
1901年1月22日、英国の黄金時代に君臨した女王、ヴィクトリアが81年の長き生涯を静かに閉じた。その日、イングランド南部に浮かぶ小さな島、ワイト島のオズボーン・ハウスには 彼女の子供や孫たちが集い、偉大なる母、祖母との最後の別れを惜しんだという。オズボーン・ハウスは、そのすべての設計を最愛の夫アルバート公が手がけており、ヴィクトリア女王が生涯愛し続けた離宮だった。今回は、ヴィクトリア女王ゆかりのこの邸宅を征くことにしたい。
取材・執筆・写真/本誌編集部
黒い空に覆われたバッキンガム宮殿での生活

1837年6月20日、18歳の若さで即位、大英帝国の元首となったヴィクトリア女王(Queen Victoria 1819年5月24日~1901年1月22日〈在位1837年6月20日~同没日〉)。同女王は即位すると、生まれ育ったケンジントン宮殿を早々に後にした。まずはセント・ジェームズ宮殿に数ヵ月のみ身を寄せ、そして現在はエリザベス女王が執務を行うバッキンガム宮殿に、君主として初めて入る。
生後8ヵ月で父のケント公エドワードを亡くしたヴィクトリア女王の少女時代は、家族愛に飢えた、孤独なものだった。ケンジントン宮殿では、母のケント公夫人ヴィクトリアから、徹底した英才教育を施された。また「ケンジントン・システム」と呼ばれる厳しい生活ルールの元で、思春期にあった女王は、外部との接触がほとんど許されないという、軟禁にも近い状態に置かれていた。
女王としての戴冠は同時に、息の詰まる思いばかりを味わったケンジントン宮殿からの解放も意味していた。またヴィクトリア女王が結婚に際して、家族愛溢れる家庭と心安らぐ空間を求めるようになるのは、少女時代の忌まわしい経験が深く影響していると言われている。
夫となるドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ公国のアルバート公(Prince Albert of Saxe-Coburg and Gotha 1819年8月26日~61年12月14日)は母方の従弟にあたる人物だったが、二人はたちまち恋に落ち、結婚の手はずは速やかに整えられていった。
1840年2月10日、20歳同士という若い二人のロイヤル・ウエディングが、セント・ジェームズ宮殿で盛大に執り行われた。
幸せを謳歌するヴィクトリア女王だったが、不安の種も抱えていた。当時のロンドンの空は、工業発展の副産物である煤煙に覆われ、大気汚染は深刻な状況にあった。このような中で女王は、バッキンガム宮殿での公務を負担と感じるようになっていた。

これから増える家族のことを考えた女王夫妻は、生活の基盤をロンドン郊外のウィンザー城へと移すことを決める。以降、各国元首の歓迎式典や、英国国教会の宗教行事など、市内で行うことが必須とされる行事に列席する以外、女王がロンドンに赴くことはなくなっていく。
理想的な別邸はアルバート公の節約の賜物
ヴィクトリア女王はアルバート公との間に4男5女、合計9人もの子をもうけ、ヨーロッパ中の王室へ王女らを嫁がせ、その系譜を広げた。そのことから「ヨーロッパの祖母」とも称されている。
結婚してから3年が経過した1843年10月、ヴィクトリア女王は既に1男2女の母となっていた。女王夫妻は家族の時間を、よりプライベートな空間で過ごしたいと願い、地方に別邸を探し始める。
夫妻は翌年、時の首相ロバート・ピール Sir Robert Peelから、ワイト島の北部に建つオズボーン・ハウスを紹介され、早速下見を兼ねてワイト島を訪れた。当時のオズボーン・ハウスは、レンガと石から成るこぢんまりとした3階建てのものだったが、女王は「部屋は少々狭いけれど、気に入りました。子供たちのために改装して、増築すれば素晴らしい住まいになるでしょう」と、日記に記している。ワイト島には少女時代に休暇で2度ほど訪れたことがあり、女王にとっては思い出のある場所でもあったのだろう。
45年、女王夫妻は342エーカーの敷地を持つオズボーン・ハウスを購入。さらにその3年後には、スコットランド中部アバディーンシャーにあるバルモラル城 Balmoral Castleも、オズボーン・ハウスと同様の理由で手に入れている(正式な所有権は52年からとなる)。これにより夫妻は英国土を縦断するように、それぞれ北と南に一軒づつ理想的な別邸を有したのである。
ちなみに、ヴィクトリア女王が鉄道での移動が好きだったという記録も残されているように、1840年代は英国内に鉄道網が急速に広がっていった時代だった。これにより遠方への移動手段が馬から鉄道へと移り変わり、格段に早く快適なものとなっていたことも、ウィンザー城から遠く離れたこの2つの地が選ばれた理由といえるだろう。
また実のところ、ヴィクトリア女王が即位した当時、王室財政は深刻な状況に陥っていた。特に女王の伯父、ジョージ4世(在位1820~30年)のギャンブルや女性がらみのスキャンダル、さらに度を越した豪遊によってふくれ上がった借金は膨大な額に達してしまっていた。それにも関わらず、この頃にはここまで大きな買い物ができるほど、財政は立て直されていた。これは一重にアルバート公が、ドイツ人らしい生真面目さをもって行った「王室改革」が功を奏した結果といえる。
アルバート公は、細かい備品の購入から、王室職員の人員調整にいたるまで徹底的に支出の無駄を省いた。一方でジョージ4世が贅の限りを尽くしてブライトンに建てた王宮、ロイヤル・パビリオンを売却するなどし、王室財政は2人の結婚後4年程で黒字に転じたのだった。
こうして40年代後半から、オズボーン・ハウスとバルモラル城が女王一家の私的な別邸、ウィンザー城とバッキンガム宮殿が公務を行う王宮となっていく。
倹約家のアルバート公の知恵と芸術的センスの見事な競演

オズボーン・ハウスが英国王室の離宮として使われたのはわずか55年。そのためオズボーン・ハウスは女王夫妻の趣向以外が入り込む余地が少なかったこともあり、2人の、特にアルバート公のアイディアに満ちている。ただ、オズボーン・ハウス取得当時、王室の財政は極端に逼迫していた。そのため、大理石の柱は大理石風に巧みにペイントされたものであったり、左右対称の二つの扉が実は片方が偽の、開かずの扉となっていたりと、低予算で可能な限り豪華に見える数々の工夫が施されている。




イタリアへと誘うような別世界

「穏やかで青い海、さわやかな風、まるでイタリアにいるよう」。
52年夏、オズボーン・ハウス滞在中のヴィクトリア女王の日記からは、同地で彼女が心の底からリラックスしている様子が伝わってくる。
女王夫妻が最初に目にしたオズボーン・ハウスは、ロイヤル・ファミリーが過ごすにはやはり小さすぎたため、大部分が取り壊され、新たに作り上げられることになった。そうして内装から庭園にいたるまで、新生オズボーン・ハウスのアイディアと設計は、アルバート公の手にすべて委ねられることとなる。ハイドパークに隣接する白亜の高級住宅地、ベルグレイヴィア Belgraviaを手がけたことで名高い建築家、トーマス・キュービット Thomas Cubittの協力の元、6年の歳月をかけ、オズボーン・ハウスは女王一家の離宮として生まれ変わった。
アルバート公にとってワイト島は、休暇で訪れた南イタリア・ナポリの沿岸部を想起させるものだったこともあり、デザインにはイタリア・ルネッサンス様式を施した。そんな情景が、女王にあたかもイタリアにいるかのような爽快な気分を感じさせたのだろう。
ワイト島で過ごした人生最良の日々
ヴィクトリア女王の誕生日を祝う5月、アルバート公の誕生日に合わせた7、8月、それに11月から12月のクリスマス前までをオズボーン・ハウスで過ごし、クリスマスにはウィンザー城へ戻っていくというのが、1850年代の女王一家の習わしとなっていった。
女王夫妻は、オズボーン・ハウスの敷地内で散歩や乗馬をするなどして楽しんだ。夏の晴れた日には、テラスに出て新鮮な空気をたっぷりと吸いながら朝食をとり、午後になると木の下で読書をしたり、離れのコテージでお茶を飲んだりと、ほとんどの時間を屋敷の外で生き生きと過ごした。
また、子供たちには自然に恵まれた環境で伸び伸びと育ってほしいと願った女王夫妻は、オズボーン・ハウスで多くの時間を彼らのために費やした。アルバート公は子供たちと庭に出て蝶を追いかけたり、凧を飛ばしたり、時には草原ででんぐり返しをしてみせるなど、自然と触れあいながら、子供の目線で一緒に戯れた。また夜には、ヴィクトリア女王が自分の寝室に子供たちを一人ずつ毎晩交代で呼び入れ、仲睦まじい会話を弾ませた。
当時、貴族は親子であっても、距離を置いて生活するのが一般的であったにもかかわらず、子供たちに愛情をたっぷりと注ぐ女王夫妻の様子は、写真や絵画によって国民の知るところとなっていく。大衆は、それまで恋愛や金銭がらみのゴシップの絶えなかった王室の変わりぶりを喜び、女王に絶大な支持を寄せるようになっていったのだった。
また、夫妻は57年8月に、フランス皇帝、ナポレオン3世(1808~73年)と、妻ウジェニー皇后をオズボーン・ハウスで歓待している。フランス革命やナポレオン戦争中は敵対していた両国だが、この頃は同盟関係を結んでいた。とはいえ、やはり緊張状態も見え隠れしていたため、フランスと良好な関係を望んだ女王は、非公式にこの機会を持つことを考えた。これが功を奏し、以降もフランスとの関係が円満に保たれたと言われる。
とりわけウジェニー皇后と気があったヴィクトリア女王は、彼女の息子、ナポレオン4世(1856~79年)もたいそう可愛がり、後に末娘のベアトリス王女(1857~1944年)の結婚相手にと考えるまでになる。ただ、残念ながらナポレオン4世は、79年に戦死してしまったため、この縁談は立ち消えとなった。
その翌年、ウィンザー城で公務に就いていた女王は、「オズボーン・ハウスの堅苦しさのない、明るい部屋に早く戻りたい」と、長女のヴィクトリア王女宛てに書き記している。オズボーン・ハウスは女王にとって、単に別邸というだけではない、心の拠り所になっていたのだろう。
オズボーン・ハウスに表現された『インド女帝』ヴィクトリア

18世紀後半から東インド会社による、インドの領地拡大を推し進めていた大英帝国は、ついに1876年、インドの全面的統治に成功する。翌年の1月1日、インドのデリーで戴冠式典が行われ、ヴィクトリア女王がインド女帝に即位した。ヴィクトリア女王は、その生涯でインドを訪れることはなかったが、大変な興味を示していたという。

オズボーン・ハウスのダーバー・コリドーDurbar Corridorとダーバー・ルームDurbar Roomを有するダーバー・ウィングDurbar Wingは、そんなヴィクトリア女王のインド女帝としての権威を形に表すため、90年~91年にかけて増設された。また、87年6月からヴィクトリア女王は、オズボーン・ハウスにてインド人を2人採用。そのうちの1人、アブドゥル・カリム Abdul Karimは、24歳の若さにして、女王からヒンドゥー語教師という高い地位を授かり、女王の旅行にまで同行するなど、お気に入りの側近として、女王が亡くなるまでその職をまっとうした。

オズボーン・ハウスが支えた悲嘆の日々

61年はヴィクトリア女王の生涯で最も悲劇的な年となった。3月に母、ケント公夫人が死去。追い討ちをかけるように、クリスマスが迫る12月14日には、アルバート公が腸チフスに冒され急逝する。
女王は公務を行うはずのウィンザー城からすぐさま離れ、オズボーン・ハウスやバルモラル城で、黒いドレスを着込み、隠遁生活を送るようになる。
公務を遠ざけ、国民の前から姿を消した女王は、2年、3年…と、喪に服し続け、立ち直る兆候をまったく見せなかった。そんな女王の様子に議会や大衆は少しずつ苛立ちを募らせていく。しかしながら、アルバート公の死を悼む気持ちを抑えつつ、君主としての義務を果たすなど、女王には到底できないことだったのだろう。
やがて、女王の悲しみは献身的な侍従や身内によって、徐々に和らいでいく。
とりわけオズボーン・ハウスでヴィクトリア女王の馬の世話係を務めたジョン・ブラウンは、彼女の長い人生の中でも異彩を放つ存在だった。
ブラウンは、アルバート公が信頼していたバルモラル城付きの侍従だったが、公の死後、女王のためにオズボーン・ハウスに派遣されてくる。
他の使用人が遠慮がちに、女王と最小限の言葉を交わすに留まるのとは対照的に、ブラウンは、ストレートな物言いで積極的に女王に話しかけた。ブラウンの無骨ながらも純粋な忠誠心は、女王の固く閉ざされた心を溶かし、女王はアルバート公在りし日のように、ブラウンを引き連れ乗馬に出かけるまでになっていく。そんな2人の絆は、恰好の王室ゴシップとなっていくが、それでもブラウンは女王にとって大切な友人であり続けた。
また、ヴィクトリア女王と末娘のベアトリス王女とは、5人いる娘たちの中でも特に強い絆で結ばれていた。ベアトリス王女は、85年にドイツのバッテンベルク家のヘンリーと結婚するが、女王の強い説得により、夫を英国に住まわせる形で、結婚後も変わりなく女王の側で暮らした。ベアトリス王女一家は女王から、オズボーン・ハウスの新館、ダーバー・ウィングの1階部分をあてがわれ、王女は、女王の最も信頼する私設秘書として、女王のためにその人生を捧げたのだった。
愛して止まぬ館での最期
オズボーン・ハウスの枕詞といえば「(女王の)冬の離宮」とされることが多いが、これはアルバート公の死後、ヴィクトリア女王が夏から冬へと同ハウスに滞在する季節をずらしており、亡くなるまでその習慣が続けられたことによるものだ。
夏のオズボーン・ハウスには、アルバート公在りし日の家族との思い出があまりにも凝縮されており、女王はあえてその季節を避けたかったのだろう。または単に、老いていく女王が、ウィンザーよりも暖かいワイト島で冬を過ごしたかった、という理由に過ぎなかったのかもしれない。いずれにせよクリスマスはウィンザー城で過ごすと決めていた女王だが、それをオズボーン・ハウスへと代え、そのまま年を越し、春を迎えるというパターンを常とした。

そうして迎えた1901年。ヴィクトリア女王はいつものようにオズボーン・ハウスで新年の朝、目を覚ます。その年の日記の書き初めには「新たな年が明けた。弱っているのが良くわかる。悲しいけれど迎えがきたということ」とし、迫り来る最期の時を、本人がある種の確信をもって予感していたのだった。
その日記のわずか数日後、1月22日、家族に看取られながら、ヴィクトリア女王は安らかにアルバート公の元へと旅立った。
オズボーン・ハウスはヴィクトリア女王の死後も、王室の所有とすることが女王の遺志だった。ところが、王位を継承した長男のエドワード7世は、母の死後わずか1年足らずで、オズボーン・ハウスを国へと譲渡してしまう。彼は英東部のノーフォークにサンドリンガム・ハウスを有しており、オズボーン・ハウスを「近づきがたい白い象」と形容するなど、無用の長物と見なしていたのだった。
その後オズボーン・ハウスは、海軍兵学校として使われ、また第一次世界大戦時には、傷痍兵の療養所とされるなど、歴史に翻弄されていくことになるが、1986年からイングリッシュ・ヘリテージの管理下に置かれ、ヴィクトリア女王の在りし日の姿が、半世紀以上の時を隔てて無事、取り戻されることとなった。
オズボーン・ハウスの何十もの部屋には、あまたの煌びやかなコレクションが配され、その優美な様子は、英国の黄金期といわれた19世紀という時代を如実に物語っている。しかしながら、オズボーン・ハウスは王宮としての豪奢さを知らしめすに留まらない。調度品はもとより、アルバート公の豊かな芸術的センスが生かされた同ハウスからは、その空間を愛し、そこで触れ合った女王一家の人間的なぬくもりが満ちているのを感じられるのだ。夫婦愛、家族の絆…現代に生きる我々とのそうした共通点を見出させてくれる場だからこそ、オズボーンは今日も多くの人々を魅了してやまないのだろう。
オズボーン・ハウス Osborne House
10月 10:00~16:00
11月5日~14日 10:00~16:00(庭園のみ)
2012年2月18日~29日 10:00~16:00(庭園のみ)
3月1日~31日 10:00~16:00
料金 大人 £11.50
子供 £6.90
ファミリー・チケット £29.90
Concession £10.40 お問合せ 住所: The Avenue, East Cowes, Isle of Wight PO32 6JX
Tel: 01983 200022
www.english-heritage.org.uk/visit/places/osborne/

1メイン・ウィング Main wing
2ハウスホールド・ウィング Household wing
3パビリオン Pavilion: royal apartments
4テラス・ガーデン Terrace gardens
5ダーバー・ウィング Durbar wing
6ウォールド・ガーデン Walled garden
7スイス・コテージ The Swiss Cottage
Aレセプション(ショップ、カフェ併設)
B見学者入口
C駐車場
ワイト島 トラベル・インフォメーション
※情報は2011年8月15日現在のもの
1:二ードルズ・パークNeedles Park

【住所】 Alum Bay PO39 0JD
Tel: 0871 720 0022
www.theneedles.co.uk
【入場料】 無料 ただしアトラクションの制限有
【開場時間】 2011年4月2日~10月30日 10:00開園
(冬季:2011年11月1日~2012年3月25日の開園・閉園時間は事前に確認のこと)
2:カリスブルック城Carisbrooke Castle

【住所】 Castle Hill, Newport PO30 1XY
Tel: 01983 522107
www.english-heritage.org.uk/visit/places/carisbrooke-castle/
【入場料】 大人 £7.30、子供 £4.40
【開場時間】 10月31日まで 10:00-17:00
10月1日~31日 10:00-16:00
11月1日~2012年3月31日 10:00-16:00
(ただし2012年2月13日~17日以外は土・日曜のみオープン)
3:ブラックギャング・チャインBlackgang Chine

【住所】 Nr Ventnor PO38 2HN
Tel: 01983 730330
www.blackgangchine.com
【入場料】 大人 £10.50、シニア £8.50、グループチケット(4人)£39.00
【開場時間】 2011年3月28日~10月30日
(9月5日まで) 10:00 - 18:00
(9月6日~25日/10月22日~30日)10:00 - 17:00
(9月26日~10月23日) 10:30 - 16:30
4:シーヴュー・ワイルドライフ・エンカウンターSeaview Wildlife Encounter

【住所】 Oakhill Road, Seaview PO34 5AP
Tel: 01983 612261
www.seaviewwildlife.com
【入場料】大人 £8.95、子供(3~15歳)£6.95
【開場時間】 2011年4月2日~10月31日
(9月30日まで)10:00-17:00
(10月1日~31日)10:00-16:00
5:スティーム・レイルウエイIsle of Wight Steam Railway

【住所】 The Railway Station,
Haven Street PO33 4DS
Tel: 01983 882204
www.iwsteamrailway.co.uk
【入場料】 ファーストクラス:大人 £14.50、子供(5~15歳)£10.00
スタンダードクラス:大人 £9.50、子供(5~15歳)£5.00
6:アマゾン・ワールド Amazon World Zoo Park
熱帯雨林の世界を体験できる温室。熱帯の植物が生い茂り、ワニやナマケモノ、キツツキなど珍しい動物が勢ぞろい。【住所】 Watery Lane, Nr Arreton PO36 0LX
Tel: 01983 867122
www.amazonworld.co.uk
【入場料】 大人 £8.75、子供(3~14歳)£6.95
【開場時間】 年中無休 10:00開園
ワイト島へのアクセス

英国本土とワイト島は、まだ橋で結ばれていないため、海を渡ることになる。マイカーで同島に渡るならカー・サービス(フェリー)を選ぶしかないが、島内を公共交通機関で回るなら、パッセンジャー・サービスとカー・サービスの両方から選択することが可能。今回、編集部はワイトリンクWightlink社のフェリーを利用して、ポーツマス~フィッシュボーン間を渡った。
Wightlink Tel 0871 376 1000/www.wightlink.co.uk
●ポーツマスPortsmouth~ライド・ピアー・ヘッドRyde Pierhead
パッセンジャー・サービス/所要22分
●ポーツマスPortsmouth~フィッシュボーンFishbourne
カー&パッセンジャー・サービス/所要40分●リミントンLymington~ヤーマスYarmouth
カー&パッセンジャー・サービス/所要35分
このほか、サウサンプトンSouthampton~イースト・カウズEast Cowes/ウェスト・カウズWest Cowes間を結ぶレッド・ファネル社Red Funnel Services(www.redfunnel.co.uk)、サウスシーSouthsea~ライド・エスプラネードRyde Esplanade間を結ぶホヴァートラベル社Hovertravel(www.hovertravel.co.uk)による便もある。詳細はそれぞれのウェブサイトでご確認を。
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週刊ジャーニー No.690(2011年8月18日)掲載