2011年9月15日 No.694

取材・執筆・写真/本誌編集部

クィーン・マザー ハネムーンの地
ポールズデン・レ イシーを征く  


毎週末開かれる煌びやかな宴を見守り続けてきたポールズデン・レイシー。
現エリザベス女王の両親、ジョージ6世とクイーン・マザーがハネムーンを過ごした地でもある。
だが、その華やかさの裏には、自分の存在価値を見出そうと
もがき苦しんだ、ある女主人の姿があった。
今号では、マーガレット・グレヴィルの孤独と野心に満ちた人生を追いつつ、
ポールズデン・レイシーを征くことにしたい。

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劇作家シェリダンも愛した邸宅

 ロンドンから車で1時間ほど、英国南東部サリーの丘陵地帯ノース・ダウンズNorth Downsの高台に、今回取材班が訪れたポールズデン・レイシーがある。
 駐車場に車を停め、木漏れ日の差す並木道を進んでいくと、淡いレモン・イエローの外壁が優美な、エドワード様式の邸宅が見えてくる。2007年の一般公開以来、毎年約30万人が訪れ、ナショナル・トラストが管理する物件の中でも常に「ベスト10」内に入っている人気スポットだ。
 ポールズデン・レイシーの魅力の一つは、1400エーカー、東京ドームに換算すると約120個分にも及ぶ広大な敷地である。遠く緩やかに緑の丘がうねり、そこに点在する幾つかのコテージの煙突からは煙がたなびく。ロング・ウォーク(散歩道)に設えられたベンチに腰をおろし、一日中眺めたとしても飽きることはないだろうと思わせる景観だ。
 さらに特筆すべきは、英王室との深い縁だろう。とくに映画『英国王のスピーチ』で、改めて注目を浴びたジョージ6世とクイーン・マザーがハネムーンを過ごしたことで知られている。
 この眺望のよい高台に邸宅が建てられたのは、1336年のこと。1198年まで同地を所有していたハーバート・ド・ポールズデンHerbert de Polesdenと、1387~93年に邸宅を所有していたジョン・レイシーJohn Laceyの両名の姓から、「ポールズデン・レイシー」と名づけられたと考えられている。いつ頃からこの名称で呼ばれるようになったのかは定かでないが、記録によると、少なくとも1562年には正式な地所名として確立していたようだ。
 ポールズデン・レイシーは、多くの所有者のあいだを転々と渡り、その都度手を加えられてきた。そうした大勢の所有者の中で最も著名な人物のひとりとして、詩人・劇作家のリチャード・シェリダン(Richard Brinsley Sheridan1751~1816)が挙げられる。
 『恋敵』『悪口学校』といった機知と風刺に富んだ喜劇で成功を収めていたシェリダンは、ロンドンにある名高いドゥルリー・レーン劇場の劇作家として活躍していただけでなく、同劇場マネージャーも兼任しており、1804年にポールズデン・レイシーを購入した。売れっ子だけに、ロンドンでは気を休めることができなかったのだろう。所有していた約6年間、時間を見つけてはここを訪れ、のんびりと疲れを癒したり、友人や地元の住民を招待してパーティーを催したりしていたという。
 さらに数人の手を経て、1906年、ポールズデン・レイシーはある男に買い取られた。同年に妻を亡くした男は、母を失くして悲嘆に暮れる愛娘を少しでも元気づけようと、週末はロンドンから離れて過ごすことを勧めた。そして、そのための館を娘夫婦に贈ったのである。
 その男の名はウィリアム・マキューアン(William McEwan1827~1913、以下、マキューアン)。ポールズデン・レイシーの最後の所有者、マーガレット・グレヴィル(Dame Margaret Helen Greville, Hon Mrs Greville, DBE1863~1942)の父親である。当時、英国の社交界随一の女主人と謳われた娘マーガレットは、上流階級の人々をこの邸宅に招き、莫大な資金力を見せつけるかのような豪華なパーティーを開くようになっていく。

 

複雑な生い立ち

ポールズデン・レイシーの最も豪華な部屋、サロンに飾られている、マーガレットが26歳の時の肖像画。
© NTPL/Derrick E. Witty

マーガレットの父、ウィリアム・マキューアン。現在もその名が残る、人気のスコッチ・エール会社「マキューアンズ」を創立。
© NTPL/Jonathan Gibson

 マキューアンはスコットランドの小さな町で、船主の息子として生まれた。4歳のときに父親が亡くなり、家計は苦しかったが、16歳まで母方の祖父母が金銭的に援助してくれたおかげで、なんとか人並みの教育を受けることができた。20歳になったマキューアンは以前から興味を持っていた、上面発酵で醸造されるビールの一種、エールの醸造法を学ぼうと、首都エジンバラにある叔父が経営するエール醸造所へ向かう。
 1856年、真摯な働きぶりと商才に目を留めた叔父の勧めや、母親からの資金提供により、29歳でエジンバラに自身のビール醸造所を立ち上げる。これが今もなお、スコットランドで高い人気を誇るエールの銘柄「マキューアンズMcEwan's」である。インドや南米など、当時の英植民地へのエール輸出に早くから乗り出した「マキューアンズ」は、80年代後半には社員200名以上を抱えるまでに発展を遂げた。
 ちなみに、その後150年にわたってスコッチ・エール業界のトップを走り続けてきた同社は、2001年以降売り上げが下降し、現在はハイネケンの傘下に納まっている。
 さて、マキューアンに話を戻そう。
 娘マーガレットの出生については、謎が多い。
 最も広く信じられているのは、エジンバラで下宿屋を営んでいたヘレン・アンダーソン(Helen Anderson1836~1906)との間に生まれたという説だ。なぜ、これが「説」に留まっているかというと、マーガレットが誕生した当時、2人は正式な婚姻関係を結んでいなかったためである。マキューアンは独身であったが、ヘレンは夫を持つ身であり、その夫はマキューアンが経営するビール醸造会社で荷物の運搬を請け負う日雇いポーターだった。ヘレンの立場から言うと、いわゆる夫の上司との不倫関係だったのである。裕福な実業家のスキャンダルは一気に広まり、マーガレットが婚外子であることはエジンバラで周知の事実となったとされている。
 当時は、ヴィクトリア女王とアルバート公の仲睦まじい家庭が手本とされ、放埓な生活は戒められた時代。とくに女性の浮気に対する世間の目は厳しかった。町を歩けば好奇の目で見られ、ゴシップの対象とされる毎日。隣人からの嫌がらせもあったかもしれない。ヘレンやマーガレットにとって、エジンバラでの生活は忍耐の連続であったことは想像に難くない。マーガレットは生涯、エジンバラを嫌っていたという。

 

 

3度のプロポーズ
ジョージ6世 &
クイーン・マザー
 

 

ハネムーンの様子を撮影した写真や、その後マーガレットとやり取りをした手紙などが机の上に飾られている。

 

 多くの王侯貴族や政治家がポールズデン・レイシーを訪れたが、中でもこの邸宅を語る上で欠くことのできないロイヤル・カップルがいる。現エリザベス女王の両親、ジョージ6世(1895~1952)とクイーン・マザー(1900~2002)である。
 ジョージ5世とクイーン・メアリーの次男として生まれたジョージ6世は、1920年、25歳の時にストラスモア伯爵家の四女エリザベス(後のクイーン・マザー)と出会い、恋に落ちた。翌年、彼女にプロポーズするが玉砕。諦め切れなかったジョージ6世は、22年に自身の妹の結婚式でブライド・メイドを務めたエリザベスに再度求婚するが、またも撃沈。さすがの王子も断念するかと思いきや、彼女以外の女性とは結婚する意志がないことを家族に宣言し、23年1月に3度目のプロポーズを決行。エリザベスは悩んだ末、その求婚を受け入れた。
 ウェストミンスター寺院で挙式を終えた2人は、4月26日~5月7日迄の12日間をポールズデン・レイシーで過ごした。その13年後、皇太子の兄エドワード8世が離婚歴のある米人女性ウォリス・シンプソン夫人と結婚するために退位し、急遽国王として即位することになるとは、その時思いもしなかっただろう。

 

1923年、ハネムーンでポールズデン・レイシーに滞在中のジョージ6世とエリザベス。南側のバルコニー前にて撮影。
© Illustrated London News/NTPL

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