勝利の一端を担った丘

 イングランドでエリザベス一世が君臨していた十六世紀末。英国はまだ、後に七つの海を支配するようになる大英帝国の時代の姿とはほど遠い、二流の島国でしかなかった。国庫歳入の多くを担っていたのは、ネーデルランド地方(現オランダ・ベルギー地方)への毛織物の輸出。しかし、ネーデルランド地方は、大帝国スペインの支配化にあり、その外交には難度の高い舵取りが要求された。
一方のフェリペ二世を国王とするスペインは、前述のネーデルランド、ポルトガル、イタリア南部、中南米などを属領や植民地に持ち、その土地からの物資でうるおうヨーロッパ最強国家。地中海を中心に、数々の海戦で勝利を収め、支配を拡大し、世界中に領地を持ったことから「日の沈まない国」とも呼ばれていた。
さらに、プロテスタント新興国である英国と、スペインを代表とするカトリック勢力は対立関係にあった。しかし、戦争となると互いにリスクも大きい。そのため両国とも表面上は平穏な関係を保っていた。
しかし、スペインの財を略奪したかった英王室は「私掠船(しりゃくせん)」を考案する。表向きは商人である英国航海者たちに、植民地からの財を積んだスペイン船を襲う許可、「私掠免許」を交付し、陰で投資を行った。私掠船の航海で得られた財は、国庫・出資者・船乗員に所定の比率で分配。これにより、イングランドは多大な収入を得ることができた。
また、私掠人の中でも、エリザベス一世が投資した、英国人として初めて船で世界一周を果たした英雄でもあるフランシス・ドレイクは、投資額の何十倍、国庫歳入以上の利益を得ることに成功したという。
このような状況に業を煮やしたスペインは、「無敵艦隊」とも呼ばれた大艦隊(The Spanish Armada)を送り込み、英国に全面戦争を仕掛け、「アルマダの海戦」が勃発。海戦前は圧倒的な力の差によるスペインの勝利が予想されていた。しかし、結果はまさかの英国側の完全勝利。潮や風の向きが変わりやすい英国周辺の海洋を熟知した、ドレイクら有能な指揮官達による攻撃に、スペインは応じることができなかった。さらに不幸なことには、スペイン船が英国の北を迂回して本国に戻ろうとしたところ、北海、アイルランド西岸で暴風にあおられ、多くの船が難破、座礁する大打撃を受けてしまう。
この戦いは、英国を黄金時代に向かわせ、スペインに衰退の歴史を辿らせるきっかけともなった。
さて、この海戦において「優れた警報システム」としての役割を担った「ビーコン・ヒル(Beacon Hill)」の存在も忘れてはならない。首都、ロンドンに待機する女王、エリザベス一世らにいち早く「スペイン艦隊」の襲来を知らせ、英国海軍を送り、配置するのに大貢献したのが幾多の丘だった。そして、ペニーヒルもそのビーコン・ヒルの一つであった。

女王まで火を繋いだ「ビーコン・ヒル」

 無線も、電話もない時代にどのように、海岸からロンドンの女王の下まで敵の襲来を伝達したのか? その答えが「ビーコン(beacon-warning)」である。
ビーコンとは木などで組まれた巨大なかがり火のようなものだ。「アルマダの海戦」では、それが英南海岸から始まり、セント・ジェームズ・パレス(St. James's Palace)の屋上など、ロンドンにあるビーコンまで、各地に配置された。海上の敵の姿を確認した時点で最初のビーコンに火がつけられ、大きく燃え盛る。その火を確認した次の地点のビーコン警備隊が、その地のビーコンに火をつける。またその次のビーコン警備隊が…、という流れで灯火リレーを行い、ロンドンまで伝達したのである。ビーコンは、当時最もスピーディで効率的な情報伝達の手段だったと言える。
このビーコンの火を繋げるため、防衛に理想的な見晴らしの良い多数の丘が「ビーコン・ヒル」として選ばれた。「アルマダの海戦」で英国を勝利に導いた、丘から丘への火のリレー。ペニーヒルもその栄光達成に一役買った土地というわけである。