■〈
のあらすじ〉類まれなる詩才と多くの女性たちとの恋で名を馳せた詩人バイロンの娘でありながら、両親の不仲により、父親の顔を知らずに育ったエイダ。母親の管理下で孤独な生活を送るが、世界初の計算機「階差機関」と出会い、科学の世界に魅了される。結婚を機に母親の元を離れ、すべてが順調にいくように思えたが――。両親の愛憎劇に翻弄され続けた「世界初のプログラマー」の後半生を追う。●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
身体に巣食う病魔
「階差機関(Difference Engine)」を試作した数学者のチャールズ・バベッジに師事することになったエイダは、産業革命を経て発展していく科学や数学的知識を夢中になって追った。そして結婚から1年が過ぎた1836年、長男を出産。エイダは息子に「バイロン」と名付けた。
実は、エイダは幼少期に謎の病魔に襲われたことがある。最初は「はしか」だと思われたものが、やがて彼女の目と手足まで広がっていき、目はほぼ光を失って手足は麻痺。一日の大半を横たわって過ごす生活が、2~3年ほど続いた。医者からは「精神的な病」と診断され、社交界デビューを果たす頃には身体の症状も落ち着きをみせていたが、エイダは自分の身体に対して、一時たりとも安心感を抱いたことはなかった。長男に続き、長女、次男を無事に出産したものの、長女を生んだ後にコレラを発症。これが引き金になって神経麻痺の症状が再発し、一定のサイクルで数ヵ月にわたって寝たきり状態を繰り返すようになってしまった。
身体を思うように動かせず、研究に没頭する機会を逃していることにも焦りを感じていたエイダの元に、母アナベラが厄介事を運んでくる。近親相姦の末に生まれたとされる、父バイロンとオーガスタの娘が、未婚で子どもを抱えたままフランスで肺結核にかかり、困窮しているという報を受け、アナベラが見舞いに行ったのだ。
この娘はバイロンに酷似した性質を持っており、恋多き女性だった。実姉の夫とフランスへ駆け落ちし、子どもを出産したものの彼に捨てられ、母親のオーガスタとも上手くいっていなかったため、なんとアナベラに助けを求めたのである。衰窮した姿を見たアナベラは、金銭的援助を約束し、「憎い女の娘」を完全な支配下に置いたことに優位性と満足感を覚えた。そしてエイダをフランスへ呼び出し、「哀れな義姉」と親しくするように厳命したのだ。結婚後、父について詳細に調べていたエイダは突然の内実暴露にも驚かなかったが、精神状態は悪化、うつ病が深刻化していった。熱に浮かされたように計算式に没頭し、夢中になりすぎて昏倒することもあった。
プログラマーの誕生
1842年、バベッジがイタリアで行った「階差機関」を改良した「解析機関(Analytical Engine)」の講演内容について、フランス語の論評が発表された。英国の科学雑誌『テイラー科学論集』は、英訳記事を掲載しようと翻訳者を探したところ、名が挙がったのが27歳を迎えるエイダであった。責任重大な仕事の依頼に、彼女はバベッジに相談。すると彼は、こう答えた。
「論評を訳すだけでなく、解析機関の構造や機能について、自分なりの詳細な注釈や見解を加えたらどうだい? 自分の研究論文にすればいい」
チャンスは逃すな――。そう告げられたエイダは心を決めた。当時、この驚異的な機械について、本当に理解できている研究者はいなかった。それを説明するには、数学の概念のほか、機械工学や計算機の相互的関係にまで立ち入らなくてはならない。大きな挑戦となることは間違いなかった。
エイダはバベッジに協力を仰ぎ、病で研究を中断させながらも翌年、記事を完成させた。注釈は翻訳した本文の3倍の分量になり、「研究論文(メモワール)」と呼ばれることになる。65ページにおよぶ論文は好評を博し、また世界初の解析機関のプログラム・コードが詳しく分析・解説されていたことから、のちにエイダは「世界初のコンピューター・プログラマー」と呼ばれるようになる。その後も、様々な書評を書いたり、著名な学者と共同研究を行ったりと、科学の世界で少しずつ認められていった。
母との決別
1850年、エイダ夫妻はイングランド北部をめぐる長旅の途中で、ノッティンガムシャーにあるバイロン家代々の邸宅「ニューステッド・アビー」を訪れる。ここは、かつてバイロンがワインを満たした頭がい骨を片手に馬鹿騒ぎした場所で、死の数年前に借金返済のために手放していた。屋敷はバイロンの寄宿学校時代の級友に買い取られ、バイロンの肖像画や胸像はもちろん、寝室でさえ当時のままに保持されていた。エイダはこの館に足を踏み入れたときの感動を、母にこう書き送った。
「ここを訪れたのは、私の人生において最良のことでした。この場所について抱いていた途方もない、荒涼とした思いは消え失せました。今は古くからの由緒あるこの場所を、私の父、祖先たちすべてを心から愛しています」
エイダから母への挑戦状と言ってもいいだろう。人生の大半を母に操られて生きてきたが、一生続くかと思った催眠状態から揺り起こされたのである。アナベラはショックを受け、娘を責め立てる手紙を何度も送りつけるものの、エイダの心は揺るがなかった。「哀れな義姉」騒動から母とは疎遠になっていたが、母娘が決定的に道を違えた瞬間であった。
呪縛からの解放
翌1851年、解析機関をベースにした「自動機械ゲーム」を考案すると同時に、ゲームの勝率を定式化しようと試みていたバベッジに、エイダは協力を申し出る。そして、自分の中のもうひとつの面――「悪」とされた父の血――に対する恐怖が消え、心が求める情熱のままに身を任せることにしたエイダは、親しい友人たちを集め、勝率を数字で計算できる場へと繰り出した。その場所とは「競馬場」である。案の定、競馬の魅力にはまった彼女は多額の負債を抱え、やがてグループ内の一人と情事にも溺れるようになっていく。損失は3200ポンド(現在の50万ポンド、約7000万円)にのぼり、エイダは代々受け継いできた宝石を売却して工面しなければならず、やがて愛人も離れていった。
さらなる黒い影がエイダを襲う。子宮がんである。1840年代後半から突然の発作や激痛で倒れることが増えていたが、うつ病を患っていたこともあり、アヘンチンキ治療しか施されておらず、発覚したときにはすでに末期だった。
1852年11月27日、ロンドンの自宅にてエイダは息を引き取った。享年36、奇しくも父と同じ年齢での死であった。エイダは死の床で、「自分の亡骸は父の傍らに葬ってほしい」と頼んだという。夫はこの言葉を守り、エイダはニューステッド・アビー近くにある聖メアリー・マグダレン教会のバイロン家代々の地下納骨堂に葬られた。
彼女が残したもの
世界が大きく変貌したヴィクトリア朝時代に、父親と母親の才能と愛憎に翻弄されたエイダは、まさに旧時代と新時代を体現した女性だったと言える。幸福とは言い難い人生を送ったエイダだが、後世になって、その業績はとくに高く評価されるようになった。そのきっかけとなったのが、現代のコンピューターの基礎をつくったと言われる、数学者のアラン・チューリングである。
第二次世界大戦時に、ドイツの暗号機「エニグマ」を解読し、1936年に自動計算機の模型「チューリング・マシーン」を考案した彼は、エイダの研究論文(メモワール)を読み、解析機関のプログラム・コードを100年前に生み出していた彼女に感心した。スキャンダルまみれのバイロンの娘としてではなく、現代におけるコンピューターの発展に貢献した人物として、エイダはいまや世界中でその功績が認められている。
米国防省が使う プログラミング言語「エイダ」とは?
1980年12月10日、米国防総省はエイダの功績に敬意を表し、新しいコンピューター・プログラミング言語を「エイダ(Ada)」と名づけた。MIL規格番号(MIL-STD-1815)は、彼女の生年にちなんでおり、発表日はエイダの誕生日であった。
「Ada」は多彩な言語機能と高度な言語体系を持ち、航空機のボーイング777、F-22戦闘機(写真)の制御ソフトウェアは「Ada」によって書かれている。飛行に憧れた少女の夢は、150年を経て叶ったと言えるのかもしれない。
週刊ジャーニー No.1135(2020年4月30日)掲載