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バッキンガム宮殿を守れ 

ドイツ空軍の急降下爆撃機、ユンカースJu-89を護衛するメッサーシュミット Bf109(左下)。(Deutsches  Bundesarchiv提供)

 

 バトル・オブ・ブリテン最後の大規模な空襲となった9月15日。先述のように標的となったのはロンドンだった。
 この日はドイツ空軍の攻撃が朝から始まり、ロンドン近郊の飛行場から飛行可能な戦闘機全機が出撃、上空で敵機の襲来を待ち受けていた。この当時、英国空軍は対独戦略の一環として、メッサーシュミットBf-109との交戦という高度な技術と経験が必要となる英国南海岸部の空域にはベテランパイロットを配属。燃料切れでBf-109が帰還した後、空中戦が不得手な双発戦闘機を従えてロンドン方面までやってくる爆撃機を迎撃する仕事は、主に若手パイロットたちの役割とされていた。
ドイツ空軍の空襲により、被害を受けたロンドン市内 若者たちは、怒涛のごとく押し寄せるドイツ空軍の爆撃機が、ロンドン市内に爆弾をばらまく前に撃ち落すという、単純明快、かつ困難な任務に熱中していた。
 その中に、フライトスクールを卒業し、第504飛行中隊に配属されたばかりの、まだ表情に幼さすら残るレイ・ホームズ軍曹がいた。この時、22歳。
 敵爆撃機のロンドン侵入を懸命に阻止していたホームズたちであったが、12時15分、バタシー上空付近で一機の双発爆撃機、ドルニエDo17に防衛ラインを突破されてしまう。
バッキンガム宮殿を救った
レイ・ホームズ(操縦席内)
 ホームズはハリケーンの機首を反転させ即座にこれを追尾。彼の目の前を行くドルニエに機銃の照準をピタリと合わせた。だが次の瞬間、ホームズの目に飛び込んできた光景に、操縦桿を持つ彼の手が震えた。
 敵爆撃機が目指していたのはバッキンガム宮殿であった。
 ホームズは機銃の発射ボタンをめり込むほど押した。しかし、弾丸はすでにそれまでの戦闘で撃ち尽くされており、彼のハリケーンは戦闘機としての役目をほぼ終えていた。
 どうする…
 ドルニエは刻一刻とバッキンガム宮殿に接近して行く。「王立空ホームズの愛機、ハリケーン(同型)。機体はまだ金属と木材、帆布を併用した旧式ではあったが、スピットファイアがフル生産となるまで、大活躍した。軍」の若きパイロットは覚悟を決めた。操縦桿をグッと引き、ハリケーンの高度を上げながら敵機を追い越して反転。そして今度は操縦桿を一気に押し下げ、敵爆撃機に向けて急降下した。
 一瞬の出来事であった。
 ハリケーンの左翼が、ドルニエの最大の弱点である細い胴体部分をスパッと切断した。一瞬にして尾翼全てを失い、飛び続けるための物理的根拠を無くしたドルニエはキリモミ状となり、まっ逆さまに墜落。ビクトリア駅前の広場に激突し、粉々に砕け散った。あと一分遅ければ、爆弾が宮殿めがけて降り注いでいる距離であった。
 一方のホームズも無傷では済まなかった。左翼を大きく損傷したドイツ空軍の爆撃機、ドルニエDo17。もともとは高速郵便配達機として製作された。細長い胴体から「空飛ぶ鉛筆」と呼ばれていた。ハリケーンにもはや重力に逆らうだけの力は残っておらず、ホームズもやむなく脱出。主を失ったハリケーンは時速約六百キロの猛スピードでバッキンガム・パレス・ロード西端とピムリコ・ロード東端が交差する地点にクラッシュ。機体は粉々に飛散したが、エンジンと操縦席部分は地中深く、突き刺さった。
 この体当たり劇は多くの市民によって地上から目撃され、墜落現場の写真も撮影されていた。
 その写真を元に、先のチャネル5の番組が墜落位置をピンポイントで探り当て、今回のエンジン発掘となった。
ホームズのハリケーンによって胴体部分を切断され、まっ逆さまに墜落するドルニエDo17。ロンドン市民によって偶然撮影された、貴重な一枚だ。 パラシュートで無事、降り立ったホームズ。体当たりしてまで宮殿を守ったヒーローを市民が放っておくはずもない。ホームズはそのまま100ヤード先にあった「オレンジ・ブルワリー」というパブ(現存)に担ぎ込まれ、ブランデーを振舞われた。その後、チェルシーバラック(兵舎・これも現存)の医師によって簡単な治療を受けた後、タクシーを拾って第504飛行中隊へと戻った。タクシーが向かった先、それはヘンドンであった。そう、第504飛行中隊は、グレアム・ホワイトが作ったヘンドン飛行場を基地としていたのである。
 その日から64年の歳月を経て、ホームズはかつて愛機に積まれていたエンジンと、奇跡的な対面を果たした。
ホームズが担ぎこまれたパブ「The Orange Brewery」は現在「The Orange」と名を変え、パブ&ホテルとなっている。 まるで王室守護の命を受けて地上に送られたかのようなこの老人は、エンジンとの再会からわずか一年後の2005年6月、青雲を切り裂いて上昇するハリケーンのように、神のもとへ召されていった。享年90。
 バトル・オブ・ブリテンの終了とともに、ヘンドン飛行場の航空基地としての役割はほぼ終了する。滑走路がスピットファイアなど新鋭戦闘機の離発着には短くなったためで、その後は主に物資の輸送センター的な使われ方がなされていたが1957年、飛行場はわずかな敷地を残して民間に払い下げられ、宅地化されたり、警察学校が置かれたりするなど、徐々に消滅の方向へと向かっていく。
 そんな中、かつてグレアム・ホワイトが作り、そしてバッキンガム宮殿を救った若者が飛び立った歴史的な飛行場がここに存在したことを後世に語り継ぐ、一つの置き土産が残された。それがこの、RAF博物館である。