
●征くシリーズ●取材・執筆・写真/本誌編集部
10世紀中盤、アルフレッド大王の孫の代に、すでに史実に登場していたソーンベリーという所領がある。
有力貴族に与えられる領地として知られるようになり、14世紀にはプランタジネット王室の血をひく女性が輿入れし、16世紀にはチューダー朝の所有となった。
しかし、その華麗な経歴ゆえに、権力争いに巻き込まれることも多く、領地内に建てられた城は300年近く放置されたこともある。
ヘンリー8世縁の地でもあり、現在は一流ホテルとして再生を果たした、このソーンベリーの城を征くことにしたい。
有力貴族に与えられる領地として知られるようになり、14世紀にはプランタジネット王室の血をひく女性が輿入れし、16世紀にはチューダー朝の所有となった。
しかし、その華麗な経歴ゆえに、権力争いに巻き込まれることも多く、領地内に建てられた城は300年近く放置されたこともある。
ヘンリー8世縁の地でもあり、現在は一流ホテルとして再生を果たした、このソーンベリーの城を征くことにしたい。
ゲストの出迎え役はブドウの木々
「実際に宿泊できる、イングランドでも数少ないチューダー朝時代の城」、「自家製ワインを楽しむことのできる城」といったうたい文句の数々にひかれ、今回、取材に向かうに至ったのだった。あいにく、ブドウの収穫は、我々が訪れた日の約1週間前に完了してしまったと伝えられたが、自家製ワインは味わえると聞き、嬉々として取材の日を迎えた。
ロンドン市内を発ってから約2時間半。ソーンベリーの町に到着した我々は、城へと続くはずの道の入り口を探した。標識に従えば、このあたりにあるはずだが…と目をこらしながら徐行していると、はたして、町の中心的役割を果たすセント・メアリー教会の敷地の一角であるかのように見える、控えめなゲートに行き当たった。そこが本当に城への入り口か自信が持てぬまま、緑に囲まれた私道をゆっくりと進んだ我々の左手に、整然と並ぶ低木の列が現れた。
500年余りにわたる時間の中で、数々の歴史的ドラマを目の当たりにしてきたソーンベリー・キャッスルが、その伝統の重みを淡々と受け止めつつ、ただ穏やかにたたずんでいるのだった。一時はイングランド王室所有となったこともある城だが、派手に自己主張するでもなく、きわめて実直な印象を受ける。ただ、それはあくまで外観から得られる印象だ。16世紀イングランドで、要塞をベースに、当時、流行したルネッサンス形式の壮麗さを加味した邸宅にしようとしたというから、内部にはまったく異なる世界が広がっているのかもしれない。そうした思いを頭にめぐらせながら、取材班は城の玄関へと歩を進めた。
ウィリアム1世の王妃の仕返しを受けた所領
さて、実際に城の中に足を踏み入れる前に、ソーンベリーの所領とその城の歴史について、できるだけ「予習」を試みたいと思う。ウェールズとの「国境」近くにあるソーンベリーの歴史はきわめて長い。10世紀には、イングランド史に登場していたという。
イングランド南部を中心に、一応の統一を果たしたアルフレッド大王の孫、アセルスタン(Athelstan 在位925―940)の代にサクソン族のエイルワード(Aylward)なる人物がソーンベリーの領主であったことが分かっている。イングランド史初の土地台帳、「ドゥームズデー・ブック」には、このエイルワードの孫、ブリクトリック(Brictric)の所領としてソーンベリーが登録されている。城の歴史は500年だが、領地としての歴史はその倍、千年にもおよぶというわけだ。
ところが、ヘイスティングズの戦いで勝利をおさめ、ノルマンディー公(ウィリアム1世 William I在位1066―87)としてイングランドに乗り込んできたギヨーム2世により、ソーンベリーは没収され、王妃マチルダに与えられてしまう。一説によれば、マチルダがまだ独身だった頃、その父親であるフランダース伯爵(フランダース地方は今のオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にまたがる地域)のもとを使節として訪れたブリクトリックに求婚したものの、あえなく拒絶された。マチルダはそれを根に持って夫のウィリアム1世にねだり、ソーンベリーを我が物にしたとされている。ブリクトリックはウィンチェスターで囚われの身となり、そこで生涯を閉じたといわれているが、もしこの説が真実なら、気位の高い女性のうらみをかったブリクトリックは、自分の判断を獄中で悔やんだことだろう。
マチルダの死後、あるノルマン貴族がソーンベリーに封じられた。この貴族の娘がヘンリー1世(Henry I 在位1100―35)の庶子(早くいえば愛人の子)に嫁いだことから、ソーンベリーのイングランド王室との深いつながりが本格的に始まる。
1334年には、そこへ野心家のスタフォード男爵の血が『乱入』。彼は、ソーンベリーを含む数々の所領を相続したマーガレットという女性を、誘拐し結婚するという大胆な行動をとったのだった。さらに、1398年ごろにはエドワード3世(Edward III 在位1327―77)の7男の娘がスタフォード家に輿入れし、プランタジネット朝の縁者と見なされるようになる。
1444年には、ヘンリー4世(Henry IV 在位1399―1413)の寵愛を受け、スタフォード家はバッキンガム公の称号を獲得したものの、2代目バッキンガム公は、時の王、リチャード3世(Richard III 在位1483―85)への反逆軍に加わり敗北。ソールズベリーで処刑された。
スタフォード家の命運もこれで尽きたかと思われたが、ヘンリー・チューダーがリチャード3世を破り、ヘンリー7世(Henry VII 在位1485―1509)として即位。チューダー朝が始まったおかげで、スタフォード家の復興が果たされたのだった。2代目バッキンガム公の息子、エドワードがわずか7歳で3代目バッキンガム公として、ソーンベリーを継承した。
ここまで見ただけでも、ソーンベリーの歴史は十分波乱に富んでいるが、さらに劇的なできごとがソーンベリーを待ち受けていた。
第3代バッキンガム公のみた壮大な夢
3代目バッキンガム公となったエドワードは、しっかりとした「ビジョン」を持つ若者に成長する。やがて、ヘンリー8世(Henry VIII 在位1509―47)から、既に住居として使われていた建物をグレードアップし、城を建てることを許可された。1510年のことである。江戸時代と同様、天下統一を成し遂げた者が恐れるのは、家臣の誰かが突出した力をつけ、自分にはむかってくること。徳川家康が各大名に、許可なく城郭の増改築を行うことを禁じたのと同じで、ヘンリー8世も諸侯による反逆を抑えるため、目を光らせていた。そのヘンリー8世に城の建設を許可されたというのだから、3代目バッキンガム公エドワードは、よほど厚い信頼を得ていたのだろう。ヘンリー8世の側近、ウルズィー卿である。
彼は、エドワードを失脚させるシナリオを書き上げ、それを密かに実行に移したと見て間違いなさそうだ。
確かに、エドワードが目指した「要塞の役割を果たす大邸宅」は、堅固な城郭の呈を示していた。しかも、彼はかつてイングランドを治めたプランタジネット朝の血を引いており、王位継承権を主張することも不可能ではなかった。エドワードが反逆を目論んでいるという噂が広まり、それはヘンリー8世の耳に届く。
当時、王(女王)への反逆を目論むことは国家反逆罪であり、まず例外なく極刑が待っていた。反逆罪の名のもと、ヘンリー8世も、数えきれないほどの首をはねた。
1521年4月、逮捕されたエドワードは裁判にかけられる。このくだりはシェイクスピアが1613年に発表した史劇『ヘンリー8世』にも描かれており、それまで信頼していた家臣たちが「証人」として、自分に不利な証言を言い連ねるのを悲痛な面持ちで嘆くエドワードだったが、その悲運を覆す奇跡は起こらなかった。
同年5月、彼はロンドンのタワーヒルで処刑されたのである。
300年の冷遇時代を耐え切った城
エドワードが文字通り心血を注いで完成させようとしたソーンベリー・キャッスルは、没収され、それから30年余り王室所有となる。この間に、後にメアリー1世(Mary I 在位1553―58)となるヘンリー8世の長女は数年間をここで過ごし、1535年にはヘンリー8世本人と、2番目の妻、アン・ブリンが10日間、滞在したことが記録に残っている。ヘンリー8世夫妻が逗留した際には、近隣の自治都市ブリストルから丸々と太ったウシ10頭とヒツジ40匹が贈られ、饗宴に用いられたという。ヘンリー8世の死後、即位したエドワード6世(Edward VI 在位1547―53)は、処刑されたバッキンガム公エドワードに同情的だったようだ。その息子をスタフォード男爵として取り立て、ソーンベリーも1554年にスタフォード家の手に戻された。しかし、1547年にはソーンベリー・キャッスルはすでに大規模な修復作業が必要となっていた。この時の工事費は王室が負担したものの、それ以降も定期的な修理と維持管理が必要とされた。ところが約300年、相続人の誰一人として、城に十分な修復をほどこすだけの情熱、あるいは財力を持たず、屋根の一部が崩れ落ちるなど、ソーンベリー・キャッスルはかつての栄光を失いかけるまでになっていた。
救世主がようやく現れたのは、19世紀半ばのこと。1824年にソーンベリーを相続したヘンリー・ハワード Henry Howardという人物が、50年代に本格的な修復工事をスタートさせたのだった。屋根も再建され、人が快適に暮らすことのできる邸宅として、城は息を吹き返したのである。
それから約150年を経た、西暦2000年。一流ホテルが加盟するグループ、「ヴォン・エッセン・コレクション von Essen Collection」が、ソーンベリー・キャッスルを購入。チューダー朝の城がホテルとして生まれ変わることになったのだ。城に心があるとすれば、このできごとは晴天の霹靂であり、強いショックをもたらしたと推測できるが、マイナス面ばかりではなかった。城のオリジナリティをいかしながら、大規模かつ包括的な改装工事が行われた結果、ソンベリー・キャッスルは再び壮麗な建造物としてよみがえったのだ。
ソーンベリー・キャッスルの文字がラベルに刻まれた白ワインとともに、レストランでの昼食を終えた取材班は、食後のコーヒーを楽しむためにチャンセラーズ・ラウンジへと移動した。
窓の外に広がる鉛色の空が、心なしかやや明るくなってきたように感じられる。柔らかなソファに深々と腰をしずめ、くつろいでいると、小鳥の澄んだ鳴き声が聞こえてきた。その小鳥のさえずり以外、何の物音もしない。まさに、贅沢な静寂というべきか。この静けさは、千年前も今も変わらぬものに違いない。そして、時はうつろい、時代も確実に変わっていくが、ソーンベリー・キャッスルは、今までそうしてきたように、これからも、その静寂の中、歴史をあるがままに受け入れていくのだろう。
自家製ワインとともに正統派英国料理を楽しむ

Chicken Liver Parfait
鶏レバー・パルフェ

Whipped Goat's Cheese
ヤギのチーズのホイップ

Pan-fried Bream
白身のブリーム(タイの一種)

Ox Cheek
ウシのほほ肉の煮込み

Chocolate Mousse
チョコレート・ムース

Treacle Tart
トリクル・タルト

長い歴史を秘めた空間で最上級のくつろぎを味わう
ソーンベリー・キャッスルの客室は、内装も間取りも部屋ごとに大きく異なる。また、各客室には、城にゆかりのある人物などの名前がつけられている。Duke's Bedchamber
デュークス・ベッドチェインバー
ヘンリー8世と2番目の王妃アン・ブリン(エリザベス1世の母)が1535年に滞在したという部屋。アンはその翌年、不貞を働いた(国王への反逆罪)として処刑されてしまうが、この頃はまだ寵愛を受けていたことになる。
The Tower
ザ・タワー
英国内のホテルにあるものとしては最も幅が広いというベッドが自慢(幅10フィート=約3メ-トル)。もったいないほど広いバスルームも特筆もの。中でも格調高いトイレにご注目を。
Portlethen
ポートレサン
Bedford
ベッドフォード
1990年代に改装された部屋を客室として使用。ジャスパー・チューダーの幽霊を見たスタッフもいるとのことだが、それもうなずけるほど、随所に歴史を感じさせる部屋だ。
Travel Information
※2009年12月10日現在
ソーンベリー・キャッスル
Thornbury CastleThornbury, South Gloucs, BS35 1HH
Tel: 01454 281182
www.thornburycastle.co.uk
アクセス
ロンドン市内から自動車で行く場合、M4のジャンクション20からM5に入り、やや南下(北上しないよう注意)、ジャンクション16でおりる。その後A38に入りThornburyの表示に従って走ればOK。ロンドンから約2時間半。週刊ジャーニー No.605(2009年12月17日)掲載