野田秀樹新作舞台 NODA•MAP「正三角関係」世界配信決定
野田秀樹新作舞台 NODA•MAP「正三角関係」世界配信決定

© English Heritage Photo Library

14~16世紀にかけて重要な王宮とされるも、時代とともに忘れ去られたロンドン東部にある「エルサム・パレス」。20世紀初頭に当時最先端のデザイン様式で蘇り、現在も「アールデコ」の真骨頂として姿をとどめている。今回は、このエルサム・パレスを征くことにしたい。

●征くシリーズ ●取材・執筆・写真/本誌編集部

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英国内の由緒ある城やマナーハウスなどを訪れ、豪華絢爛の装飾に慣れてしまっている人にとっては拍子抜けし、少々殺風景にすら映るかもしれない。取材班が訪れたエルサム・パレスは、私たちが観光名所として訪れる他の歴史的建造物と明らかに一線を画している。外観こそオーソドックスな印象を与えるものの、インテリアはアールデコ様式に統一されており、館内に足を踏み入れた瞬間にそのすっきりと清涼感のある内装に気づくはずだ。

現在イングリッシュ・ヘリテージが管理するこのパレスは、その名から想像できるように、14~16世紀にかけて王宮として利用された。英国の特筆すべき王ヘンリー8世が幼少期を過ごした場所でもある。しかし時代が下った17世紀以降は廃墟と化してしまう。このパレスが、どのようにしてアールデコ様式の美しい邸宅へと生まれ変わったのか。時代をさかのぼってみよう。

弧を描くように施された列柱の間を抜けるとエントランス・ホールへ。
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英国の財閥コートールド

修復されることなく風化されるばかりだったエルサム・パレスが、新たに息を吹き返すことになったのは1933年のこと。スティーブン・コートールドとその妻ヴァージニアがこの王室所有地の貸借権を買い上げてからである。

コートールドと聞いてアートに詳しい人であれば、ロンドン中心部のサマセット・ハウスにある>「コートールド・ギャラリー」が思い浮かぶだろう。同ギャラリーの礎を築いたのが、サミュエル・コートールドで、スティーブンの兄にあたる人物だ。

コートールド家は、もともとはフランス出身のユグノー(フランス近世のカルヴァン派の新教徒で、商工業者に信者が多かった)で、17世紀末に英国に移住し、銀細工を営んでいた家系とされる。産業革命期の18世紀末に繊維業を起こし、20世紀初めには世界のレーヨン(絹に似せて作った再生繊維)製造の40%を占めるまでに事業を拡大し、巨万の富を得た英国の財閥だ。創業者はスティーブンの曾祖父にあたる。

大財閥コートールド家の4男坊であり末っ子として生まれたスティーブンは、生涯働く必要がないばかりか、家業を継ぐ必要すらなく、自らの興味や関心の赴くままに生きていた。旅行を最大の趣味とし、ヨーロッパの最高峰モンブランを制覇するほどの登山愛好家でもあった。妻のヴァージニアとは、モンブラン登頂を果たした1919年にアルプスで出会っている。

コートールド夫妻の肖像画。中央にいるのが、ペットのキツネザル「マージョン」。

自由気ままな放蕩息子のように聞こえるが、文化的な事業や慈善活動への関心は兄のサミュエル以上で、ロイヤル・オペラ・ハウスの理事や、映画やテレビの撮影で有名なイーリング・スタジオの財務監督などを務めたほか、第二次世界大戦後に移住した当時の英領ローデシア(現ジンバブエ共和国)では、教育施設や劇場、コンサートホールなどの設立のために出資、同国の文化発展に貢献したとして「サー」の称号を与えられている。その彼が最も情熱を注いだのがエルサム・パレスの修復である。

ブルジョアのステータス

登山のほかスキー、ヨットなどが趣味の自然愛好家の2人にとって、ロンドンのシアター通いにも便利で、かつ広大な自然に囲まれたエルサム・パレスは最高の物件に思われた。パレスは廃墟となったグレート・ホールがかろうじて残るだけとなってしまっていたが、自分と愛する妻の新居を一から作るのにはむしろ都合がいい。またその目的以上に、英王室の歴史が息づくパレスを救うという使命が、何よりスティーブンの心を高揚させた。

庭園の堀から望む邸宅。右側にはロック・ガーデンがあり、 来場者の目を楽しませる。

ここに友人たちを招き、ガーデンを開け放して晩餐会を開いたら、どんなに素晴らしいだろうか―。トップデザイナーや一流建築家を集め、最新の技術とデザインを駆使した今までにない洗練された家にしたい、と改装への夢は膨らんだ。そして2人の持つ知識、人脈、財力を活かし、エルサム・パレスは栄華を取り戻したのだった。

モダン芸術の結晶

ダイニング・ルームに設えられた扉。漆黒に幾何学模様が映える。

その頃最先端だった>アールデコ様式の特徴は、幾何学的な線とパターン化された模様で、その簡潔さと合理性を兼ねたデザインは、自動車や飛行機などといった当時の新しい工業製品をはじめ、ファッションや家具、建築とありとあらゆるものに取り入れられていた。キュビズムやモダニズム、構成主義、未来派などといった様式とも影響し合い、後のポップ・アートの基礎を形成したともいえる重要な様式だ。

その見事な例として称えられる邸宅へと足を踏み入れてみよう。

訪問者はまず、このパレスの顔ともいえるエントランス・ホールに迎えられる。一般住居としては斬新な円形のホールは、ドーム型のガラス天井になっており、曇天でもふんわりと明るい光が室内を包む。

© English Heritage Photo Library

ホールの内装を手がけたのはスウェーデンの建築家ロルフ・エングストロマーで、曲面の壁を覆う化粧版には、やはりスウェーデンのアーティストによってローマ兵とヴァイキングが雄々しく描かれている。コートールド夫妻は北欧、とくにスウェーデンの建築を好み、ストックホルムを旅行した際に、エングストロマーの建築に打たれたといわれる。雑誌「カントリー・ライフ」の1937年版には、このホールが「スウェーデンの近代建築デザインとして、おそらく英国で最初の例であろう」と紹介されている。

細やかな小道具が各所に展示され、1930年代の雰囲気が演出されている。(写真左)
エントランス・ホールの一角の小さなブースに取り付けられている来客用のコイン式電話。電話の発明から50年以上が経過していたとはいえ、一般家庭にはまだまだ電話が普及していなかった時代の贅沢品といえる。電話のみならず、電気冷蔵庫や埋め込み式のオーディオ設備、床暖房など、一般住宅としては画期的な設備が導入されていた。(写真右)
ヴァージニアのウォーク・イン・クローゼット。

11室あるすべての寝室がトイレ・浴室のついた、いわゆる「オンスイート」で、暖房用のラジエーターやヒーターは埋め込み式、照明も灯具を隠した間接照明となっており、空間を有効に使いつつ、余計な凸凹を排除する工夫が施されている。また、世界中を旅していた夫妻らしく、日本の漆塗りや中国の螺鈿(貝殻の薄片を漆器や木地にはめ込む装飾技術)をほうふつとさせる黒塗りの扉や、ローマやギリシャを思わせる黄金のモザイクの施された壮麗なバスルームなど、異国趣味も其処ここに散りばめられている。

妻ヴァージニアの寝室。ルーマニアで生まれたヴァージニアは、足首から太ももにかけて蛇の刺青を入れるなど、型にはまらない性格だったとされる。
ヴァージニアの寝室の奥に設けられたバスルーム。このパレスの見どころのひとつといわれる。黄金に輝くものの派手すぎず上品な印象を受ける。

中世のホールを再現

邸宅内で唯一古くから残るグレート・ホールだけはアールデコ様式ではなく、中世からの歴史に敬意を払うかのようにチューダー風に修復されている。これは夫妻の意向であるとともに、王室所有地管理委員会からの厳しい監査の目が入ったためでもある。

グレート・ホールは、中世当時イングランドで最も大きなホールのひとつであり、現在でも木製ハマービーム(片持ち梁)の天井を持つホールとしては、ハンプトンコート、ウェストミンスター・ホールに次いで3番目の大きさを誇っている。幅約11メートル、奥行き31メートル、高さ約17メートル。>チューダー朝の王ヘンリー8世は幼少期をこの地で過ごしており、幼きヘンリーにとってはさらに大きく感じられたことが想像される。

パレスの建築およびホールの修復には当時、富豪たちの邸宅や教会の建築で腕をふるっていたピーター・ページェットとジョン・シーリーがあたった。彼らは、エルサム・パレス修復の功績を評価され、第二次世界大戦後には爆撃を受けた教会を始め、多くの建物の修復事業を受注している。

グレート・ホールにある修復を記念した碑文。「古きにエドワード王によって建てられたホールは、ヴァージニアとスティーブンの敬愛により、今ここに蘇る」といった意味のラテン語が刻まれている。下には、現女王の提案により、「当ホールは1479年にエドワード4世により建てられており、庭の堀に渡された石橋は1396年にリチャード2世が作らせたもの、堀壁は1300年ごろ、ダラム司教アントニー・ベックの時代に遡るものである」という文も追記されている。

他の各部屋とは一線を画しているグレート・ホールだが、これによりエルサム・パレスが、30年代には「過去と現在が交叉する場所」、今では「アールデコの絶好例と中世の歴史を合わせ見ることのできる比類ない場所」となっているのだ。

時代を超えた魅力

残念ながら、コートールド夫妻はこの夢の館を心ゆくまで堪能することができなかった。第二次世界大戦が始まり、爆撃に脅かされたからである。10年と経たずして、コートールド夫妻は88年という貸借権を王室に返還し、退去せざるを得なくなった。

現在のように一般公開されるようになったのは1999年のこと。戦禍を被ったパレスの管理維持をイングリッシュ・ヘリテージが担うことになり、200万ポンドを費やしての改装を終えてからだ。来館者はコートールド夫妻の日常を想像させる趣向のオーディオに耳を傾け、当時に思いを馳せながら見学できるようになっている。

丁寧に整えられた庭園は、ゆっくり歩いて回っても1時間程度とコンパクト。冬場にはライトアップ・イベントが開催され、より華やかな雰囲気に包まれる。

英王室の歴史に再び光を当て、新たな歴史を加筆したエルサム・パレス。中世の香りと1930年代の華やかな社交界の雰囲気が漂い、時代を超えた魅力が詰まったこのパレスに、足を運んでみてはいかがだろうか。

ヘンリー8世、運命の出会い 中世の王宮「エルサム・パレス」

 

エルサム・パレスの起源は14世紀初頭に遡る。ダラム司教により時の国王、エドワード2世に譲渡されたのが始まりで、16世紀まで王宮として使われていた。まわりを3つの森林公園が囲み、王族たちが狩猟をたしなんでいたと伝えられる。

この王宮を愛した王は少なくないが、特筆に値するのはヘンリー8世が少年期を過ごした場所ということだろう。ヘンリーが、後に終生の友となる人文学者であり神学者のエラスムスと初めて会ったのもこの地。2人を引き合わせたのは、ヘンリー8世の重鎮として知られ、後に斬首されたトマス・モアである。ロッテルダム近郊出身のエラスムスは、神学を学びながらパリ、イタリアを転々としており、この地を訪れたのは1499年の渡英直後のことだった。

左から、ヘンリー8世、トマス・モア、エラスムス。
イングランドの最高勲章「ガーター勲章」は、このエルサム・パレスに集まった騎士たちを母体とするガーター騎士団に与えられるものとして、1348年にエドワード3世が創設した。

ヘンリー王子9歳、エラスムス33歳、トマス・モア21歳―。トマス・モアとエラスムスも生涯にわたり交友を深め、同性愛説がまことしやかに流れるほど親密であったことを考えると、ここでの出会いは、3人の「絆」が生まれた重要な瞬間であったといえる。

エラスムスはヘンリー王子との初対面を振り返り、次のようにつづっている。 「滞在しているグリニッジの宿にトマス・モアがやってきて、近くのエルサムまで行こうという。そこでは、皇太子のアーサー(この3年後に逝去)を除いて、王族の子息たちが一緒に勉強しているからだ。ホールに着くと、9歳のヘンリー王子が真ん中に立っていて、すでに王族らしい立派な立ち振る舞いをしていた。それは威厳と品位に満ちていた」。ここで「ホール」といわれている「グレート・ホール」は、今もその面影をみることができる。

ヘンリー8世以降の王は、グリニッジの川沿いで交通の便の良い王宮「グリニッジ・パレス」を住まいとして好み、エルサム・パレスは狩猟のためのハンティング・ロッジとして使用するようになった。ちなみにグリニッジ・パレスとは、ヘンリー8世が設けたもので、現在の旧王立海軍大学の場所に位置していた王宮である。

エルサム・パレスは17世紀に入り、チャールズ1世の主席宮廷画家であったヴァン・ダイクの休憩所として貸し出されたこともあったが、王室メンバーが滞在することは皆無となった。そこへ、清教徒革命が勃発。議会派の攻撃対象となり、グレート・ホール以外が全壊、パレスは瓦礫と化した。3つの森林公園のうち2つは農園となり、グレート・ホールが家畜小屋に、それ以外の部分は食料貯蔵庫として使われ、パレス一帯は農場に様変わりしてしまったという。以降、王宮の修復作業は行われず、20世紀の復活まで静かな時を過ごしたのだった。

大富豪のコレクションを一堂に コートールド・ギャラリー

  

ロンドンのサマセット・ハウス内に、世界でも屈指の印象派および後期印象派コレクションを有する「コートールド・ギャラリー」という小規模なギャラリーがある。正確には、ロンドン大学付属コートールド美術研究所(Courtauld Institute of Art)の付属ギャラリーが一般公開されているものだ。

上左:ヴァン・ゴッホの『耳を切った自画像』 同右:マネの『フォリー・ベルジェールのバー』

この研究所は、美術史と美術品保存の教育、研究において世界最高峰とされる教育機関で、専門教育分野は古代美術から現代美術までを広く網羅し、著名な美術史家や画商、アートジャーナリストなどを輩出している。

この研究所を設立したのがスティーブンの兄サミュエル・コートールドだ。美術研究家でもあったサミュエルは英国ではさほど注目されていなかった印象派にいち早く目をつけており、自身のコレクションを寄贈する形で1932年にコートールド・ギャラリーが誕生した。

印象派および後期印象派の作品が秀逸と絶賛されるだけでなく、初期ルネサンスから20世紀にかけての質の高いコレクションで知られる。印象派といえばパリのオルセー美術館が有名だが、フランスまで行かずとも印象派の名作に触れられる。

ただ現在、同ギャラリーは2018年9月から2年超にわたる改修工事のため、休館中となっている。再オープンまでにまだしばらく時間を要するが、開館したらぜひ足を運んでみよう。

The Courtauld Gallery [改修工事のため休館中]

Somerset House, Strand, London WC2R 0RN
https://courtauld.ac.uk
改修に合わせ、現在コレクションが日本に運ばれ、大規模エキシビションが開催されている。

アールデコが花開いた1930年代とは?

2つの大戦の狭間にあり、1929年に始まった世界大恐慌の影響を受け「大不況時代」ともいわれた1930年代。貧しい暗黒の時代にあって、『オズの魔法使い』(1939年)に代表されるカラー映画製作をはじめ、テレビや車や飛行機といった新しいテクノロジーが急成長を遂げ、厳しくも独創的でエネルギッシュな時代だったといえよう。

この頃の英国では、新産業の発展により財をなした新興ブルジョア層の間で、廃墟と化した古城を買い上げ、自宅用に改築し、社交サロンとして著名人を招くことが、ひとつのステータス・シンボルとなった。今では観光名所となったリーズ城をはじめ、数々の廃墟がこうして息を吹き返したのである。エルサム・パレスもそのひとつだ。

アールデコ様式は当時のありとあらゆるものに取り入れられ、ロンドンでは「OXOタワー」や「デイリー・エクスプレス」ビルの建築、高級ホテル「サヴォイ」や「クラリッジズ」の内装、ピカデリー・ラインのサウスゲイト駅、オスタリー駅、ハウンズロー・ウェスト駅などにアールデコのデザインを見ることができる。

Travel Information 2019年9月16日現在

Eltham Palace And Gardens
Court Yard, Eltham, Greenwich, London, SE9 5QE
www.english-heritage.org.uk/visit/places/eltham-palace-and-gardens

アクセス
車…M25のジャンクション3からA20に入り、Elthamへと進む。ロンドン中心部よりおよそ1時間。カーナビ用ポストコードはSE9 5NP。
公共交通…ロンドン・ブリッジ駅またはチャリング・クロス駅から、ナショナルレールでエルサムEltham駅またはモッティンガムMottingham駅へ。50分程度。駅からは徒歩あるいはバス。オイスターカード利用可。

オープン時間
~2019年11月3日:月~金、日曜
2019年11月4日~12月22日:日曜のみ
2019年12月23日以降、および開館時間はウェブサイトにてご確認を

入場料
大人:15.40ポンド 子供:9.20ポンド
家族(大人2人、子供最大3人):40ポンド

週刊ジャーニー No.1104(2019年9月19日)掲載