2011年8月18日 No.690

取材・執筆・写真/本誌編集部

女王が愛した、海の見える離宮
オズボーン・ハウスを征く  

1901年1月22日、英国の黄金時代に君臨した女王、
ヴィクトリアが81年の長き生涯を静かに閉じた。
その日、イングランド南部に浮かぶ小さな島、ワイト島のオズボーン・ハウスには、
彼女の子供や孫たちが集い、偉大なる母、祖母との最後の別れを惜しんだという。
オズボーン・ハウスは、そのすべての設計を最愛の夫アルバート公が手がけており、
ヴィクトリア女王が生涯愛し続けた離宮だった。
今号では、ヴィクトリア女王ゆかりのこの邸宅を征くことにしたい。

 

黒い空に覆われたバッキンガム宮殿での生活

 1837年6月20日、18歳の若さで即位、大英帝国の元首となったヴィクトリア女王(Queen Victoria 1819年5月24日~1901年1月22日〈在位1837年6月20日~同没日〉)。同女王は即位すると、生まれ育ったケンジントン宮殿を早々に後にした。まずはセント・ジェームズ宮殿に数ヵ月のみ身を寄せ、そして現在はエリザベス女王が執務を行うバッキンガム宮殿に、君主として初めて入る。
 生後8ヵ月で父のケント公エドワードを亡くしたヴィクトリア女王の少女時代は、家族愛に飢えた、孤独なものだった。ケンジントン宮殿では、母のケント公夫人ヴィクトリアから、徹底した英才教育を施された。また「ケンジントン・システム」と呼ばれる厳しい生活ルールの元で、思春期にあった女王は、外部との接触がほとんど許されないという、軟禁にも近い状態に置かれていた。
 女王としての戴冠は同時に、息の詰まる思いばかりを味わったケンジントン宮殿からの解放も意味していた。またヴィクトリア女王が結婚に際して、家族愛溢れる家庭と心安らぐ空間を求めるようになるのは、少女時代の忌まわしい経験が深く影響していると言われている。
 夫となるドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ公国のアルバート公(Prince Albert of Saxe-Coburg and Gotha 1819年8月26日~61年12月14日)は母方の従弟にあたる人物だったが、二人はたちまち恋に落ち、結婚の手はずは速やかに整えられていった。
 1840年2月10日、20歳同士という若い二人のロイヤル・ウエディングが、セント・ジェームズ宮殿で盛大に執り行われた。
 幸せを謳歌するヴィクトリア女王だったが、不安の種も抱えていた。当時のロンドンの空は、工業発展の副産物である煤煙に覆われ、大気汚染は深刻な状況にあった。このような中で女王は、バッキンガム宮殿での公務を負担と感じるようになっていた。
 これから増える家族のことを考えた女王夫妻は、生活の基盤をロンドン郊外のウィンザー城へと移すことを決める。以降、各国元首の歓迎式典や、英国国教会の宗教行事など、市内で行うことが必須とされる行事に列席する以外、女王がロンドンに赴くことはなくなっていく。

 

 

 

理想的な別邸はアルバート公の節約の賜物

 

 ヴィクトリア女王はアルバート公との間に4男5女、合計9人もの子をもうけ、ヨーロッパ中の王室へ王女らを嫁がせ、その系譜を広げた。そのことから「ヨーロッパの祖母」とも称されている。
 結婚してから3年が経過した1843年10月、ヴィクトリア女王は既に1男2女の母となっていた。女王夫妻は家族の時間を、よりプライベートな空間で過ごしたいと願い、地方に別邸を探し始める。
 夫妻は翌年、時の首相ロバート・ピール Sir Robert Peelから、ワイト島の北部に建つオズボーン・ハウスを紹介され、早速下見を兼ねてワイト島を訪れた。当時のオズボーン・ハウスは、レンガと石から成るこぢんまりとした3階建てのものだったが、女王は「部屋は少々狭いけれど、気に入りました。子供たちのために改装して、増築すれば素晴らしい住まいになるでしょう」と、日記に記している。ワイト島には少女時代に休暇で2度ほど訪れたことがあり、女王にとっては思い出のある場所でもあったのだろう。
 45年、女王夫妻は342エーカーの敷地を持つオズボーン・ハウスを購入。さらにその3年後には、スコットランド中部アバディーンシャーにあるバルモラル城 Balmoral Castleも、オズボーン・ハウスと同様の理由で手に入れている(正式な所有権は52年からとなる)。これにより夫妻は英国土を縦断するように、それぞれ北と南に一軒づつ理想的な別邸を有したのである。
 ちなみに、ヴィクトリア女王が鉄道での移動が好きだったという記録も残されているように、1840年代は英国内に鉄道網が急速に広がっていった時代だった。これにより遠方への移動手段が馬から鉄道へと移り変わり、格段に早く快適なものとなっていたことも、ウィンザー城から遠く離れたこの2つの地が選ばれた理由といえるだろう。
 また実のところ、ヴィクトリア女王が即位した当時、王室財政は深刻な状況に陥っていた。特に女王の伯父、ジョージ4世(在位1820~30年)のギャンブルや女性がらみのスキャンダル、さらに度を越した豪遊によってふくれ上がった借金は膨大な額に達してしまっていた。それにも関わらず、この頃にはここまで大きな買い物ができるほど、財政は立て直されていた。これは一重にアルバート公が、ドイツ人らしい生真面目さをもって行った「王室改革」が功を奏した結果といえる。
 アルバート公は、細かい備品の購入から、王室職員の人員調整にいたるまで徹底的に支出の無駄を省いた。一方でジョージ4世が贅の限りを尽くしてブライトンに建てた王宮、ロイヤル・パビリオンを売却するなどし、王室財政は2人の結婚後4年程で黒字に転じたのだった。
 こうして40年代後半から、オズボーン・ハウスとバルモラル城が女王一家の私的な別邸、ウィンザー城とバッキンガム宮殿が公務を行う王宮となっていく。

 

倹約家のアルバート公の知恵と芸術的センスの見事な競演

オズボーン・ハウスが英国王室の離宮として使われたのはわずか55年。そのためオズボーン・ハウスは女王夫妻の趣向以外が入り込む余地が少なかったこともあり、2人の、特にアルバート公のアイディアに満ちている。ただ、オズボーン・ハウス取得当時、王室の財政は極端に逼迫していた。そのため、大理石の柱は大理石風に巧みにペイントされたものであったり、左右対称の二つの扉が実は片方が偽の、開かずの扉となっていたりと、低予算で可能な限り豪華に見える数々の工夫が施されている。
 

ナースリー・ベッドルームThe Nursery Bedroom © English Heritage

グランド・コリドーGrand Corridor © English Heritage

ドローイング・ルームDrawing Room © English Heritage

スィッティング・ルームSitting Room © English Heritage

カウンシル・ルームCouncil Room © English Heritage