1575年7月9日。期待と不安が入り混じった緊張感に包まれながら、エリザベス1世の到着を待つ男がいた。人生を賭けた「最終決戦」で勝利を収めるべく、滞在する女王のために城を大々的に改築し、贅を尽くした催しを企画。しかしその結果、自らは破産寸前まで追い込まれていた——。
今号では、貪欲に頂点を目指したある男の数奇な生涯と女王の恋、そして求愛劇の最後の舞台となったケニルワース城を紹介しよう。

●征くシリーズ●取材・執筆・写真/本誌編集部

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ロンドンから車で北上すること、約2時間。イングランド中部コヴェントリーの近くに、ケニルワース城がある。人工池(現在は草地となっている)にぐるりと囲まれ、中世時代にはその美しさを讃えられた城だったが、現在はすっかり廃墟と化している。
この城が建てられたのは1120年代。当時の国王ヘンリー1世の命を受け、イングランド中部で軍事的権勢を誇っていたウォリック伯爵ロジャー・ド・ボーモンを牽制するため、彼の居城であったウォリック城からわずか5マイルの距離に建造されたのが、ケニルワース城の起源だ。今日の姿に変わり果てたのは、17世紀に起きた清教徒革命時で、王党派のシェルターとして使われないよう議会派勢力によって破壊され、以降再建されることはなかった。かつて女王を歓待し、城としてのピークを迎えていた華々しい日から、たった70年後のことである。

ロバートの寝室として使われた「ステート・アパートメント」(写真上の中央)と、エリザベスとその家臣団の宿泊用に建てられた「レスターズ・ビルディング」(写真上の奥)。城の建造には、ウォリックで採掘される赤みを帯びた「新赤色砂岩」が用いられた。
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幼馴染はエリザベス1世

1575年当時のケニルワース城の様子を再現したイラスト。外堀の周りをぐるりと人工池に取り囲まれているのがわかる。
530年におよぶケニルワース城の歴史の中で、同所をもっとも輝かせた立役者の名をロバート・ダドリーという。ロバートが城主となったのは1563年、30歳を過ぎた頃。当時のイングランド君主、エリザベス1世から「レスター伯爵」の称号とともに与えられた城であった。
2人は幼少期から一緒に育った幼馴染だった。当時の上流階級の若い子女たちは、後見人となる身分の高い貴族のもとに預けられ、学問や社交、礼儀作法を学ぶのが一般的であった。ロバートは預けられた王宮のひとつで、1歳下のエリザベスと多くの時間をともに過ごし、幼い頃には気の合う友人として、大人になってからは公私ともに信頼し合う相手として、常に傍にいたのである。時折ここを訪ねてくる意中の相手、エリザベスを喜ばせようと、ロバートはケニルワース城の改築に桁外れの財をつぎ込んだ。自分に気持ちを引き寄せるためにも、より大規模に、壮麗に整備していく気持ちをロバートは止められなかった。

スキャンダラスな恋

ケニルワース城で命運を賭けたプロポーズが決行された、1575年頃のエリザベス1世とロバート・ダドリー。
ロバートの父、ノーサンバランド公爵ジョン・ダドリーは、ヘンリー8世の長男で年若くして国王となったエドワード6世の後見人として、宮廷で権力を握る人物だった。ノーサンバランド公は、その立場を利用し、病弱だった少年王の亡き後、王位継承順位の第1位であった王女メアリー(のちのメアリー1世)を差し置き、彼女の従姉妹にあたるレディ・ジェーン・グレイと息子を結婚させて、強引に女王として即位させた。彼の目的は、息子とジェーンの間にできる子ども、つまり自らの孫を次なる王位につけ、政治的実権を握り続けることだった。
ところがこの企みは失敗し、「正当な王位継承者」を主張するメアリーにより、ノーサンバランド公は1553年、父親に賛同して挙兵した5人の息子たちとともにロンドン塔へ投獄された。ノーサンバランド公は反逆罪で処刑され、ジェーン・グレイ夫妻もそれに続く。ロバートを含むほかの4人の兄弟たちは、メアリー1世の夫、のちのスペイン王フェリペ2世からの温情で釈放されたものの、1年以上もの間、明日の命をも知れない恐怖と戦いながら劣悪な環境に苦しめられた記憶を、忘れ去ることはできなかったに違いない。また自由になったとはいえ、「大罪人」のレッテルを貼られたロバートたちの未来は、明るいものではなかった。爵位は剥奪され、領地も手放さなければならなかった彼らは、必死にメアリー1世のご機嫌取りに奔走するも、宮廷に居場所はなかったのだ。
一方、エリザベスも苦渋の日々を過ごしていた。異母姉メアリー1世の苛烈なカトリック政策への不満により、各地で起きていたプロテスタントの反乱に加担したとしてロンドン塔に投獄。釈放された後も、辺境の館で幽閉生活を送っていたのである。2人がどのようにして再会したかは知る由もないが、互いに苦難の道を歩む彼らの絆は瞬く間に深まった。
1558年にメアリー1世が病死し、エリザベスが25歳で即位すると、ロバートは「王室馬寮長」の役職を与えられる。これは女王の愛馬を管理し、公務にもつき従う高官位の要職で、エリザベスが女王になって最初に行ったのが、この官職任命だった。翌年にはガーター勲章も与え、騎士の称号を名乗れるようにするなど厚遇ぶりは目覚しく、宮廷内では2人の関係が噂されるようになっていく。いつしか友情は愛情に変わり、エリザベスはロバートを「Bonny Sweet Robin(私の素敵なロビン)」と呼び、「お気に入り」であることを隠さなかった。散策や乗馬をともに楽しみ、晩餐会ではダンスのパートナーを務め、蜜月の時を過ごした。
ここまでなら、苦難を乗り越えた恋と言っていいかもしれない。ただ事を難しくしていたのは、ロバートが妻帯者であったことだ。彼は18歳のときに、ノーフォーク地方の大地主の娘エイミー・ロブサートと結婚していたのである。「ロバートの妻が死ねば、女王は彼と結婚するだろう」といった危うい会話が宮廷内で口々に交わされ、醜聞はヨーロッパ中へ広まっていった。国王の父となることを夢見て散った父親の無念と、ロンドン塔やその後の宮廷生活で味わった屈辱を片時も忘れることのなかったロバートは、「まんざらでもない」とばかりにエリザベスとの日々を過ごしていたのだろうか。誰の目から見ても、妻エイミーの存在は「邪魔者」でしかなかった。そんな矢先、事件は起こる。

妻の謎の転落死

階段から落ちて亡くなったロバートの最初の妻、エイミー・ロブサート。
エリザベスが即位して以来、エイミーは夫と別居しており、その頃はオックスフォードシャーにある友人の邸宅で過ごしていた。夫妻が会ったのは1559年の初夏が最後で、エイミーはロンドンにあるロバートの屋敷に1ヵ月ほど滞在している。
ウィンザー城でエリザベスと過ごしていたロバートのもとに、驚くべき悲報が届いたのは1560年9月8日のこと。その悲報とは、妻エイミー死去の知らせだった。死因は寝室に隣接する階段からの転落による首の骨折。頭部にも2ヵ所の傷が見られたという。28歳の若さだった。
当然ながらロバートは妻殺しの容疑をかけられ、さらなる醜聞を抱え込むことになった。しかし死因審問はエイミーの死を「事故」と結論づけ、宮廷追放の危機を免れる。死の真相は今もって不明だが、エイミーは当時末期の乳ガンを患っていた可能性が高く、背骨にガン細胞が転移し、転落によりもろくなっていた首の骨が折れて亡くなったという説が有力だ。しかしながら、転落は事故だったのか、あるいは闘病や夫の浮気による精神的辛苦から逃れるための自殺だったのか、それとも他殺だったのかはわからない。
妻殺害疑惑騒動の後、エリザベスは周囲の強い説得もあって、ロバートを結婚相手として真剣に考えるのを控えるようになる。自身が殺害を指示したのではとの噂も飛び交い、フランス、スペインといった周辺の強国との緊張状態が続いている今、付け込まれるような隙を見せることはできず、女王として理性的な判断を下したのである。それに実際のところ、元反逆者で殺人疑惑もある「ただの騎士」の男を、欧州各国の王族からの求婚を退けて夫に据えることは容易ではなかった。
編集部の独断で言うならば、エリザベスはおそらくこの時点で、ロバートとの結婚は諦めたのではないだろうか。その理由は、夫を亡くし、嫁ぎ先のフランスから戻っていたスコットランド女王メアリー・ステュアートの新たな夫候補として、ロバートをスコットランドへ送り出しているからだ。出立を渋るロバートに対し、エリザベスは「私が生まれてくる子どもの後見人となります。イングランドとスコットランドを統一する国王を、2人で育てましょう」と説得したという。この野望は果たされなかったが、スコットランド女王の夫となるには身分が必要という名目で、エリザベスは彼に「レスター伯爵位」と「ケニルワース城」を与えた。1563年のことである。

命運を賭けた求婚

女王とロバート、一部の側近のみが出入りを許されたエリザベス庭園。好奇心に駆られたロバートの臣下の一人が密かに庭園へ潜り込み、その様子を書き留めたメモをもとに再現された。

毎夜晩餐会が開かれたグレートホール跡には、大きなアーチ型の窓と窓枠が残っており、人間と比べるとその規模がよくわかる。
エリザベスの寵愛を笠に着て横柄な態度をとっていたロバートは、女王の側近や大臣から嫌われていた。またスコットランド女王との婚姻計画に失敗したことで、エリザベスからも素っ気なくされると、ロバートは当てつけるかのように女性と浮名を流しはじめる。なかでもエリザベスを激怒させた相手が、彼女の母アン・ブリンの姉メアリー・ブリンの孫にあたる10歳下のレティス・ノリーズ。嫉妬させる作戦が裏目に出てしまい、エリザベスはロバートとより距離をとるようになった。焦ったロバートは寵愛を取り戻すべく奔走するが、上手くいかない。宮廷から遠ざかりつつあった中、思わぬ絶好の機会が訪れる――エリザベスのケニルワース城訪問である。
エリザベスは1566年、68年、72年、75年と計4度も、ロバートに会うため城に足を運んでいる。彼女にとっても、ロバートは常に気になる存在であったのだろう。そんなエリザベスをなんとか口説き落とすため、自身の知性、財力、そして忠誠心を存分に披露しようとロバートは奮闘した。
その集大成は、4度目となる訪問の時だった。ロバートは女王が滞在するたびに求婚してきたが、いずれも返事は煮えきらなかった。今度こそ「4度目の正直」とばかりに並々ならぬ気合を入れ、1575年7月9日を迎えたのである。エリザベスと家臣団を収容できる規模の宿泊施設を、3年の歳月をかけて建設。そして乗馬好きの女王のため、コヴェントリー方面への出入りに便利なゲートハウスも新設した。さらには、女王のみが愛でることのできる専用の庭園も敷設したのだ。
運命の日、エリザベスは31人の直臣、400人もの召使いを引き連れてやってきた。ある晩には人工池の上に花火が打ち上げられ、別の晩には役者らによるギリシャ神話をテーマにした古典劇が上演された。贅を尽くした晩餐会は連日連夜にわたって開かれ、エリザベスの滞在は19日間にも及んでいる。彼女は治世下、他の臣下の城も度々訪れているが、これほどまで長く留まったのは、この時が最初で最後だった。ロバートの渾身の演出が見事に功を奏し、彼女を去り難くさせたに違いない。
ロバートは、一連の準備と趣向をこらした宴のために、ほぼ全財産を使い果たしてしまっていた。エリザベスの寵愛とその先にある権力を手に入れるために、すべてを賭けたのである。しかしながら、エリザベスはついに彼に微笑むことはなかった。ダドリーは43歳、エリザベスは41歳となっていた。

エリザベスのために、乗馬用ゲートハウスとして建てた「レスターズ・ゲートハウス」の一室に、1575年のエリザベス滞在時に客室に設えられていた暖炉が移築されている。唯一現存する当時のもの。

晩餐会で踊るロバートとエリザベス。

エリザベスの秘めたる想い

ロバートが極秘婚をした2番目の妻で、エリザベスの血縁にあたるレティス・ノリーズ。
エリザベスが未婚を貫いたことについては、為政者としての信念的要因が一番の理由として挙げられる。絶対君主制を維持したいと考え、他国の君主と結婚すれば、当時ヨーロッパの弱小国であったイングランドが政治的に飲み込まれる可能性があった。それは国内の有力貴族も同様で、政治をコントロールされかねない不安を拭えなかった。また、エリザベスが不妊体質だったのではという身体的要因も推測されている。嫡子を生むことができないなら、結婚する意味をなさないからだ。
運命の日から3年経ち、エリザベスとの結婚は絶望的と判断したロバートは、以前の恋の相手レティス・ノリーズと秘密裏に再婚。女王への許可なく、しかも選んだ女性がレティスであったことは、エリザベスの逆鱗に触れた。また、レティスの前夫は赤痢で急死しており、ロバートによる毒殺説が浮上するなど醜聞がつきまとう結婚でもあった。エリザベスは生涯レティスを憎み、宮廷への出入りを禁じている。
エリザベスからの寵愛はすっかり過去のものとなっていた1588年、スペイン無敵艦隊との「アルマダ海戦」を終え、イングランドが勝利に沸き立つ中、ロバートは熱病により療養先で息を引き取った。56歳だった。
ケニルワース城は、ロバートが人生を賭けた求婚の舞台であり、失恋・再婚による失脚という苦汁を味わった場所でもある。現在のケニルワース城には、当時の華麗な様子を忍ばせるものはなく、荒廃した姿からは彼の無念さが漂ってくるようでもある。
ロバートの死から15年後、エリザベスも世を去った。彼女のベッドの傍に置かれた小箱の中に、ロバートが療養先からしたためたエリザベスへの最後の「ラブレター」が大切にしまわれているのが発見された。
「陛下から頂戴した薬を服用しておりますが、どの薬より効き目があり、陛下のおかげで少し回復してきました。温泉で療養し、元気になりたいと願っております。陛下がお幸せでご健康でありますように。身を低くして、陛下の御足に接吻いたします。陛下のもっとも忠実にして従順なる僕、ロバート・ダドリー」
君主という立場からロバートとの結婚に踏み切れなかったエリザベスであったが、幼い頃から自分を理解し、15年以上にわたって支えてくれたロバートは、死の間際まで彼女にとって大切な「恋人」だったのだろう。
政治の中心地から離れ、ケニルワース城でひとときの逢瀬を楽しんだロバートとエリザベス。在りし日の2人を思い浮かべながら、夢の跡地を見学してみてはいかがだろうか。

ケニルワース城内で発見!

これな~に?

ケニルワース城内で見かける不思議なもののひとつが、イニシャル「RL」。ゲートハウスの入口や現存する当時の暖炉(写真上)など、あちこちで目にするが、これは「R=ロバート(Robert)」「L=レスター(Leicester)」の略。ロバートが、城をいかに「自分色」に染めて改装したかがよくわかる。
暖炉や庭園のオーナメント、墓所などで見かける、もうひとつの不思議なものが、鎖に繋がれたクマ(The Bear and Ragged Staff、写真右)。これはダドリー家の紋章の一部で、ロバートは自分の記章としてこのクマの像を好んで使った。
ケニルワース城から車で15分

ロバート・ダドリーが永眠する「聖メアリー教会」

ケニルワース城から車で南下すること、約15分。ダドリー家の本来の居城であるウォリック城の目の前に、一族が眠る聖メアリー教会が建っている。
反逆罪で処刑されたロバートの父親、ジョン・ダドリーやレディ・ジェーン・グレイの夫ギルフォード・ダドリーはロンドン塔内の教会に埋葬されているが、ロバート&レティス夫妻、のちにウォリック伯爵に復位した兄のアンブローズは、この教会で眠りについている。
St Mary’s Church
Old Square, Warwick, CV34 4RA

ビーチャム・チャペル内には、ロバート夫妻の荘厳な墓がある(写真左の左端)。/墓上に飾られたロバートとレティスの像(写真右)。跡継ぎをもうけるために強行再婚したものの、息子は5歳で夭逝。兄夫妻も子どもに恵まれず、処刑を逃れて辛くも生き延びたダドリー兄弟だったが、一家の血筋はここで途絶えた。
動画へGo!

エリザベスの恋 ケニルワース城

編集部制作による約5分のショートフィルムをお楽しみください。

Travel Information

※2019年3月19日現在

ケニルワース城
Kenilworth Castle & Elizabethan Garden

Castle Green, Kenilworth, Warwickshire, CV8 1NE
Tel: 01926-852-078
www.english-heritage.org.uk/kenilworth

アクセス
車:ロンドンからM40を北上。ジャンクション15で、A46をCoventry方面へ。A452が出てきたら左に入り、ケニルワース市内を通過。標識が出てくるので、それに従いB4103に入る。所要およそ2時間。
電車:ロンドン・ユーストン駅から乗車、コヴェントリー駅で下車。Warwick / Stratford 方面行きのバス(X17)に乗り、Kenilworth Sports & Social Clubで下車。徒歩約15分で到着。

営業時間
2019年3月31日まで
水~日曜 10:00~16:00
2019年4月1日以降
月~日曜 10:00~18:00
*12月24~26日、1月1日は閉館。

入場料
大人:£11.80/子ども:£7.10

週刊ジャーニー No.1078(2019年3月21日)掲載