
●征くシリーズ●取材・執筆・写真/本誌編集部
ジェームズ1世(在位1603-1625年)の時代、王族の歓待と、一族の権力誇示のため、元々修道院であった建物を大改築して作り上げられた「オードリーエンド・ハウス」。
今回は、大改築からおよそ400年を経たこの館を征くことにしたい。
今回は、大改築からおよそ400年を経たこの館を征くことにしたい。
祈りの館から、野心家の邸宅へ
ロンドンからケンブリッジに向かって北東方面に車でおよそ1時間半、エセックス県北部にある素朴な農村地帯、サフロン・ウォルデン Saffron Waldenに着く。今回取材班が訪れたのは、その小さな村内の西に位置するマナーハウス「オードリーエンド・ハウス Audley End House」。イングランド王、ジェームズ1世(在位 1603―1625、スコットランド王としてはジェームズ6世 〈在位 1567―1625〉)の時代に基礎が築かれた、ジャコビアン様式(*)が特徴のマナーハウスだ。オードリーエンド・ハウスの歴史は、1140年、サフォーク伯爵のジェフリー・ド・マンダヴィル Geoffrey de Mandervilleが、聖ベネディクト系列の小修道院(priory)を建てたことに始まる。ローマ・カトリック教会の後ろ盾により、16世紀初頭まで権力を拡大していくが、1534年、ヘンリー8世の「宗教改革」により修道院解体が行われ、建物は英国大法官であったトマス・オードリー卿(Sir Thomas Audley, Lord Chancellor of England 1488―1544)に引き渡されることとなった。
1603年、ジェームズ1世の時代に入り、トマス・オードリーの孫で、初代サフォーク卿となったトマス・ハワード(Thomas Howard, 1st Earl of Suffolk 1561―1626)が、今日まで続く屋敷の礎となる大改築を決行。それまで「ウォルデン大修道院 the abbey of Walden」と呼ばれていた館は、これにより、祖父トマス・オードリーにちなみ「オードリーエンド・ハウス」と名づけられた。
当時、英国ではジェームズ1世などの王室メンバーを豪奢な屋敷でもてなし、側近の輪に加えてもらう足がかりをつくろうと、大規模な屋敷を建てる野心家の有力者があとを絶たなかった。トマス・ハワードは、その最たる人物で屋敷を一際立派なものにしようと、総額20万ポンドもの大金をつぎ込み、大改築を行っていく。同時期、同じ目的のために建てられたハートフォードシャーのハットフィールド・ハウス Hatfield Houseの改築費が、およそ20分の1の1万2千ポンドだったことと比べると、桁外れの金額であることから、トマスの抱いていた『野心』がいかに強いものであったか、お分かりいただけるだろう。
権力誇示! も、家計は火の車
完成の翌年、1615年、オードリーエンド・ハウスは、ケンブリッジ訪問の帰路にあったジェームズ1世をついに迎え入れることとなる。ところが、その際、ジェームズ1世がトマス・ハワードに言ったとされるのは、「この屋敷は私には立派すぎるが、サフォーク卿(トマス・ハワード)には良く似合っている」という皮肉めいたものだったという。これはトマス・ハワードと、彼の子孫が「立派すぎる屋敷」とともにこれから辿る、複雑な運命をすでに予期しているかのような、含みのある一言にも聞こえる。大屋敷しかり、王室とのコネを得て、権力を高めようとする行動が人々の目に余ったのだろうか、トマス・ハワードの転落の時はそれから4年後の1619年に訪れる。彼は、恐喝、贈賄などの容疑で、妻キャサリンとともにロンドン塔に幽閉されてしまう。罰金7千ポンドで、9日後に釈放されたものの、屋敷の改築に莫大な金額を投じたトマス・ハワードが一人で完済できるはずもなく、彼が1626年に死去した後は、子孫に借金が受け継がれていくことになる。
屋敷の大改築というトマス・ハワードの『野心』により、ハワード家の子孫は苦しむことになる。が、好意的な見方をすれば、そのおかげで現在の美しいオードリーエンド・ハウスが存在しているとも考えられ、彼の野心に感謝すべき点もあると言える。
*「ジャコビアン Jacobean」は、ジェームズ Jamesのヘブライ語形「ヤコブ Jacob」から派生したもの。ジャコビアン様式は、主にジェームズ1世時代の建築、芸術、文学などの形容に用いられる言葉。柱や壁などにオーク材を多用し、直線ではなく、装飾が施されたり、丸みを帯びたシルエットを呈したりしている。装飾的な模様が浮き立つ天井も特徴的。
写真上右:白、ベージュなどを基調とし、全体的に落ち着いた印象の「サルーン Saloon」。17世紀ジャコビアン調を代表する装飾的な石膏天井、18世紀の一族の肖像画、19世紀のカーペットと家具が設えてあり、各時代のものがそれぞれに調和した部屋となっている。
写真下左:『グレート・ドローイング・ルーム Great Drawing Room』
写真下右:『リトル・ドローイング・ルーム Little Drawing Room』。ともに18世紀、ロバート・アダムがデザイン。この2部屋はグランドフロアに位置し、どちらも天井がとても低く、建築家、アダムを悩ませる。しかし、彼はこれを逆手にとり、壁、天井、家具を同じ色調で揃え、椅子などの家具も背丈の低いものを置くという「細工」で、部屋全体の圧迫感を最小限に抑えた。
『見栄』へと形を変えた、先祖の野心
1666年、案の定、荒廃してしまっていたオードリーエンド・ハウスを、ジェームズ1世の孫にして、大の競馬愛好家のチャールズ2世(在位1660 ―1685)がニューマーケットの競馬場に近い、という理由により買い取るに至った。王室のものとなったオードリーエンド・ハウスは「離宮」としてふさわしいものに改装されるべく、王室付の不動産鑑定士であり、建築家のクリストファー・レン卿により査定が行われる。しかしながら、レン卿の提示した修復額が1万ポンドだったのに対し、屋敷に当てられた王室の予算は年間500ポンドのみ。王室がこの屋敷を重要視していないことの表れともとれる低予算ぶりに、到底実現は不可能となった。レン卿もこの状況を鑑み、屋敷に「無用の長物」との烙印を押すしかなかった。
1701年、同邸はこれにより、トマス・ハワードの孫にあたるヘンリー・ハワードの元へと戻されることになる。王室にとっては「お荷物」であっても、ハワード家にとっては、先祖が全財産をつぎ込んだ大切な屋敷。一家にとっては幸運な出来事だったというべきかもしれない。
1762年、ハワード家の血を引き、初代ブレイブルック卿となったジョン・グリフィン・グリフィン(John Griffin Griffin,1st Baron Braybrooke 1719―1797)がオードリーエンド・ハウスを相続する。この頃までに、ジェームズ1世の皮肉が現実となったかのように、屋敷の3分の2は維持できずに取り壊されていた。
ジョン・グリフィン・グリフィンは、アートや建築など、当時の世界の流行に強い興味を抱いており、先祖伝来の屋敷を現代風に改築しようと一大プロジェクトを立ち上げる。
さらなる見栄っ張り領主登場
1820年、3代目ブレイブルック卿となったリチャード・ネヴィル(Richard Neville, 3rd Baron Braybrooke 1783―1858)は、研究熱心な人物で、妻ジェーンとともに、屋敷の歴史を研究し、歴史的価値の高さを再認識していく。その過程で2人は、先々代のジョン・グリフィン・グリフィンにより新古典様式に様変わりした屋敷に疑問を持ち、もう一度、17世紀大改築時のジャコビアン様式に戻そうと考えるに至る。親戚のハワード家に対する対抗心も見え隠れするこのアイディアは、リチャードとその妻のやはり『見栄』の表れということになるだろう。こうして新たに建築家を雇い入れ、完成させたスタイルは「ネオ・ジャコビアン様式 」と呼ばれている。
今日、残されている屋敷の内装は、この夫妻の趣味によるところが大きいものの、ロバート・アダムが作り上げたジョン・グリフィン・グリフィン時代の新古典様式の最重要部分もそのまま残されている。屋敷内ツアーに参加すると、「(オリジナル)ジャコビアン」、「ネオ・クラシカル」、「ネオ・ジャコビアン」の言葉が多用され、各部屋ごとにそれぞれの特徴が説明されるので、訪れた際は、ガイド付で回ると、その比較がより興味深く感じられるはずだ。
ポーランドとの『秘密』のつながり
オードリーエンド・ハウスで訓練を受けた女性1人を含む316名の勇士たちが、ポーランド本土への着陸に成功したものの、3分の1以上に当たる108名が捕えられ、ドイツ兵による壮絶な拷問により命を落としたという。
戦後、オードリーエンド・ハウスは、名義はブレイブルック家のままに、英国政府に買い上げられ、1948年より屋敷の管理と維持を英国建設省が引き受けるようになる。その後80年代から現在まで、その役目を「イングリッシュ・ヘリテージ」が引き継いでいる。
三者三様の個性が共存する館
また2008年から一般公開が始まった、ヴィクトリア時代のブレイブルック家を陰で支えていた使用人たちの仕事場「使用人別棟 The Service Wing」も見応えがある。屋敷とはまた違った興味をかき立てられることだろう。屋敷外では、ケンブリッジに続くケム川のゆったりとした流れを中心に、ケイパビリティ・ブラウンの手がけた広々とした景観式庭園を散策し、春の緑溢れる木々の様子をめでて欲しい。
Life below Stairs
ヴィクトリア時代における縁の下の力持ち
使用人たちの別棟で、貴族社会の裏側を体験
19世紀、ヴィクトリア朝時代、「階下の社会生活 life below stairs」と表現され、支配者階級の人々の身の回りの世話や家事に従事していたのは、労働者階級(被支配階級)の出身者たちだった。当時、困窮を極めていた労働者階級の人々にとっては、支配者階級の家庭への家事奉公に就くということは、住居と食事が確保される「快適な暮らし」の保障を意味していたという。とはいえ、あくまで階下の生活であることに変わりなく、厳しいハウスルールとマナーが存在し、24時間、365日のほぼすべてを奉公先の家族にささげなくてはならなかった。今回訪れたオードリーエンド・ハウスは、ヴィクトリア朝時代を陰で支えた彼/彼女ら、使用人の当時の働きぶりが伺える「使用人別棟 The Service Wing」が一般公開されている、英国内でも珍しいマナーハウスの一つ。1881年当時の状態が復元されており、きらびやかな屋敷内の世界とは異なった、当時の様子を見学できる。
格付け
使用人といえども、その中で上から下までランクがはっきりと分かれていた。ユニフォーム、食事の場所はもちろん、屋敷内や別棟内ですら出入りできる場所がランクにより異なっていた。給与
オードリーエンド・ハウスでの給与は、他の貴族屋敷に比べて高かったとされている。通常給与に加えて、食事、部屋が保障されているほか、お茶やビール、砂糖なども自由に手にすることができたという。ただ、同一内容の仕事でも男女格差が激しい。〈例:1881年、女性料理人のエイヴィス・クローコムさんの給与 £50/年 前任者の男性料理人 £120/年(およそ2.5倍差)〉日常生活
毎朝4~5時には起床。就寝は家族が寝静まった深夜以降になることも。当然現代のような電化製品はない時代なので、洗濯、調理、洗い物などは、重労働である上、時間を要し、単調きわまりないものだった。休暇は基本的に1ヵ月に1度のみ。❶ 洗濯室は乾き物と濡れ物を扱う部屋がそれぞれに分かれている。濡れ物洗濯室(wet laundry room)にある、煮沸用の釜。不衛生から来る伝染病も深刻だった時代、煮沸消毒は重要な行為といえた。
❷ 乾き物洗濯室のアイロン。石炭で加熱された鉄製アイロンは、非常に重い上に持ち手も熱く、現代とは比べ物にならないほど使い勝手が悪かったことが伺える。
❸ 乳製品調理室。手前には、バター成形用の木ベラが並んでいる。
❹ バターを作るために牛乳をかくはんする装置。乳製品専門のメイドが使用していた。
❺ メインの台所。自然光が十分に入る広いスペースが確保してある。
❻ 狩猟獲物用貯蔵室。狩猟はブレイブルック卿の趣味で、仕留めた獲物はここで保管された。
❼ ゲストに振る舞うために用意されたであろうデザートの色鮮やかなレプリカ。
厳しい上下関係が存在したヴィクトリアン朝の使用人の世界。男性はバトラーを筆頭に、女性はハウスキーパーを筆頭に、細かく役職が振り分けられていた。オードリーエンド・ハウスの1880年代は、ブレイブルック夫妻2人に対して、30人ものお抱え使用人がついており、各自夫妻とそのゲストたちをもてなすために毎日身を粉にして働いていた。
Ⓐ ハウスキーパー
Ⓑ バトラー:使用人のまとめ役であり、使用人の作業一切を取り仕切る使用人の中で一番上の地位。
Ⓒ デイリーメイド:主にバターなどの乳製品を作る担当。中堅職。
Ⓓ スカラリーメイド:女性使用人の中でも最も身分が低く、野菜、食器洗いなど単調な仕事を担当するメイド。奉公を始めたばかりの十代の若い少女が一番先に就く職。
Ⓔ ルームボーイ:ハウスキーパーとバトラーの小間使い。銀食器磨きから、石炭の調達まで、頼まれることすべてをこなす、男性使用人の最下級の職。
Travel Information
※2009年4月15日現在
Audley End House and Gardens
Audley End, Saffron Walden, Essex CB11 4JFTEL: 01799 522 399
www.english-heritage.org.uk/audleyendhouse
アクセス
ロンドンから車
M11を北上。ジャンクション9AをB184方面に右折。B1383に入りしばらく南下。Spring Hillを左折し、直進すると敷地内に入る。ロンドン市内より約90分。ロンドンから電車
Liverpool Street駅から乗車。約1時間後、Audley End駅にて下車し、タクシーで5分。またはバスと徒歩で20分。施設(屋敷と庭園以外)
●ギフトショップ●ティールーム
セルフサービス形式で軽食ができる。
週刊ジャーニー No.570(2009年4月16日)掲載