が震えた。敵が目指していたのはバッキンガム宮殿だった。
ホームズは機銃の発射ボタンをめり込むほど押した。しかし、弾丸はすでに尽きていた。迫りくるバッキンガム宮殿。どうする、ホームズ。
週刊ジャーニー No.1282(2023年3月16日)掲載