イングランド南西部、ドーセット県に「ボビントン・キャンプ(Bovington Camp)」という英軍基地がある。「タンク・ミュージアム(Tank Museum)」は、その基地の一角にある。このタンク・ミュージアム、戦争史上最初に登場した菱形の戦車から、つい最近の湾岸戦争時のものに至るまで、世界26ヵ国の戦車約300輌を保有する世界最大級の戦車博物館だ。敗戦国の日本では絶対に見られない名戦車の数々を、ここでは一挙に見ることができる。今回は、エンジニアたちの叡智が集結した「タンク・ミュージアム」を征く。
●征くシリーズ● 取材・執筆・写真/本誌編集部
戦場に怪物現る
1916年9月15日。第一次世界大戦で最大の激戦地となったフランス北部ソンムの戦場に、突如岩山のように大きな菱形の物体が出現した。英軍が世界に先駆けて戦場に送り込んだ戦車「マークⅠ(Mark1)」であった。西部戦線では、連合軍の英仏軍と同盟軍のドイツ軍がお互いに塹壕(トレンチ)を深く掘ったまま睨み合いが長期化していた。この塹壕を乗り越えて敵陣深く兵を進めるために開発されたのが、初期の戦車である。世界で最初に実戦配備された、この「マークⅠ」。元々農業用トラクターを改良した粗末なものだが、塹壕を乗り越えて行くという目的を果たすため、全長が昨今の大型戦車と変わらぬ8メートルもある巨大なものであった。
乗員は8名。「トロイの木馬」のように鉄の箱に兵士を乗せて塹壕を乗り越え、そのまま敵の懐に入り込もうという作戦だ。巨大な鉄の塊の出現に度肝を抜かれたドイツ軍であったが、風貌のいかつさに反して、その正体は案外ぜい弱なものであった。装甲(車体を覆っている金属板)が薄いため、ライフル弾でも貫通したり、車体上部から手榴弾を投げ込まれたりと、早くから弱点をさらしていた。また、走行速度が時速10キロ程度であったため、ドイツ軍の集中砲火を浴びた。故障も多く、戦う前からクズ鉄と化した戦車も少なくなかった。
さらに畳み掛けると、車体の上に箱を載せただけの簡素な造りで、車内に熱々のエンジンがむき出しで置かれていたため、ただでさえ8人もの兵士が乗り込んでいて暑苦しいというのに、車内の温度は50度にまで達することもあり、兵士たちを苦しめた。加えて騒音と排煙がすさまじく、車内環境は劣悪を極め、体調を崩す者も続出したという。
第一次世界大戦時に英軍が開発した、世界初の戦車「マーク1」。
こうしてデビュー戦ではさしたる戦果もあげられなかった「マークⅠ」ではあったが、その「将来性」は敵味方関係なく誰もが認めるものであった。こうして戦車の時代が幕を開けた。ちなみに、戦車のことを英語では「tank」という。これは「マークⅠ」を秘密裏に開発中だった英軍が、敵に察知されないように戦車のことを「Water Carrier(水運搬車)」とコードネームで呼んでいたのが、いつの間にか人から人に伝わるうちに「tank(水槽)」となり、これが定着した。
タンク・ミュージアム誕生
1916年以降、ボビントン・キャンプは戦車の極秘訓練施設、および修理工場として機能していた。やがて第一次世界大戦も終結。1919年にはフランスから大量の戦車がボビントン・キャンプへと引き揚げてきた。しかし、その多くは損傷が激しく、スクラップにされる順番を待つのみの日々を送っていた。1923年、偶然キャンプを訪れた『ジャングルブック』の著者ルドヤード・キプリングがスクラップ寸前の戦車の一群に目を留め、「きちんとした博物館を作って戦車を保存すべし」と助言する。ノーベル賞作家の言葉に国防省も重い腰を上げ、ここに正式に「タンク・ミュージアム」が誕生した。
第二次世界大戦終了後は、さらに世界中からコレクションが集まり、「戦車博物館」として『品揃え世界一』の地位を獲得していくことになる。
ドーセットにあるタンク・ミュージアムの外観。
大戦から大戦へ
第一次世界大戦の終結は、世界平和の到来を意味するものではなかった。各国は来るべき陸戦に備え、さらに強力な戦車の開発に乗り出すこととなる。主要各国がこぞって戦車を開発する中、次第に破壊力だけでなく、機動力と防御力をも求められるようになっていった。どんなに強烈な敵弾を受けても弾が貫通しないよう装甲はどんどん分厚くなり、どんなに分厚い敵の装甲をも貫くべく大砲はますます大型化するという「盾と矛」の故事のごとく『矛盾した開発』が行われていった。そして、残念ながら各国のたゆまぬ努力は徒労に終わることはなかった。第二次世界大戦の勃発である。
戦争という憎むべきイベントのためではあるが、この博物館では「戦車」という鉄の塊を通して、過去100年にわたるエンジニアリングの粋を見ることができる。
戦争に負けた国の人、敗戦を知らぬ国の人、戦争を否定する人、肯定する人、実際に戦地に赴いた人、そして戦争というもの自体を知らぬ子供たち。この博物館を訪れる人々の心はひとつではない。そんなことは一切関係なく、それぞれの任務を終えた戦車たちはただ静かに、今日も分け隔てなく、世界中からの訪問者たちを受け入れ続けている。
ぜひ動画でもタンク・ミュージアムをご覧ください。
【世界各国別】コレクションの一部をご紹介!
革新的戦車を生んだフランス
ルノーFT-17
そこに全くもって画期的、かつ現在の戦車にも通じる普遍的なコンセプトをもって作られ、戦車の行く末を決定付けることとなる1輌の戦車が登場する。それが、フランスのルノー社が作った「FT-17」=写真=である。「FT」とは「Faible Tonnage」の略で「軽量」を意味し、「17」は1917年式を表す。1918年より実戦配備された。
全長5メートル、重量わずか6.5トン。最高速度時速8キロで、乗員は2名。全長8メートル、重量約28トンの「マークⅠ」と比べるとまことに小さな戦車だったが、その後の戦車開発に与えた影響は計り知れぬほどの大きさであった。
最大の特徴はエンジンルームと運転席を別室とし、乗員を騒音と熱気から解放したことと、広域な視界を確保するために回転砲塔を車体の上に取り付けたことにある。これによって、砲手は360度の視界を得ることが可能となった。FT-17以降は常識ともなる回転砲塔だが、この時はまさに革新的なアイディアであった。
FT-17は3000輌も生産された大ヒット戦車で、大戦後も世界各国に輸出され、一部は日本にも持ち込まれた。
戦車といえば、やっぱりドイツ
第一次世界大戦に敗れ、戦車の開発を禁じられたドイツであったが、1935年に勝手に再軍備宣言をし、本格的に戦車を作り始めた。最初は小型、中型の戦車が多かったが、独ソ戦でソ連製の「T-34」(左頁参照)いう優秀な量産型戦車と遭遇してからは、これに対抗すべく次第に大型化していった。特に5号戦車(パンサーまたはパンター)、6号戦車(タイガーまたはティーゲル)などは分厚い装甲と、長大な大砲を備えた巨大戦車であり、戦場で遭遇した敵兵を震え上がらせるに十分だった。タイガーⅠ型
上の写真のタイガーⅠ型は1943年4月、チュニジア戦線で捕獲されたもので、世界で唯一、走行可能なタイガーⅠ型だ。2014年に公開されたブラッド・ピット主演の映画「フューリー(FURY)」は、実際にこのタイガーⅠ型が撮影に使われた。
タイガーⅡ型(通称キングタイガー)
ドイツ軍はソ連の「T-34」を徹底研究した。その結果、被弾しても可能な限りインパクトを逸らすための傾斜角をボディに持たせるデザインを積極的に取り入れていく。それによってタイガーⅠ型よりもはるかに洗練されたスマートな風貌となったが、実戦投入は終戦も迫った1944年秋で、生産台数も489台と少なかった。
しかし、なぜか後世の戦車ファンたちは鼻筋の通ったイケメンのタイガーⅡ型よりも、直線が多くゴツゴツして無骨ないでたちのタイガーⅠ型に愛着を覚えてしまうのである。
アメリカ戦車の代名詞、M4シャーマン
M4シャーマン
ちなみに、「シャーマン」という呼び名は英軍がつけたもので、南北戦争時の北軍将軍のウィリアム・T・シャーマンにちなんでいる。
当時の米軍は主に中型戦車を大量に作り続けていた。ヨーロッパ戦線においては、単独ではドイツの重戦車の敵になり得なかったが、圧倒的な数で勝負に挑んだ。フォード、クライスラーといった自動車メーカーら11社が製造を競い、一応「M4」でくくってはいるものの、多種多様なM4戦車が数多く誕生した。
ブラピが搭乗!
映画「フューリー」で実際に使われたシャーマン
それだけではなく、先述のタイガーⅠ型も同映画に参加しており、この2台が一騎打ちを演じる大迫力の戦闘シーンがある。当然(?)最後はブラッド・ピットが搭乗するM4シャーマンが勝ち残るのだが、それでもたった1台のタイガーにM4シャーマン3台が簡単に撃破される様は、かなり衝撃的だ。
ソ連軍は数で圧倒
T-34
ここでは長所のみを述べると、① 車体全体に傾斜装甲が用いられ、敵の弾丸の直撃を避けるように工夫されている。これを捕獲したドイツ軍は、早速この傾斜装甲をタイガーⅡ型に採用している。② 幅の広いキャタピラが取り付けられているため、グリップの悪い湿地などでも安定した走行が可能。③ 操縦が簡単なため、農民でも運転可能だった。ソ連軍には読み書きができない兵士も数多くいたので、この操縦の簡単さは訓練時に大きな助けとなった。④ 徹底した簡素化のため量産が可能となり、やられてもやられてもそれ以上の数の新しいT-34が工場から送られたという。終戦までに作られたT-34の総数はおよそ6万5000輌で、米国のM4シャーマンの総数を凌ぐ、まさに世界一多く作られた戦車だ。
圧巻の眺め!
コンサベーション・センター
2013年に完成したコンサベーション・センターも必見だ。コンサベーションとは「保存」の意味だが、その名の通り、ここでは随時傷んだ車輛の修理・保全が行われている。その数およそ150台。これをバルコニーから見下ろすことができる(写真)。その様子は「戦車の墓場」と表現したくなるが、実際には治療を待つ病院の待合室と表現した方が正しい。ここは開館時間が限られているので、博物館に到着したらまず、コンサベーション・センターの開館時間をチェックするとよい。
そして日本…
95式軽戦車
95式軽戦車の装甲は、わずか12ミリしかなかった。米軍のM4シャーマンで最大76ミリと95式の約6倍。ドイツ軍のキングタイガーに至っては最大180ミリと95式の約15倍。装甲の薄さは「大和魂」で補え、というのが現場を知らない上層部の考えであったらしく、そのような薄手の鎧をまとった戦車を与えられた戦車兵たちが気の毒でならない。
撃っても口径37ミリ砲の主砲では、相手が戦車では全く歯が立たない。撃っては跳ね返され、撃たれては貫通された。それでも、戦車をほとんど持たない中国軍との戦いや、マレーやビルマなどでのジャングル戦では、その小ささを生かして活躍した。
本車は1941年、マレー半島にて捕獲され、カルカッタで調査研究された後、英国に後送されたものだ。他国の戦車が主砲を上に持ち上げ、ふんぞり返っているのに対し、この95式は細くて短い主砲をシュンと下に垂れさせ、どこか所在なげにしている姿に、日本人として、一抹の寂しさを覚える。
機会があったらぜひ、会いに行ってあげて欲しい。きっと喜ぶと思う。
実際に走る戦車が見られる!
「タイガーデー」
先述した通り、タンク・ミュージアムに提示されているタイガーⅠ型(131)は、世界で唯一、今も自力走行可能なものだ。毎年「タイガーデー(Tiger Day)」という日が設けられ、タイガーⅠ型のみならず、M4シャーマンなどの名車が実走するイベントを開催している。今年(2018年)のタイガーデーは4月28日(土)。チケットは同博物館の公式ウェブサイト(www.tankmuseum.org)にて発売中。
戦車に囲まれてランチを
ここでフィッシュ&チップスやソーセージ&マッシュなどをいただくのも悪くないが、第二次世界大戦ホールにある小さなカフェで、戦車を目の前にサンドイッチを頬張るのも悪くない。機械油の匂いが最高の調味料となる。
自宅&事故現場も行ける!
アラビアのローレンス
博物館から直線でわずか1.8マイルのところに「クラウズ・ヒル(Clouds Hill)」という小さなコテージがある。ここは映画「アラビアのローレンス」で一躍その名を知られることになった英国の軍人・考古学者、トーマス・エドワード・ローレンス(1888~1935年)が、最後に住んでいた小屋だ。ローレンスは1935年5月13日、ボビントン・キャンプから自宅までの道をバイクで疾走していた。わずか1.8マイルの道のりの途中、自転車に乗った少年2人と接触しそうになり転倒、頭部を強打して意識不明となり、6日後に亡くなった。
「クラウズ・ヒル」は現在、ナショナル・トラストが管理し、特定の日に一般公開されている(www.nationaltrust.org.uk/clouds-hill)。
Travel Information
※2018年2月15日現在
TANK MUSEUM
タンク・ミュージアム
Bovington, Dorset BH20 6JG
Tel: 01929 405096
www.tankmuseum.org
料金
大人 £13 、子供(5~16歳) £8.50、5歳未満は無料
アクセス
列車
ウォータールー(Waterloo)駅からウール駅(Wool)へ。
ウール駅から約2マイル。
車
ロンドン市内から約110マイル。M3→M27→A31のルートを南西へ。ウール方面を目指して少し車を走らせると、やがて「Bovington Camp」という標識が現れるのでそれに従う。
週刊ジャーニー No.1022(2018年2月15日)掲載