■今から約500年前。強大な権力を振るったイングランド王ヘンリー8世の寵愛を共有した、2人の姉妹がいた。その名はメアリー・ブリンとアン・ブリン。ひとりは愛妾となったのち捨てられ、ひとりは王妃の地位まで上りつめた後に処刑された。その2人が育った地が、ケントにある「ヒーバー城(Hever Castle)」だ。今回は、ヘンリー8世をとりこにした、メアリーとアン・ブリン姉妹ゆかりの城を紹介しよう。

●征くシリーズ●取材・執筆・写真/本誌編集部

愛憎が渦巻く城

こぢんまりとした佇まいを見せるヒーバー城は、元をたどると「城」ではなく、13世紀に建造された「要塞」の一部であった。近くに建っていた要塞の外門部分を利用したと考えられており、当時の領主だったヒーバー家がこの要塞を所有していたことから、現在もヒーバー城と呼ばれている。
15世紀に入ってから、ヒーバー城はある男に買い取られる。男は同所を私邸とすべく改築を重ね、四方を囲んでいた石壁の外門跡の内側にすっぽり入る、テューダー様式の邸宅を建てたのだった。この男の名は、ジェフリー・ブリン。これから語るメアリーとアン・ブリン姉妹の曾祖父にあたる人物である。ジェフリー・ブリンがこの城に移り住んでから約100年の間、ヒーバー城はブリン家代々の居城となり、同家の繁栄と衰退を見届けることとなる。
ヘンリー8世は、お忍びでこの城をたびたび訪れていた。訪問の目的は、この城で生まれ育ったブリン家の次女アン。ヘンリー8世は、はじめ姉のメアリーを愛妾にしながら、のちに妹アンのとりこになる。このアン・ブリンこそが、ドラマチックな英国史の中でも大事件のひとつに数えられる、英国国教会設立のきっかけとなった女性だ。のちに彼女は、エリザベス1世を出産している。
ひとりの偉大な国王の寵愛を奪い合った姉妹、それに巻き込まれた家族。それぞれの思いが、今もこの城の中に渦巻いていても不思議ではない。事実、ヒーバー城には「幽霊を見た」「怪奇現象が起こった」といった噂が耐えない。およそ500年前、ブリン家に一体何が起きたのか――。

左から、ヘンリー8世、愛妾だったメアリー・ブリン、2番目の王妃となったアン・ブリン。

対照的な姉妹

ブリン家は、アンの曾祖父の代まで農民であった。それが、わずか3代で王妃を輩出するまでの名家になりえたのは、アンの父トーマス・ブリンの功績によるところが大きい。トーマスの祖父でヒーバー城を最初に居としたジェフリー・ブリンも、地方の一農家出身の身からロンドン市長の座を手に入れ、やがてナイトの称号を授与されるまでに成り上がったことを考えると、トーマスの巧みな処世術は前代から伝わるものだったのかもしれない。
トーマスは廷臣として宮廷に出入りしていた際、王妃の侍女のひとり、エリザベス・ハワードと結婚した。公爵家の娘で王族の血を引く彼女と、先祖が農民であるトーマスとは身分が大きく異なる。この結婚が当時としては珍しい恋愛結婚だったのか、あるいはトーマスの打算、公爵が彼の処世術を見込んだ末のものだったのかは定かでないが、これにより彼が宮廷内で一目置かれる存在となり、ブリン家を優位に立たせたことは間違いないだろう。
メアリーとアンは、野心家だった父トーマスの方針に従い、幼い頃から王族の近くで育てられた。ヘンリー8世の実妹がフランス国王に嫁いだ時も、2人は侍女としてフランスに送られ、ブリン家の存在をアピールしている。
フランス宮廷でのブリン姉妹は、それぞれ違った意味で目立つ存在であった。姉のメアリーは、ブロンドをなびかせ、小柄で色白、豊満という男好きするタイプ。愛らしいが、教養はあまりなかったといわれている。一方、妹のアンは黒髪、色黒で華奢と、当時としては冴えない容姿であったものの、頭の切れる勝気なタイプでカリスマ性があり、人気が高かった。メアリーはフランス滞在中にフランス国王の愛妾となっており、のちに同国王はメアリーを「最高の娼婦。淫乱この上ない」と称している。
国王以外とも多くの浮名を流したメアリーは1519年、アンより先にイングランドへ送り返された。帰国後はヘンリー8世の妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となり、翌年にヘンリー8世の家臣と結婚するが、まもなく王の愛妾になった。

▲ かつてブリン家の台所だったスペースは、現在インナーホール(奥広間)となっている。暖炉を挟んで向かって右にメアリー、左にアンの肖像画が飾られている(写真上)/アンに逢いに訪れていたヘンリー8世が滞在したとされる部屋。ただし、ベッドは1540年代に設置されたものなので、実際に同王が使ったとは考えにくい(写真右)/ブリン家のダイニングルームだった部屋。一家はここで食事をし、ヘンリー8世をもてなした。暖炉に掘られた紋章はブリン家のもの(写真左)。

アンの巧妙な駆け引き

ヘンリー8世がアンとの結婚式の当日、彼女へプレゼントしたという置時計のレプリカ。インナーホールの暖炉の上に飾られている。
メアリーとヘンリー8世の関係は、ヘンリー8世がその前の愛妾に飽きた時に始まり、ふたたび彼が別の女性に心を移すまでの2年間続いた。そして、ヘンリー8世が心移りした相手は、こともあろうにフランスから帰国したばかりのアンであった。
9年間のフランス滞在の後、イングランドに戻ったアンは、当時ヨーロッパでもっとも華麗で気品あると謳われたフランス宮廷で身につけた最先端のファッションと教養を武器に、イングランド宮廷でも瞬く間に羨望の的となった。前述のように容姿にはあまり恵まれていなかったものの、アンにはどこかミステリアスな魅力があり、駆け引き上手で、宮廷中の男性たちを翻弄したという。そんなアンの噂は、ヘンリー8世の耳にも入った。
その頃のヘンリー8世は焦っていた。妻キャサリン・オブ・アラゴンは男児をもうけないまま、ついに40歳を迎えていた。愛妾であるメアリーにも飽きてきたところだった。そこへ現れたブリン家のもうひとりの「話題の娘」に、ヘンリー8世が心を奪われるまで時間はそうかからなかった。

ロングギャラリーにある蝋人形。ヘンリー8世は、メアリーの手をとりながらもアン(手前)を見つめている。アンの右手には、当時の恋人ヘンリー・パーシーの肖像画が握られている。

ヘンリー8世は当然、自分の愛妾になるようアンを誘う。しかし当時、アンには恋人がいたため、この申し出を断ってしまう。断られたことで逆に気持ちが燃え上がったヘンリー8世は、2人の結婚話をつぶして別れさせた。こうしてアンとヘンリー8世の攻防の火蓋が切って落とされたのである。
アンは姉の境遇を鑑みて、愛妾になっても得るものはなく、やがて飽きた国王に無理やり結婚相手をあてがわれ、厄介払いされるだけだと考えていた。国王から愛妾に望まれている女性を、結婚相手に選ぶ男性貴族はいない。両親も王の手をとるように迫ってくる。それならば…。アンが狙ったのはただひとつ、「王妃」の座だった。
ブリン家持ち前の処世術を受け継いだのは、妹アンのほうだったのだろう。国王の気持ちが冷めないように注意を払い、好意をちらつかせつつ簡単には受け入れないアンに、ヘンリー8世はますます惚れ込んでいった。アンとの逢瀬のためにヒーバー城を極秘で訪れていたのも、この時期である。彼女の思惑どおり、ヘンリー8世は1527年、ついにプロポーズ。そして前妻との離婚を成立させてアンと再婚するため、離婚を禁じていたカトリック教会からイングランドを離脱させて英国国教会を創設するという、とてつもない行動に出たのであった。
アンとヘンリー8世が結婚したのは、1533年のこと。アンは32歳、ヘンリー8世は42歳、この時アンは新たな命を身ごもっていた。

アンの最期とブリン家の斜陽

ここまでして漕ぎつけた結婚であったが、長くは続かなかった。
ヘンリー8世の切なる願いは、王位継承者となる男児の誕生。しかし、最初に生まれた女児(のちのエリザベス1世)の後は流産や死産が続き、失望は絶望に、焦りはアンへの怒りに変わっていった。そして1536年、結婚から3年後の春、アンはロンドン塔にて斬首刑に処された。罪状は不貞による反逆罪だった。アンが処刑時に胸に抱いていたと伝えられる聖書は、ヒーバー城内に展示されている。
さて一方の姉メアリーは、アンが王妃となったことでブリン家が飛ぶ鳥を落す勢いを見せていた頃、まるで忘れ去られたかのような屈辱的な扱いを受けた。夫と死別して未亡人になったメアリーは下級貴族と駆け落ちし、片田舎でひっそりと暮らしている。しかしこれが幸いし、アンの処刑とそれに続くブリン家の没落に巻き込まれず、1543年に44歳でこの世を去った。
ロッチフォード男爵、オーモンド伯爵、ウィルトシャー伯爵位を次々と授与され、隆盛を極めたブリン家を築き上げた実力派、ブリン姉妹の父トーマスは、アンの処刑後は周囲から白い目を向けられながら、失意のうちにヒーバー城で息を引き取った。アンの処刑から3年後の1539年のことだ。母もその前年に亡くなっている。そして彼の死をもって、ヒーバー城とブリン家の関わりは幕を閉じた。

アン・ブリン処刑の真相

▲ヒーバー城に展示されている、アンが処刑時に持っていたとされる聖書。左頁下には、「Remember me when you do pray that hope doth lead from day to day. Anne Boleyn.」との自筆の書き込みがある。
© Hever Castle & Gardens

 アンの罪状は、実の弟ジョージ・ブリンを含む4人との姦通罪。王妃であるアンの不貞は国王への裏切り行為とみなされ、反逆罪とされた。
アンが実際に国王以外の男性と関係をもったかどうかは、歴史学者の間でも意見が分かれている。「男児を産む」という使命のため、妊娠の機会をできるだけ多く得ようと他の男性と関係をもった可能性もゼロではないとする説もあるが、アンへの罪状はでっちあげとする説が有力だ。男児に恵まれないままヘンリー8世自身がすでに45歳を迎えていたことや、彼がアンの侍女ジェーン・シーモアに心を奪われていたことなどが、アン逮捕の背景にあったといわれる。実際に、アンの処刑翌日にヘンリー8世はジェーン・シーモアと婚約し、その数日後には正式に結婚している。
また、アンは学識豊かであっただけに、政治や宗教に関しても強い意見をもち、次第に発言権を得るようになったことから、派閥争いに巻き込まれたともみられている。
いずれにせよ、500年以上前にロンドン塔で執行された「王妃の斬首刑」というショッキングな出来事の真相は闇の中だ。アンの亡骸は、同じく処刑された弟ジョージとともに、ロンドン塔内のセント・ピーター・アド・ヴィンキュラ礼拝堂に埋葬されている(編集部制作の動画「ロンドン塔を征く」参照)。

ヒーバー城に惚れた大富豪、ウィリアム・ウォルドーフ・アスター

 ヒーバー城はブリン家の手を離れた後、持ち主は変わっていったが、その姿はほぼ変わらないまま約400年が過ぎた。しかし、20世紀初頭に米国出身のアスター卿(1848~1919、写真左)に買い取られてから、同城は15世紀以来の大変身を遂げることになった。
 アスター卿の曾祖父は、米原住民から買い付けた毛皮を巨大船でヨーロッパや極東地域へ輸出、そのかわりに紅茶や加工品を輸入するという交易で大成功を収めた。豊潤な財力を継いだアスター卿は、不動産業やメディア、ホテル業など多くの事業を手がけた。ところが、米大使としてイタリアに滞在した際にヨーロッパの魅力に取りつかれ、「米国は、もはや紳士の住める場所ではない」と祖国を捨て、英国に移住・帰化。ヒーバー城を購入すると、ブリン家にまつわる部屋を修復、さらに自分好みの客間等をつくり(写真下)、庭園、人工池(写真二枚目左下)などを整えていった。

▲ アスター卿は第一次世界大戦中に英国へ巨額の寄付を行い、子爵位を受爵。チャーチル元首相など多くの著名人がヒーバー城を訪れ、歓談を楽しんだ。

動画へGo!

週刊ジャーニー編集部では、ヒーバー城を題材に、ショートフィルムを制作しました。下の動画を、ご覧ください。

Travel Information

※2018年10月16日現在

Hever Castle & Gardens

Hever, Edenbridge, Kent TN8 7NG
Tel: 01732 865224
www.hevercastle.co.uk


アクセス
自動車: ロンドンからA20で南下し、M25に入る。ジャンクション5または6で降りると、「Hever Castle」と書いた看板が現れるのでわかりやすい。所要およそ1時間半。
電車:ロンドン・ヴィクトリア駅、あるいはロンドンブリッジ駅から国鉄に乗車し(オックステッド駅、またはイースト・クロイドン駅で乗り換え)、エデンブリッジ・タウン駅で下車。駅からタクシーで約20分。あるいは、ひとつ先のヒーバー駅で下車し、城まで徒歩約30分。

オープン時間
庭園 10:30~/城 12:00~
毎日オープン(ただし10月29日~12月9日は水~日曜のみ)

入場料
大人:£17.25、子ども:£9.75

週刊ジャーニー No.1057(2018年10月18日)掲載