
■小国イングランドを繁栄へと導き、45年という長きにわたりトップに君臨したチューダー朝の女王、エリザベス1世(1533~1603年)。父王ヘンリー8世の次女として、若きエリザベスが過ごしたハットフィールド・ハウスを征くことにしたい。
●征くシリーズ●取材・執筆・写真/本誌編集部
エリザベス1世が神に深く感謝した日
1558年11月17日早朝。
イングランド女王メアリー1世は、毎朝の日課であるミサを待たずに、静かに息を引き取った。8月から病の床にふせっており、11月に入り病状はますます悪化。逝去は時間の問題とみられたため、使者は当然のことのようにロンドン北部へと馬を走らせた。
行き先はハットフィールド。
メアリー1世の異母姉妹であるエリザベスが、事実上軟禁されていた離宮である。ドラマチックな説の方をとると、宮廷からの使者が到着したとき、25歳になっていたエリザベス王女は大きな樫の木の下で聖書を読んでいたとされる。学問好きと評判だった彼女らしいエピソードではあるが、実際には既にハットフィールドでは「準備」が整っていたというのが正確なところらしい。この後40年間、エリザベスの右腕、いや、時にはそれ以上の働きをするウィリアム・セシルも執務机についていたという。ヘンリー8世の第2子として生を受けたエリザベスが、ようやく反逆者・異端者として処刑されるのを恐れることなく過ごせる立場をその手につかんだ、記念すべき日だった。

当時、英国のみならずヨーロッパのいたるところで、カトリック対プロテスタントという宗教上の対立抗争が激しく繰り広げられており、バチカンの法皇を頂点とする旧勢力カトリックは、その強大なパワーをもって新興プロテスタントを弾圧するのに躍起になっていた。
ヘンリー8世は後にエリザベスを生むことになるアン・ブリンとの再婚を求め、最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンと離婚するため(カトリックでは許されていなかった)、自らカトリックから離反。同時に英国国教会をつくってその長となったものの、キャサリンとの間にできた長女メアリーは熱心なカトリックになり、次女エリザベスはプロテスタントとして育っていた。この長女メアリーが、冒頭で述べたメアリー1世である。

第3子で末っ子のエドワードは、父王の死後、9歳で王位に就くも15歳の若さで1553年に死去。「9日間の女王」ジェーン・グレイを経てメアリーが即位した。メアリーは信仰に篤いあまり、後に多くのプロテスタントを処刑し「ブラディー・メアリー」の異名をとったほど(よもや、カクテルの名前に使われることになるとは夢にも思わなかっただろう)。メアリーは配偶者として、スペイン国王フェリペ2世を選択。カトリックの跡取りを熱望するも、ついに子宝には恵まれなかった。
在位中、カトリックの側近らは、王位継承権第1位のエリザベスをなんとか排斥しようとあらゆる手を試みた。反逆罪で処刑するというのが、彼らが最も望んだシナリオだったが、さすがのメアリーも腹違いとはいえ妹の命を奪う「罪」にはためらいをみせ、エリザベスをロンドン塔に幽閉した後、ハットフィールドに軟禁するにとどまっていた。
結果としてエリザベスは生きながらえ、イングランド女王として君臨することになる。その門出の地となったのが、ロンドン市内から約20マイル(32キロ)離れたハットフィールド・ハウスなのだ。
ヘンリー8世に気に入られた屋敷
ハットフィールド・ハウスの起源は、この運命の日からもう少々さかのぼる。15世紀後半、イーリー主教ジョン・モートンにより、現在「オールド・パレス」と呼ばれている部分が完成。その一部が、下の写真に写っている建物である。その頃にしてはモダンな総レンガづくりで、後に、狩猟などでここをしばしば訪れていたヘンリー8世が気に入り、子供部屋ならぬ子供パレスとして王室所有とする。自らの生誕の地であり、エリザベスも生まれたグリニッジ・パレスより環境が良いと判断したためとすれば、自分の恋愛ごとだけでなく、子供の養育にも案外ヘンリーは熱心だったのかもしれない。

3人の子供の中でも、ハットフィールドと最も結びつきが強いのがエリザベスだ。幼き王女はハットフィールドで有意義な時間を過ごしている。王になるべくして4歳下の長男エドワードが生まれると、王子に与えられた質の高い教育をエリザベスも共有。歴史や科学を学んだほか、語学に至ってはラテン語やギリシャ語など6言語を習得した。幼いふたりは君主として備えるべき教養を身に着け成長していった。一方で、長女メアリーは異なる思いを抱いている。父とアン・ブリンの結婚に反対した罰として、17歳下の妹エリザベスに仕えるべくハットフィールドに送られたこともあり、メアリーにとってこの地での生活は屈辱とも呼べるものだった。
生涯独身だったことから処女王と呼ばれるエリザベス1世だが、ティーンエイジャーの頃に義母キャサリン・パーの再婚相手であるトマス・シーモアとの良からぬ噂が流布したことがあるのは歴史の知るところだ。トマスは権力の座を狙ってエリザベスとの結婚を画策するなどしたことから投獄(のちに処刑)されるが、疑いはエリザベスにも向けられる。その際に王女が尋問を受けた場所もこのハットフィールドでのことだった。

1558年、女王になりたてのエリザベス1世は、しばらくハットフィールドに宮廷を置いた。そのころの「宮廷」は、女王の諮問機関であり、議会でもあるなど国の行政を司る役を担っていた。内政・外交に関する最高決定機関だったのだ。国政デビューを果たした若き女王にとって、自分の「ホーム」でウォーミングアップを図ろうと考えたのかもしれない。
女王としての道を歩み始めてからはハットフィールドとのかかわりは限られたものとなるが、この地で多感な時代を過ごし、彼女のよりどころとなったことは言うまでもない。その後、エリザベスは45年の長きにわたってイングランドを治め、黄金時代と称えられるほどの繁栄をもたらすことになる。

4分の1が姿をとどめるオールド・パレス
さて、エリザベスとハットフィールド・ハウスの歴史をたどったところで、実際に敷地内へと足を踏み入れてみたい。現在のハットフィールド・ハウスは、17世紀に建てられた邸宅「ハウス」、エリザベス1世が過ごした「オールド・パレス」のほか、手入れの行き届いたガーデン、森林公園で構成されている。ただ、最初に述べておくと、エリザベス1世が過ごした「オールド・パレス」は、当時のわずか4分の1しか残っていない。1603年にエリザベス1世が崩御し、ジェームズ1世(スコットランド王として6世)が即位すると、ハットフィールド・ハウスは同王へと引き継がれるが、王はこの「古びたパレス」を嫌い、セシル家が女王をたびたびもてなした「セオバルド・ハウス」と交換することをウィリアム・セシルの次男ロバートに提案する。その結果、ヘンリー8世が手に入れた子供パレスは王族の手を離れたのだった。

ロバートは父の死後しばらくエリザベスに仕えたが、女王の死去に備えてジェームズ1世を即位させるための政治工作に骨を折ったこともあり、王から首相にあたるチーフ・ミニスターとして重用され、ソールズベリー伯爵にも命じられている。ハットフィールドがセシル家の手に渡ると、ロバートは王をもてなすために適した空間づくりに乗り出し、華麗な外観と豪奢な内装を誇る邸宅が完成した。これが現在「ハウス」と呼ばれている邸宅である。

首相を何人も生んだ「名家」の貫禄

「オールド・パレス」は、不定期で開催されるツアーでのみ見学が可能となっている。中世の面影が漂う建物内を歩きながら、ハットフィールド・ハウスの成り立ちやヘンリー8世、エリザベス1世を取り巻く物語が担当ガイドから語られる。
「パレス」と呼ぶには簡素すぎるほどの内装と外装は、質実剛健さを好んだエリザベスにふさわしい場所だったといえるだろう。たとえば、もてなしの場として使われたはずのグレート・ホール(バンケティング・ホール)を例にとってみても、天井は木材を組み合わせただけ、壁の一部はレンガのままといった具合である=上写真。

一方、ソールズベリー家(現在は「侯爵」)の栄華をしのばせる、「ハウス」は、訪れた者に主の権力と富をみせつけるかのように、貴重な絵画や調度品であふれている。地上階にある「マーブル・ホール」に立ってみると、ここでロバート・セシルが宮廷の要人たちを集めて大パーティを得意気に開いている様が目に浮かぶようだ。一般公開されている部屋は邸宅の一部であるものの、「キング・ジェームズ・ドローイング・ルーム」や「ロング・ギャラリー」「ライブラリー」などが続きソールズベリー家が何代にもわたって栄えたことを物語る。


実際、ウィリアムとロバートにより確立された、「名門政治家の血筋」はその後も守られ、第3代ソールズベリー侯は、ヴィクトリア女王時代に3度も首相になったほどだった。1902年に日英同盟が結ばれる直前には、伊藤博文もハットフィールドでの会食に招かれたといわれている。
ロンドン・キングズ・クロス駅から電車で30分ほどという距離も手軽なハットフィールド・ハウス。15世紀末から500年あまりにわたり続き、王族、政治家らのドラマを目撃してきたこの地を訪れてみてはいかがだろうか。

「エリザベス1世 虹の肖像画」を詳しく見てみよう!

「イングランドと結婚した神聖な君主」というイメージを植え付けるため、肖像画にさまざまなシンボルを残したエリザベス1世。その中でも有名な1点で、晩年(1600~1602年頃)の女王を描いた「虹の肖像画」が邸宅内に飾られている。この絵が意図するものを確かめながら、じっくり鑑賞してみよう!
1. Non sine sole iris(太陽なくして、虹はなし)

この絵が描かれた頃の女王は60代後半。であるにもかかわらず年齢不詳の美しさと完全性をたたえる表情の「虹の肖像画」。その名で呼ばれる所以は、中央左に書かれたラテン語と女王が手にする虹(透明の物体)にある。文字は「太陽なくして、虹はなし」の意味で、太陽は女王を、虹は平和を表し、「女王がいなければ平和は訪れない」と意図したことが読み取れる。
2. 処女性を表す真珠

アクセサリーとドレスにあしらわれているまばゆいばかりの真珠。処女性や美、完全性を印象付けている。
3. 知性を示す蛇

左袖に描かれた蛇は叡智の象徴。ハート形のルビーをくわえており、これはエリザベスの心を表しているとされる。
4. ガウンの柄は目と耳

「壁に耳あり障子に目あり」の言葉を思い出させるのが、ガウンに描かれた耳と目。女王がすべてを見聞きしていることを示しているのだそう。ちょっと不気味…。
Travel Information
Hatfield House, Park & Gardens
Hatfield House, Hatfield, Herts AL9 5NQ
www.hatfield-house.co.uk
House:水〜日、祝日の月曜 午前11時〜午後5時
Garden, Park & Woodland Walks:火〜日、祝日の月曜 午前10時30分〜午後5時30分
East Garden:水のみ 午前10時30分〜午後5時
※イベントなどの影響で休みとなることも。事前にウェブサイトで要確認。
House, Garden, Park & Woodland Walks:大人19ポンド、子供9ポンド
Old Palace:不定期で開催されるツアーでのみ見学可能。1人4.50ポンド(来場当日、チケットブースで購入可能)。実施日程はウェブサイトにて。
車:A1(M)を北上し、A1001/Welham Greenで降りて、A1001、A1000を進む。「ハットフィールド・ハウス」を示す茶色の看板があるので、それに従って進むとわかりやすい。カーナビを利用する場合は、AL9 5HXを入力。
公共交通:キングズ・クロス駅から電車で約30分でハットフィールド駅に到着。駅正面の歩行専用門から入場可能。
動画へGo! 編集部制作のショートフィルム
エリザベス1世、戴冠までのいばらの道
ハットフィールドハウス The Coronation of Queen Elizabeth I, Hatfield House
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週刊ジャーニー No.1095(2019年7月18日)掲載