「東は東、西は西」などの言葉を残し、人種差別・蔑視思想の持ち主であったともいわれるキプリングだが、その生涯を辿ると、時代の波に翻弄されて、苦悩し続けた一人の男の素顔が見えてくる。今号では、このキプリングが愛した邸宅を征くことにしたい。
●征くシリーズ●取材・執筆・写真/本誌編集部
英国人初のノーベル文学賞受賞
世界で最も有名な賞と言っても過言ではない「ノーベル賞」。今回取材班が訪れたのは、1907年、英国人として初めてのノーベル文学賞を受賞したラドヤード・キプリング(Joseph Rudyard Kipling1865~1936)ゆかりの地、ベイトマンズBateman's。インドのジャングルを舞台とした少年モーグリの冒険で知られる『ジャングル・ブック』の作者である、このキプリングが、1902年から70歳で亡くなる1936年までの34年間を過ごした邸宅だ。ロンドンから車で2時間ほど、緑豊かな丘がうねる英国南部イースト・サセックスのバーウォッシュにある、キプリングが『一目惚れ』をして購入したという建物である。しかし、英国内で並ぶ者がいないほどの人気作家となり、ノーベル文学賞を受賞し、一大財産を築いたにもかかわらず、キプリングの人生は多くの苦悩と悲しみに彩られている。インドと英国の板ばさみになった幼少期、両親との別離、預けられた知人宅での精神的虐待、度重なる我が子の死…。英国文学界の頂点を極めたキプリングの波乱の人生を追ってみよう。
恐怖の英国生活
英国中部スタッフォードシャーで活躍する彫刻家、陶器デザイナーであったキプリングの父ロックウッドは、英領インドの都市ボンベイ(現在のムンバイ)に新設された芸術・産業学校の教授に就任し、1865年夫妻でインドに移り住んだ。そして同年の暮れ、キプリングはロックウッド家の長男としてボンベイに生まれる。キプリングの両親はインドでの暮らしに慣れてくると、自分たちを英国人ではなく「アングロ・インディアン」だと考えるようになった。「アングロ・インディアン」とは、英国に生まれインドで暮らした人々、あるいは英国とインドとの混血児を表す言葉である。そのため英国人として、そしてインド人としても一人前の人間になるように息子を教育した。だが、「まずヒンディー語で考え、それから英語に翻訳しながら話さなくてはならなかった」生活は、インド生まれで英国を知らないキプリング少年に苦痛をもたらした。こうしたアイデンティティの複雑な問題は、後にキプリングの作品を特徴づけるようになっていく。
キプリングが6歳を迎えると、両親は息子に英国の正規教育を受けさせたいと考えるが、ロックウッドはボンベイの芸術・産業学校ですでに主任教授の地位を任されており、また英国政府からも仕事の依頼が来ていたため、インドを離れることができない状況にあった。両親は断腸の思いで、幼いキプリングだけを英国へ行かせることに決める。
1871年、生まれて初めてもう一つの故郷の地を踏むことへの期待と不安、そして両親と遠く離れて暮らすことへの寂しさを抱え、英国に着いたキプリングは、ポーツマス近郊の町サウスシーへと向かう。この町で暮らしているホロウェイ船長一家の屋敷で、世話になることが決まっていたのだ。そしてキプリングが後年、「恐怖の日々」と語った6年に及ぶホロウェイ家での生活が始まる。
厳格なホロウェイ夫人は嘘や矛盾を許さず、冗談を解さない人物だったようだ。特にホロウェイ夫人の息子と年齢が近かったキプリングは、夫人から「差別」とも思える扱いを受けたという。その場にいないかのように無視されたり、インド育ちの田舎者として蔑まれたりする毎日。少しでも矛盾したことを話すと、たとえそれが子供ならではのちょっとした冗談であったとしても、家族が集う朝食の席で「嘘つき」だと論われた。キプリングはこの時の体験を、「宗教的であり、綿密に計算された拷問だった。だが、私が話をする時に『必要』だと悟ってつくようになった嘘は、文学活動の基礎になったとも言える」と述べている。
両親からは手紙がしばしば届いていたが、キプリングは返事を出す際に、このつらい日常について決して明かさなかった。話すことで現状が改善されるかもしれない可能性よりも、夫人からの風当たりがさらに強くなる方が恐ろしかったのだろう。また、両親を失望させたくないという気持ちもあったに違いない。キプリングはインドにいる父から送られてくる本を常に持ち歩き、物語の中に逃げ込むことで、夫人からの精神的虐待に耐えていた。
12歳になると、キプリングはデヴォンのウェストワード・ホーにある全寮制の学校に進学。6年間悩まされ続けた、ホロウェイ家での日々に終止符を打つことができた。しかし解放感を味わえたのはつかの間のことで、軍人養成のために設立されたばかりの学校の校風に、キプリングはなかなか馴染むことができなかった。結局、学生時代も読書に明け暮れる生活を送り、英国は自分のいる場所ではないと判断したキプリングは、卒業後インドへ戻ることを決意する。
キプリングは人種差別者だった?
しかし『白人の責務』などを読むと、キプリングはただ時代の風潮に流されたのではなく、白人のこうした支配行為が現地人にとっていかに野蛮なものであるか、きちんと自覚していたように思える。別の著書の中では、こうも述べている。
「どんなことがあろうとも、人は自分の身分、人種、素性を越えるべきではない。白人は白人のもとへ、黒人は黒人のもとへ行くべきだ。そうすればどんな災難が降りかかろうと、慌てふためく必要もなく、不意をつかれることもなく、やり過ごせるというものだ」――。
アメリカの幸福な小屋
1882年、英国を離れたキプリングはラホール(現パキスタンの都市ラホール)にある新聞社でジャーナリストとして働き始める。キプリングは、10年ぶりにインドの景色を目にした時の気持ちをこう振り返っている。「私が暮らしたラホールまでは、ボンベイから汽車で3、4日かかった。その間に英国での日々はすっかり消え失せ、『帰ってきた』という強い思いが湧いた」。窮屈な英国生活から脱し、生まれ故郷のボンベイで自分を再発見した瞬間だったのだろう。これまで自分の中に蓄積されてきた物語が一気に溢れ出すかのように、新聞記事の執筆と並行して、インドなどを舞台とした詩や短編小説を寄稿するようになっていく。
しかし作品が評価され始めると、キプリングはより広い文筆活動の場を求めて、再び英国に渡ることを決断。英国には良い思い出がほとんどなく、できれば一生避けたい地であったはずだが、作家として成功を掴むためには出版業が盛んなロンドンへ行く必要があったのだろう。
19世紀後半の英国は、「オリエンタリズム」「ジャポニスム」などの異国文化が流行した時代。キプリングの作品はロンドンの上流社会でたちまち人気を博したが、階級社会に息苦しさを感じていたキプリングは神経衰弱を患ってしまった。
右の写真はキプリング家の子供たちで、左からジョセフィン、ジョン、エルシー。
一人だけ金髪碧眼であったというジョセフィンの美貌は、この写真からもよくわかる。
© NTPL/John Hammond
この結婚を機に、またもやキプリングは英国から離れようと試みる。2人はキャロラインの母国アメリカに渡り、小さな別荘を借りて暮らし始めた。キプリングが「幸福な小屋」と呼んだこの家で、キャロラインは長女ジョセフィンを出産。幼少期の自分の体験を反映したと言われる『ジャングル・ブック』は、この小屋で書き上げられた。やがて夫妻は、アメリカに永住するつもりで土地を購入して家を建てる。次女エルシーも誕生し、穏やかで温かさに満ちた生活はキプリングに創意をもたらした。
だが、そんな幸せな時間も長くは続かなかった。
国境紛争問題による英米間の関係悪化、酒などによって生活がひっ迫し、破産したキャロラインの兄との不和により、ここでの暮らしを続けることができなくなってしまう。暴力未遂事件にまで発展して義兄が逮捕されたことで、ゴシップ好きの人々の目に、プライベートは終始曝されるようになってしまったのである。キプリング一家は慌ただしく荷物をまとめ、4年間過ごしたアメリカに別れを告げた。
ジャングル・ブックってどんな話?
モーグリの話を簡単に紹介すると、ジャングルの嫌われ者である虎のシア・カーンが人間の村を襲ったところから始まる。狼夫婦は村から逃れてきた人間の赤ん坊を引き取って「モーグリ」と名づけ、自分たちの子供と一緒に育てることにした。長老狼アキーラは熊のバルーと黒豹のバギーラをモーグリの後見にし、この2匹がモーグリの師、そして友となっていく。バルーとバギーラによる「子供(モーグリ)のしつけ」は厳しく、「ジャングルの掟」を徹底して叩き込まれたモーグリは、賢い子に成長する。
ある日、虎のシア・カーンの策略により狼の群れから追放されたモーグリは、人間の村へと逃亡。ここで虎に子供を食べられた夫婦に引き取られるが、人間の生活になかなか慣れることができない。身分制度も理解できず、しばしば問題を起こしてしまう。そんな中、シア・カーンが再び村を襲おうと企んでいるとの情報を得て、兄弟狼と長老狼の助けを借り、モーグリはシア・カーンの退治に成功。狼たちと意気揚々と村へ戻ると、村人たちから「狼の子!ジャングルの悪魔!」などと罵られ、石を投げつけられてしまう。結局モーグリは、再びジャングルへと戻っていく。
「狼世界では人間と呼ばれ、人間世界では狼と呼ばれる。自分は一体何者なのか…」と嘆く姿で、この物語は終わる。動物側にも人間側にも帰属できずに悩むモーグリの孤独は、キプリングの幼少期の姿と重なる。
失われた光
英国へ帰ってきたキプリング一家は、ブライトン近郊の町ロッティングディーンに居を定める。その年8月には長男ジョンが生まれて家族も増え、今度こそ英国に定住する覚悟を決めた。しかし、英国で最も著名な作家の一人となっていたキプリングには常に注目が集まっている状態で、そのストレスから執筆も思うように進まない。現代の作家に例えるならば、その人気ぶりは『ハリー・ポッター』シリーズで一躍有名となったJ・K・ローリング級と言えば想像しやすいだろうか。1899年、とうとう体調を崩したキプリングは、そのまま重度の肺炎を患う。意識不明の重体にまで陥った末、なんとか九死に一生を得て回復したものの、意識が戻ったキプリングにもたらされたのは、6歳だった長女ジョセフィンの死の知らせだった。キプリングと同じ肺炎により世を去ったのだ。
アメリカ育ちで活発なジョセフィンは、キプリング家の中で唯一の金髪と青い目を持ち、将来が楽しみなほどの美貌の少女であったという。キプリングは3人の子供のうちジョセフィンを特に溺愛しており、ジョセフィンも「お父さん子」だった。その娘の突然の病死は、キプリングに筆舌に尽くしがたい喪失感と悲しみを与えた。またジョセフィンが苦しんでいた時に、傍についていてやれなかったことも深い後悔となって心に重くのしかかったに違いない。
「父の人生は姉の死後、2度と元に戻ることはなかった。光は失われ、再び明かりが灯ることはなかった」
次女エルシーの言葉が、キプリングの深い悲嘆を伝える。この翌年に描かれたキプリングの肖像画(8頁)は、ジョセフィンを亡くした衝撃と苦しみを如実に物語っている。もとから実際の年齢より上に見られることが多かったキプリングだが、一層老け込んでしまい、35歳にはとても見えない容貌である。ジョセフィンの思い出が詰まった家に住み続けることは、キプリングには耐えられなかった。暮らし始めてからわずか2年しか経っていなかったが、ロッティングディーンを出ることにする。プライバシーを守ることができ、執筆に適した静かな場所も必要だった。そうして出会ったのが、ベイトマンズである。
辿り着いた安息の地
「あれだ! あれしかない!」1900年、新しい邸宅を探し求めていたキプリングは、サリーの緩やかな丘陵地帯に佇む淡い黄色の砂岩が特徴的なベイトマンズを初めて目にしたとき、思わずこう叫んだ。
「一目見たときから、ずっと愛している」とキプリングが語るベイトマンズは、彼が思い描いていた理想の家そのものであり、すべての喧騒から守ってくれる聖域でもあった。2年後、買い取ったベイトマンズに引っ越してきたその日、キプリングは友人にこう書いて送っている。
「英国は素晴らしい場所だ。私がこれまで住んだことのある国の中で、最も素晴らしい地だよ。木々と緑の草原と土と、そして紳士でできている国。ついに、私もその紳士のひとりになったんだ」
© NTPL/Geoffrey Frosh
キプリングはベイトマンズを購入する際、その周辺の土地一帯も買い取った。緩やかな丘や木立に包まれ、近くの村からも少し離れた場所にあるベイトマンズには、親しい友人や郵便配達人しか訪れることはなく、完全にプライバシーを守ることができたのだ。
ベイトマンズでの穏やかな生活は、彼の創作活動に大きなインスピレーションをもたらした。キプリングは子供たちのために、邸宅の窓から見えるプークの丘を舞台とした短編『プーク丘の妖精パック』など、ベイトマンズの地を題材とした詩や童話を次々と発表。目の前に広がる風景を描写し、子供たちと一緒にその景色を実際に見ながら様々な話を語って聞かせたという。
1907年には、弱冠41歳にしてノーベル文学賞を受賞。キプリングはこの賞金を費やして庭園を造り、並木に面した白い睡蓮の花が咲く池やローズ・ガーデン、イチイの生け垣などのデザインも自ら手がけた。特に池を気に入っており、天気の良い日には子供たちと一緒にパドリング・ボートに乗って遊んだといわれている。ジョセフィンの死後、やっとキプリングに心穏やかな日々が訪れていた。
暗闇に覆われた孤独な場所
そんな落ち着いた生活に、再び影が差し始める。第一次世界大戦の勃発である。1914年、17歳になっていた息子のジョンは、キプリングの遺伝によるのか視力が極度に弱く、英陸軍に入隊できなかった。しかし、周囲の友人たちが次々と軍服を身に纏い入隊していく中で、自分だけただ終戦を待つのは耐えられないと苦悩する。ジョンは断固として前線に赴くことを望んでいた。それを見たキプリングは、妻や娘の強い反対を押し切り、自身が政界などに持つ大きな影響力を使って、息子をアイルランド近衛連隊に入隊させた。
戦火は激しくなり、翌年8月、ジョンのフランス出征が決まる。母キャロラインは、息子との別れの場面を日記にこう書き残している。「1915年8月17日。ジョンが正午に兵舎へと出発した。彼が階段の上で振り返り、『父さんに僕から愛を送るよ』と言ったとき、彼がとても頼もしく見えた」。その言葉通り、戦地のジョンからはキプリング宛にしばしば手紙が届いた。この2人の愛情こもった書簡は、今もベイトマンズで見ることができる。
ジョンの出立から1ヵ月ほどが過ぎた9月、これまで一週間と空けずに届いていたジョンからの手紙がパタリと途絶えた。「何かあったのだろうか? いや配達が遅れているだけに違いない」。キプリングは不安を胸に押し込め、原稿に集中しようとした。そこにドアベルの音が鳴り響く。書斎の窓から確認すると、いつもの郵便配達人の姿がある。「ほら、やっぱり! 手紙が来た」。キプリングは足早に玄関へと向かい、笑顔でドアを開けた。だが、いつもは元気に挨拶をしてくる若い郵便配達人の表情は暗く、何も言わずに手紙だけを差し出してくる。手紙を受け取ったキプリングは書斎に戻り、震える手で封を切った。そこに記されていたのは、ジョンが戦場で行方不明になったことを知らせる、簡単な一文であった。
ジョンはフランス北西部、英国海峡に面したルー近くで勃発した戦闘に参戦し、そこで落命。だが、遺体は見つからなかった。戦場でジョンを目撃した友人によると、爆薬による爆風でジョンは眼鏡を失くし、敵味方の判別ができない状態だったという。そして、その後の戦闘で首を負傷し、あまりの激しい痛みに涙を流していたことが伝えられており、それが確認された最後の姿だった。
ベイトマンズは明けることのない暗闇で覆われた。キプリングは長い間、「ジョンは死んでいない、ただ行方不明なだけだ」と主張し、何度もフランスへ足を運んだ。空から目撃者を求めるチラシをまいたりもしたが、消息は掴めなかった。
「列車はどこかの駅で止まらなければならない。それがこんなにも醜く、孤独な場所ではなかったら良かったのに…ねえ、きみもそう思わないかい?」
多くの悲しみを乗り越えてきたキプリングであったが、50年間の人生の中で、これほど胸を引き裂かれるような思いになったことはなかったのではないだろうか。キプリングは晩年、友人への手紙にこう記している。
「もし誰かになぜジョンは死んだのかと問われたら、それは父親のせいだよ、と答えてくれ。ジョンは、自分の息子が隣の部屋でぐっすりと眠っている姿を見て、幸せを感じる経験なんてもうできないんだ」
栄光と苦悩の終焉
娘エルシーが兄の先輩士官と結婚し、キプリングが結婚祝いに贈ったケンブリッジ郊外にある大きな邸宅へ引っ越してしまうと、やっと見つけた理想の地であったはずのベイトマンズは、ますます空虚な場所になった。3人のうち2人の子供を失い、唯一生存しているエルシーは暗いベイトマンズを嫌がり、結婚後訪れることもあまりなかった。
キプリングは創作を続けたが、ベイトマンズの書斎に籠りがちになり、1930年代に入るとそのペースは格段に遅くなる。やがて十二指腸潰瘍を患った後、腹膜炎を併発。ベイトマンズにたちこめた暗闇は晴れることなく、1936年、キプリングは70歳でその栄光と苦悩の生涯を閉じた。3年後の1939年、妻キャロラインも死去。ベイトマンズはナショナル・トラストに寄贈された。
ベイトマンズを訪れたら、建物の中に入る前に、ポーチの左側の砂岩壁を見てみよう。RK(ラドヤード・キプリングRudyard Kipling)、CK(キャロラインCaroline Kipling)、EK(エルシーElsie Kipling)、JK(ジョンJohn Kipling)と家族4人のイニシャルが彫られているのを発見できるはずだ。これらはキプリング自身が彫ったものだといわれている。愛娘ジョセフィンを亡くした絶望を乗り越え、やっと掴んだ穏やかな幸せがいつまでも続くようにというキプリングの願いが、そこに刻まれている。
様々な国を転々と移り住んできたキプリングが選んだ、終の棲家ベイトマンズ。今も息づくキプリングの創作への情熱、家族と過ごした喜び、そして時代に翻弄された悲哀を随所に感じることができる場所である。
当時のままのベイトマンズ
1634年に建てられた、天井が低く重厚感のあるジャコビアン様式のベイトマンズ。キプリングは17世紀の雰囲気をそのまま残そうと大規模な改装は行わず、室内装飾や家具も外観にあわせてジャコビアン様式に統一した。エントランス・ホール、キプリングのベッドルーム、ダイニング・ルーム © NTPL/Geoffrey Frosh
**エントランス・ホール**
隣人の訪問を嫌っていたキプリングのために、ホール入口の正面にある小さな窓から、妻のキャロラインがまず訪問者を確認していた。**キプリングのベッドルーム**
ジャコビアン様式の特徴の一つ、ねじれた柱が目を引くベッド。暖炉の上の壁には、ジョセフィンの肖像画が飾られている。**ダイニング・ルーム**
幼少期をインドで過ごしたせいか、スパイシーな料理が好きだったキプリング。ランチは13時、ディナーは20時と決められていた。**ワイルド・ガーデン**
キプリングのデザインによる洗練された池やローズ・ガーデンとは対極的な「自然のまま」の庭園。敷地内にはダドウェル川が流れる。**水車小屋**
ワイルド・ガーデンの端にある水車小屋。ベイトマンズには電気が通っていなかったため、この水車小屋を用いて、当時としては最先端の水力自家発電設備を設置した。現在も稼動しており、ここで引かれた小麦粉はショップで購入できる。週刊ジャーニー(英国ぶら歩き)動画
TRAVEL INFORMATION
※2011年10月20日現在
ベイトマンズ Bateman's
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アクセス(車をご利用の場合)
ロンドンよりM25のジャンクション5からA21に入り、Hurst GreenでA265へと進む。Burwashの近く。所要約2時間。開館時間
2011年現在~10月30日 11:00~17:00(月~水曜、土・日曜)12月3日~18日 11:30~15:30(土・日曜)
庭園
2011年現在~10月30日 10:00~17:3010月31日~12月21日 11:00~16:00