1888年、ヴィクトリア朝時代末期のロンドン。
貧困と不衛生きわまるイーストエンドで、暗闇の中をさまよう娼婦を次々と襲った「切り裂きジャック」。 犯人が特定されていない「世紀の未解決事件」として、今なお多くの人々の興味を掻き立て続けている。
今号では、130年以上前にロンドン中を恐怖のどん底に陥れた この連続殺人鬼の足取りを追ってみたい。

●征くシリーズ●取材・執筆・写真/本誌編集部

動画へGo! 「 切り裂きジャック 殺人現場を歩いてみた 」

編集部制作のショートフィルムをお楽しみください。

イーストエンドの娼婦事情

1872年当時のコベント・ガーデン近くのセブン・ダイヤルズの様子。物乞いや娼婦が道にあふれている。

古代ローマ人によって作り上げられた町、シティ(シティ・オブ・ロンドン)を中心に発展してきたロンドン。外敵の侵入を防ぐため、シティを取り囲むように建造された市壁の外側、北東一帯に広がる地域「イーストエンド」は、16世紀後半には貧しい労働者階級の人々がひしめきあう「貧民街」になっていた。
18~19世紀に産業革命を迎えると、鉄道が開通したことにより仕事を求めて地方から人々が押し寄せ、イーストエンドで肩を寄せ合って暮らした。また、ヨーロッパ大陸から「出稼ぎ」に来る外国人労働者も珍しくなく、とくに穀物の大凶作の影響で故国を出てきたアイルランド人、宗教的迫害から避難してきたユダヤ人などが多く流れ込んできたことから、イーストエンドの人口は瞬く間に激増。19世紀後半には貧困、人口過密、不衛生、病気、そして犯罪の温床となっていた。
当然ながら女性が就ける職はほとんどなかったため、両親や夫を亡くした女性たちは、昼間は花売りや掃除婦、夜は娼婦となって何とか食いつなぐしかなかった。毎日の下宿代を稼ぐだけで精一杯で、ホワイトチャペル周辺だけで娼館は62軒、娼婦の数は1200人を超えていたという。

第一の殺人

最初の被害者、メアリー・アン・二コルズの遺体が発見された様子を描いたイラスト。

「切り裂きジャック」の最初の犠牲者となったメアリー・アン・ニコルズ(43歳)も、そうした娼婦のひとりだった。
ソーホーで鍵職人の父親のもとに生まれたメアリーは、18歳で印刷機製作工の男性と結婚。5人の子どもに恵まれたが、夫の浮気が発覚して以降、酒に溺れるようになった。やがて彼女は家を出て実家に身を寄せるも、父親ともケンカ別れ。下宿を転々とするようになる。夫は罪悪感からか、メアリーに生活できる程度の金銭を毎週渡していたものの、それらをすべて飲酒に費やし、娼婦として働いていることを知って激怒、経済支援をやめてしまう。飲酒代がなくなって困ったメアリーは必死で仕事を探し、やっと得た召使の職も「盗み」を犯したことから2ヵ月で解雇。結局、娼婦をしながらトラファルガー広場の隅でしばしば夜を明かす生活にまで身を落とした。
事件が起きたのは、1888年8月31日のこと。当時メアリーは、ホワイトチャペルにある共同下宿に寝泊りしていた。ブリックレーンにあるパブを深夜12時半に出た後、その日の宿代を稼ぐために「客」を求めて徘徊。午前2時半に、ホワイトチャペル・ロードで「客待ち」をしている様子が目撃されている。しかし、その約1時間後の午前3時40分、ホワイトチャペル・ロードから1本奥に入ったバックス・ロウ(現在のダーウォード・ストリート)で無残な姿で発見された。犯人はナイフで喉を横に2度切り裂き、さらに下腹部から喉に向けて縦に深く切り上げていた。ただ、外傷の悲惨さの割には流れ出ていた血液量は、わずか「ワイングラス2杯、あるいはビール1パイント程度」というから驚く。このことから、別の場所で殺害された後、発見現場に運ばれたのではないかと考えられている。

第一の事件現場

メアリーは、バックス・ロウ沿いに建つ学校の裏門前に倒れていた。事件後、ダーウォード・ストリート(Durward Street)に改名されている。現在、現場一帯はクイーンエリザベス線の開通工事中。

第二の殺人

2番目の被害者、アニー・チャップマン(右)/アニーや、最後の被害者メアリーが事件当日に立ち寄ったパブ「The Ten Bells」(左)。

次の事件は8日後に起きた。
9月8日の深夜、やはりホワイトチャペルの共同下宿で生活していたアニー・チャップマン(47歳)は、スピタルフィールズ・マーケットの隣にあるパブ「The Ten Bells」を出て、コマーシャル・ストリートを千鳥足で歩いていった。最後に目撃されたのは数時間後の午前5時半で、ハンバリー・ストリート29番地の裏手。身長152センチだったアニーは、彼女より少し背が高い程度の小柄な紳士と、そこで立ち話をしていた姿が確認されている。そのたった30分後の午前6時前、29番地に住む住人によって、アニーの遺体が発見されたのだった。
アニーの父親は、ロンドンの近衛騎兵隊に所属する下級兵士だった。アニーは28歳のときに、教会専用馬車の御者を務める親類の男性と結婚。3人の子どもを出産した後、夫の仕事の関係でウィンザーへ引っ越した。ところが、末っ子の息子が障害を持っていることが発覚。長女も幼くして髄膜炎で死去したことから、夫妻は酒に逃げるようになる。夫婦関係も破綻し、アニーはひとりでロンドンへ戻った。お針子や花売りをして働くものの、かなりの酒豪であったために生計を立てられず、副業として娼婦を選択。当初はスピタルフィールズの共同下宿にいたが、同じ下宿人の女性と「客」の男性を取り合って大乱闘を繰り広げて以降、ホワイトチャペルに移り住んでいた。事件が発生した9月8日も、宿代が支払えず、パブを出て客探しをしていたところだった。
発見されたアニーは喉を切り裂かれ、首は皮一枚で胴体に繋がっているという有様であった。顔全体が腫れ上がり、喉を切られる前に絞殺された可能性もあった。また、前回と同様に下腹部が切り開かれて内臓が引き出された上、犯人は子宮を持ち去っていた。現場は文字通り血の海と化していたという。

第二の事件現場

アニーが発見されたHanbury Street 29番地は、1960年代に行われたビール醸造所(Truman's Brewery)の拡張工事により、取り壊された。

「ダブル・イベント」

この時点では、まだ「切り裂きジャック」の呼び名はついていなかった。新聞には「ホワイトチャペル殺人事件」との見出しが躍っていたが、イーストエンドの住民は、犯人を「皮エプロン」と呼んだ。現場近くに食肉処理場があり、彼らが使う鋭利な刃物が犯行に使われた可能性が高かったからだ。精肉業者は皮製のエプロンを身につけていたので、「皮エプロンを着けた職人の仕業では?」という噂が広まっていた。「切り裂きジャック」の名が誕生するのは、第三・第四の殺人が起きてからである。
3週間が過ぎた9月30日、事件は連続発生した。3人目の犠牲者となったエリザベス・ストライド(44歳)は、スウェーデンの農家出身。娼婦として働いていたが、23歳のときに一家でロンドンへ移住し、船の修理工の男性と結婚した。しかし、13歳上だった夫は1884年に亡くなり、ホワイトチャペルの共同下宿へ。縫い物や掃除婦をしながら、夜は街角に立ち、やがて泥酔して暴れるために何度も警察に通報される「要注意人物」になった。
9月30日深夜12時35分、バーナー・ストリート(現在のヘンリク・ストリート)で、「客」と見られる小柄な紳士といた姿が最後の目撃情報となる。30分ほど経った午前1時頃、同所で喉を搔き切られたエリザベスが発見された。まだ首から血が流れ出ている状態だった。というのも、犯人は彼女の喉を切り裂いた直後に通行人の気配に気づき、慌てて現場から逃走したのである。そのため、欲求不満を解消するかのように、次の被害者が血祭りに上げられることになってしまった。

第三の事件現場

3番目の被害者、エリザベス・ストライドの殺害現場である旧バーナー・ストリート。事件後、ヘンリク・ストリート(Henriques Street)に改名された。現在、同地には小学校が建っている。

4番目の被害者、キャサリン・エドウズ。

その夜、キャサリン・エドウズ(46歳)は泥酔状態で、オールドゲート・ハイストリートで眠り込んでいたところを警察に連行され、拘置所に放り込まれていた。酔いが覚め、エリザベスが殺害された午前1時に拘置所を出たキャサリンは、午前1時35分にオールドゲート駅に隣接する教会「St Botolph's Aldgate」付近で、男性と立ち話をしている。そのわずか10分後、近くのマイター広場の一角で惨殺死体に変わった。これまでと同様に喉を深く切られた後、陰部から喉元まで切り開かれて内臓が引きずり出され、子宮と腎臓、さらに鼻と右耳の一部も切り取られるという凄惨さであった。顔は傷だらけで、かなり暴れた様子がうかがえるものだった。
ちなみに、ウルバーハンプトン生まれのキャサリンは、ロンドンで元兵士の男性とのあいだに3人の子どもをもうけるも、未婚のまま破局。家族を捨ててスピタルフィールズで別の男性と同棲をはじめ、家賃を払うために娼婦をしていた。

第四の事件現場

St Botolph's Aldgate教会の近くにあるマイター広場(Mitre Square)。犯人は、わずか10分で現場から姿を消した。

警察の対立と赤いインクの挑戦状

血まみれのエプロンが捨てられ、壁にメッセージが書かれていた、ペティコート・レーンそばのゴールストン・ストリート

3番目の犯行現場であるバーナー・ストリートからマイター広場までの距離は、徒歩約15分。となると、犯人は逃走しながら30分で次のターゲットを定め、10分で「解体」したことになる。この驚異的なスピードに加え、医学的な知識がなければ子宮を探り当てて傷つけずに取り出すことは難しいことから、外科医など死体解剖に習熟した者が犯人ではないかと囁かれはじめた。
また、もうひとつの犯人像として噂されていたのがユダヤ人である。4人目の犠牲者となったキャサリンの遺体発見から1時間強が過ぎた午前3時頃、捜査中の警察がホワイトチャペルのゴールストン・ストリートで血まみれの布を発見。そばの壁には、犯人がチョークで書いたと思われるメッセージが残されていた。
「ユダヤ人は理由もなく疎まれているわけではない(The Juwes are the men that will not be blamed for nothing.)」
後の調査で、この布はキャサリンが着ていたエプロンの一部であることが判明している。
警察は、夜が明けて住民がこのメッセージを目にするのを恐れた。メッセージが残された場所は、ユダヤ人が多く住む地域。イーストエンドの中ではやや経済的に余裕のある彼らを目当てに商売する娼婦は多く、ユダヤ人の犯行ではないかとも言われていたからである。反ユダヤ人主義を煽らないためにも、警察はメッセージを消すように指示した。
実は、この「証拠抹消」の裏には警察同士の対立という構図があった。1~3番目までの事件はイーストエンドで起きており、スコットランド・ヤード(Metropolitan Police)の管轄だったが、4番目の事件が発生したのはシティ。ロンドン市警(City of London Police)の管轄であった。にもかかわらず、メッセージが残されたのはイーストエンドであったため、両者が協力体制をとることはなかったのである。

「地獄より」で始まる切り裂きジャックからの手紙

ダブル・イベント発生から約2週間後の10月16日、ホワイトチャペルの警察宛に小包が届く。「地獄より(From Hell)」の書き出しで始まる手紙とともに入っていたのは、腎臓の一部。血に見立てた赤いインクで書かれた文章は「女から切り取った腎臓の半分を送る。あなたのために取っておいた。残りの半分は焼いて食べた。なかなかの味だったよ。しばらくしたら、それを切り取った血まみれのナイフも送ってやる。捕まえられるものなら捕まえてみろ」。警察への挑戦状だった。
それ以前にも、新聞社に「自分こそが犯人だ」と称するたくさんの手紙が送られていた。大半は質の悪いいたずらであったが、なかには見過ごせないものもあった。とくに、ダブル・イベントが起きた晩の3日前と翌日にセントラル・ニュース社へ寄せられた「親愛なる編集長へ(Dear Boss)」で始まる2通の手紙は、「切り裂きジャック」との署名が入っており、「娼婦に恨みがある」「耳を切り取って送ろうと思ったが、騒がれたので切り取れなかった」など、事件を想起させる内容がしたためられていた。以降、犯人は「切り裂きジャック」と呼ばれるようになった。

最後の殺人

最後の被害者、メアリー・ジェーン・ケリーのイラスト(右)/事件後に撮影された、英警察史上もっとも陰惨な殺害現場となったメアリーの部屋(左)。

11月8日の深夜、メアリー・ジェーン・ケリーは殺人鬼が待ち伏せているとは露知らず、スピタルフィールズ・マーケットの向かいにあるパブ「The Ten Bells」へ向かった。メアリーは当時25歳、ほかの犠牲者たちが40代であったのに比べかなり若く、また5人の中で娼婦を「本業」とする唯一の女性だった。そのため、メアリーの記録はほとんど残されておらず、かろうじてアイルランド出身であること、16歳で炭鉱作業員と結婚したが、夫は炭鉱の爆発事故に巻き込まれて死亡。未亡人となり、ロンドンに流れ着いて娼婦になったことが伝えられているのみである。メアリーは、イーストエンド界隈では美人娼婦として人気だったことから、共同下宿ではなく質素ながらも「自分の部屋」を持っていた。しかし、それゆえに短い生涯をもっとも残酷な方法で断ち切られることになってしまったと言えよう。
メアリーが最後に目撃されたのは午後11時45分、山高帽をかぶった男性と一緒に彼女の部屋に入っていく姿だった。上階の住人によると、彼女の楽しげな歌声がずっと聞こえていたが、午前1時半にピタッと止まり、午前5時45分に誰かが部屋を出て行く物音が聴こえたという。遺体発見者は、家賃の取り立てにきた大家の下働きの男性。どれだけドアを叩いても出てこないメアリーに痺れを切らし、通り沿いの部屋の窓ガラスを割った。そして、カーテン代わりに掛けられていたコートを引いた先に現れたのは、真紅に染まったベッドと生肉の山。遺体は原型を留めないほどバラバラに損壊されており、臓器は切り離されてベッドやテーブルの上に置かれていた。屋内だったことで、犯人は人目を気にせず、思う存分に切り刻む余裕があったのである。
不思議なことに、この日を最後に「切り裂きジャック」はこつぜんと姿を消した。納得いくまで遺体を弄び、満足したのか。恨みのある女性を殺害し終えたのか。それとも犯人の身に何か起きたのか…。捜査線上に幾人もの容疑者が挙がったものの、「切り裂き魔」と断定するに至らず、警察は犯人は自殺したか、残虐行為の極みに及び発狂したという見解を発表して捜査を打ち切った。2ヵ月強のあいだに起きた、世界初の「劇場型」連続殺人事件は、解決を見ないまま幕を閉じたのだった。
あれから130年以上経った今も、リッパロロジスト(ripperologist=Jack the Ripperの研究家)らは独自の真犯人説を唱え続けている。ミステリーやホラーといった側面だけでなく、華やかなるヴィクトリア朝時代の「影の歴史」を垣間見ることができる怪事件。事件現場をたどる数々のウォーキング・ツアーも開催されているので、ひとりで訪れるのが怖い人は、ぜひ参加してみてはいかがだろうか。

第五の事件現場

1888年当時、多くの娼婦が暮らしていたドーセット・ストリート。売れっ子だったメアリーは、Miller's Court 13番地で一人暮らしをしていた。

事件現場マップ

週刊ジャーニー No.1074(2019年2月21日)掲載