デボンシャー公爵夫人の愛と憂いの物語 チャツワースを征く
「ピーク・ディストリクトの宮殿」と称されるチャツワース・ハウスは代々、デボンシャー公爵の本拠地として受け継がれてきた大邸宅。
近頃、1400万ポンドかけた修復工事を終えて新たに蘇ったこの館には、脈々と受け継がれた公爵家の人々の、愛と苦悩に満ちた歴史が刻まれている。愛のない結婚、不妊、不倫…、公爵夫人として羨望のまなざしを浴びながら、スキャンダラスな人生を送ったジョージアナ・キャベンディッシュの人生を追いつつ、チャツワースを征くことにしたい。

●征くシリーズ●取材・執筆・写真/本誌編集部
参考文献『Georgiana Duchess of Devonshire』Amanda Foreman著

冷淡な夫と不妊に悩まされ…

写真右=ジョージアナの肖像画。1757年ジョシュア・レイノルズ作。写真左=2008年に公開された映画『ある公爵夫人の生涯 The Duchess』のワンシーン。ジョージアナに扮するキーラ・ナイトリーが当時を再現し、高いかつらをかぶっている。 ©2008 Paramount Vantage
ファッションや恋愛事情はもちろん、とるに足らない日常ネタまでもが一般大衆の関心を引く「セレブリティ」。有名で裕福、かつファッションリーダーである彼らは常にパパラッチに追いかけられ、タブロイド誌を賑わせている。写真が発明される以前の、「パパラッチ」や「セレブリティ」という言葉もなかった18世紀後半、当時のメディアをすでに賑わせ、その生き方が人々を魅了してやまなかった一人の女性がいた。
ジョージアナ・キャベンディッシュ――(英語では「ジョージアーナ」と発音。以下ジョージアナ)。第5代デボンシャー公爵夫人(Georgiana Cavendish, Duchess of Devonshire 1757―1806)である。同時代に生きたマリー・アントワネットとも交友が深く、彼女と比較され、英国のファッションリーダーと謡われた。
当時、貴族夫人はかつら(コワフュールcoiffure)を着用し、頭を高く見せるのが主流であったが、ジョージアナはより大胆に大袈裟に、かつらの高さを一メートル以上にまで高め、そこにふわふわと魅惑的に揺れるオーストリッチ(駝鳥)の羽根を挿し、時に小鳥やフルーツや小さな帽子などの飾りをあしらった。この行き過ぎだが目を見張るスタイルはたちまち流行し、高価であるにもかかわらずオーストリッチの羽根は、女性のワードローブになくてはならないアイテムとなった。その勢いが余りに凄まじかったため、王妃からお咎めがくだり、以後オーストリッチの羽根を身に付けることは禁止され、中傷の的にさえなったという。
イングランドに十ある公爵家の中でも最も財力があり、政治的影響力を持つといわれるキャベンディッシュ家は、17世紀より、代々デボンシャー公爵位(*)を世襲する名門中の名門。そこへ、伯爵位を受けたばかりのスペンサー家の令嬢として嫁いだジョージアナは、イングランド中の祝福を一身に受け、上流社交界の華として花開いた。
しかし、彼女が旋風を巻き起こし、世間を牽引するまでになったのは、公爵夫人という肩書きだけでは足らず、彼女の生まれ持ったカリスマ性、社交性、鋭い審美眼によるところが大きい。群衆の前でのスピーチ、初対面の人々との会話は彼女が最も得意とするところであり、その気品、自信に満ちた振る舞い、洗練された装い、ウィットに富んだ会話は人々の心を一瞬にしてとらえていった。
女性にまだ参政権が与えられていない時代ながら、ジョージアナは政治にも強い関心を見せた。キャベンディッシュ家およびスペンサー家が強く支持するホイッグ党(保守党の対立政党)の党員たちと討論を交わし、党員も顔負けの意見を披露することもしばしばであったという。デボンシャー公のロンドンの邸宅「デボンシャー・ハウス」やダービーシャーの本邸「チャツワース・ハウス」には、ホイッグ党の大物政治家らや皇太子(後のジョージ四世)が集い、政治的社交の場として栄えた。後に皇太子やジョージアナが莫大な借金をこしらえることになるギャンブルも、重要な社交ツールとして盛んに行われたという。こうして17歳という多感な年頃に公爵夫人の座についたジョージアナは、日に日に社交界に欠かせない存在となっていく。

5代目デボンシャー公爵の肖像画。1768年作。
しかし、時代はまだ女性の権利が乏しい18世紀。公爵夫人の役割は何もまして世継ぎを産むこと。キャベンディッシュ家では女性の世継ぎは認めておらず、嫡男を産む必要があった。しかし、ジョージアナが将来の6代公爵ウィリアムを授かることができたのは結婚してから悠に16年という月日が経過してからであったから、この間のジョージアナの心的ストレス、デボンシャー公爵(William Cavendish, 5th Duke of Devonshire 1748― 1811)の落胆ぶりがどれだけ深いものであったかは想像に難くない。政治活動にいそしみ、パーティーやギャンブルに明け暮れる妻などもってのほかだったわけだ。そして、この「不妊」を引き金に、夫婦間を縺れに縺れさせる出来事が次々と起きていく――。
まず、二人の性格は絶望的に相容れないものであった。ジョージアナが開放的で感情豊かなのに対し、デボンシャー公爵はとにかく冷静で感情を表現しないタイプ。挙式後はじめて二人きりとなり、ロンドンからチャツワース・ハウスへ向かう道中、ジョージアナは馬車の外に広がる風景の美しさを共有しようと何度も話しかけるが、公爵は無関心で、三日という長旅の間、会話らしい会話は皆無。蜜月というのにジョージアナが公の場で親密に接しようとすると腕を振り払って避けるほどであったという。生まれつきのエンターテイナーである妻と、それに全く関心を見せないか嫌悪感すら示す冷淡な夫。さらに当時の貴族階級の男性には日常茶飯事な不倫沙汰も追い討ちをかけ、ジョージアナの心は荒んでいく。社交界で注目を浴びること、新聞に書き立てられることは彼女にとっては喜ばしい刺激で、愛情に飢えた心を満たすために不可欠だったともいえるのだ。
*公爵は五爵位の仲でも最高位で、後に侯爵Marquess、伯爵Earl、子爵Viscount、男爵Baronと続く。

親友との三角関係

ベスことエリザベス・フォスターの肖像画。ジョシュア・レイノルズ作。
数度の流産を経験し、結婚生活から八年が経過してもなお、ジョージアナは子供に恵まれずにいた。温泉保養地として知られ、代々の王妃が不妊治療に訪れたことでも知られるバースでの静養中、ジョージアナは、自分とは対照的に健気で可憐、かつ独特の色っぽさを備えたエリザベス・フォスター(Lady Elizabeth Foster 1759―1824、以下ベス)と出会い、意気投合する。ベスは旧姓をエリザベス・ハーヴィーといい、ハーヴィー卿の令嬢であるが、望まない結婚の末に夫と別居し、ひとり身でいた。別居の原因は夫の浮気とも彼女の不倫ともいわれているが、夫が二人の息子の親権を奪い、ベスには一切会わせず生活費も渡さないという有様で、父親から最小限の援助を得て細々と暮らしていた。彼女の将来には暗雲が立ち込め、より豊かな暮らしができるなら妾になることも厭わないといった状態であった。
この藁にもすがる気持ちがジョージアナへの手厚い配慮やいたわりとなったともいわれているが、ベスのひたむきな姿勢と哀れな境遇はジョージアナにとっては衝撃的で、深い同情はやがて強い友情へと変わっていった。しかし、ジョージアナがどこへ行くにもベスを同伴し、デボンシャー公爵を含めた三人での行動が頻繁になると、公爵は従順で気のまわるベスに次第に心を惹かれ、ジョージアナの自信を脅かすようになる。それは夫への嫉妬もさることながら、「心の友」であるベスを失う不安でもあった。この頃にはベスは、キャベンディッシュ家から相当の金銭的な援助を受け、デボンシャー・ハウスおよびチャツワース・ハウスの住人となっていたため、ジョージアナの母や知人たちの中には、ベスの献身さの裏には下心があると忠告する人も少なくなかった。

館内に飾られたジョージアナの肖像画。1784年トマス・ゲインズボロー作。ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵だったが盗難に遭い、しばらく行方不明になっていたもの。その後、無事発見され、10年ほど前に11代目公爵がオークションで競り落としたという曰く付きの絵画。彼女の伝記の表紙にもなった有名な作品。
ようやく授かった子も娘だとわかると、公爵は一層ジョージアナに辛くあたった。ジョージアナはたびたび鬱に陥り、よりギャンブルにのめりこむ。だが、自分に何が求められているかを十二分に心得ていたベスは、ジョージアナに忠誠を尽くし、また、公爵にとっても痒いところに手の届く存在となっていく。こうしてベスは、夫婦が互いに相手に求めながらも得られないものを補う重要な役回りを果たし、いつしか三人が揃ってはじめて音を奏でる「トライアングル」が形づくられていた。
そして、ジョージアナが二人目の子を身ごもった1784年、ほぼ同時期にベスも公爵の子を宿すのである。ベスは自分の背信行為を羞じ、すぐにイタリアに出て、すべてをひた隠しにしようとするが、事実を知ったジョージアナは決してベスを責めることなく、早く英国に戻るようにと繰り返し呼びかけたという。
ジョージアナが翌年産んだのはまたしても娘であった。さらに、彼女がギャンブルでこしらえた借金はキャベンディッシュ家の財産をしても追いつかないほどに膨れ上がっており、公爵の不満は頂点に達する。公爵はもちろん、実家からも度重なる警告を受けていたにもかかわらず、ジョージアナのギャンブル依存には歯止めがきかなくなっていたのだ。そして、公爵に内緒で十万ポンド(現在の600万ポンドに相当)の借金を作っていたことが明るみになると、業を煮やした公爵はついに別居を言い渡す。しかし、この時ジョージアナを影で支えたのがベスであった。ベスは公爵を説得して別居を決定的なものにできる立場にあったが、そうするにはジョージアナから恩恵を受けすぎていた。ジョージアナなくして公爵の庇護を受けられなかったことを、ベスは痛いほどわかっていたからである。
こうして、この「トライアングル」は、本来恋敵であるはずの二人の女性が「共謀」とも呼べる結束のもとに助け合いながら、なんと25年に渡り続いていくのである。

セレブの血

ジョージアナの旧姓が「ジョージアナ・スペンサー」だと聞いてピンときた人には拍手をおくろう。そう、このジョージアナ、故ダイアナ元皇太子妃Lady Diana Frances Spencer=写真上=の6代遡った大伯母にあたるのだ。故ダイアナもまた国民的アイドルであり、チャールズとの愛のない結婚、不倫に悩んだことは周知のとおり。ダイアナはチャールズとカミラと3人仲良く暮らすなどということはなかったものの、このあまりに重なる人生は、血は争えないことを物語っているよう。
そして、ベスの前夫、フォスター家側の曾々々々孫にあたるのが、ロンドン出身で現在アメリカ版『ヴォーグ』の鬼編集長として知られるアナ・ウィンターAnna Wintour=同中=だ。さらに、ベスの祖父の代からエキセントリックな家系と知られるハーヴィー家は、後にブリストル侯爵位を世襲することになるが、富裕な境遇にありながら、6代目は若くして宝石強盗で投獄され、3度の結婚を繰り返し、その放蕩息子の7代目ジョンはドラッグ漬けになり逮捕騒動を起こした上、44歳の若さで亡くなった。
ジョンの異母兄弟であり、6代目の3人目の妻との間に生まれた娘が、ヒルトン姉妹と比較され、「レディ・ハーヴィー・シスターズ」としてロンドン社交界を賑わすヴィクトリア・ハーヴィーVictoria Hervey(姉)=同下=とエリザベス・ハーヴィー(妹)だ。
セレブの血は脈々と受け継がれている…。

アールグレイとの不倫

グレイ伯爵の肖像画。1828年作。
当時の貴族階級において不倫は珍しいことではなく、公然と愛人を作る夫人も少なくなかったが、女性の場合は、嫡男が誰の子か明確になるよう、嫡男の出産までは愛人を作らないというのが慣習であった。結婚生活に不満を抱き、社交界のエリートたちと噂も絶えなかったジョージアナだが、息子が産まれる前に愛人がいたという形跡はどこを探しても見当たらない。一方、嫡子の心配もなく、事実上独身であったベスは、デボンシャー公爵だけに限らず、リッチモンド公爵やドーセット公爵など数々の男性と浮名を流していた。
1790年に待望の息子ウィリアムを産むと、16年の重圧から開放されたジョージアナは愛に目覚める。ホイッグ党に入党するやいなや、党のリーダー格として頭角を現していたチャールズ・グレイがその相手である。後に首相となり、紅茶好きとして知られ、「アールグレイ」の語源にもなった第2代グレイ伯爵(Charles Grey, 2nd Earl Grey1764―1845)だ。

「デボンシャー、あるいは最も定評ある票集めの方法 "THE DEVONSHIRE, or Most Approved Method of Securing Votes", by Thomas Rowlandson, 1784」と題された風刺画。ジョージアナが選挙活動でホイッグ党に投票した人にもれなくキスを振る舞ったという噂が流れ、それを揶揄したもの。
党の有力支持者および広告塔として、選挙活動にも積極的に参加していたジョージアナは、この七歳年下の才気あふれる青年に心を奪われ、またグレイも、社交界の華に情熱的かつ一途に求愛する。こうして二年後にはジョージアナはグレイの子供を身ごもってしまう。
公爵は怒り心頭に発し、ジョージアナがこれまで公爵の庶子を自分の娘として育て、ベスをはじめ数々の妾の存在に目をつむってきたことはすべて度外視された。ジョージアナは二人の娘と一歳にも満たない息子から引き離され、グレイと別れなければ子供たちには一生会わせない、とフランスに追いやられる。
ジョージアナの波乱に満ちた人生を語るとき、デボンシャー公爵は世継ぎのことしか頭になく、冷淡で利己的な人物と捉えられることが多いが、当時の貴族制度において彼の態度はきわめて妥当なものであったといえる。というのも時代は、アメリカ独立戦争、フランス革命が続き、貴族制度を揺るがすものであったからだ。貴族制度を守り、一族の繁栄を守り抜くためには世継ぎの存在は必須で、かつ政治に肩入れし、資金援助することで貴族の存在意義を示すことは重要なことだったのだ。一説によると、グレイとジョージアナの浮気をそそのかしたのも公爵自身だったと言われている。彼はジョージアナが公爵夫人の座を捨てるはずのないことを見抜いた上で、グレイの弱みを握り、グレイを手懐けようとしていたともいわれる。
最愛のグレイを失うのは身を切る思いであったが、子供に会えない苦痛は耐えがたく、ジョージアナはついにグレイに別れを告げる。それでも公爵の怒りはすぐには納まらず、彼女を許し、呼び戻すまでには二年以上の月日を要したという。

エリザの肖像画
「これまでの人生で最も辛い一年を過ごしています」――。ジョージアナは外国から子供たちにあてた手紙でそう語った。この孤独で葛藤に満ちた旅に同行し、出産に立ち会ったのが他でもないベスであった。ベスは公爵に引き止められながらも、ジョージアナを支えられるのは自分しかいないと押し切った。ここでもベスは窮地のジョージアナを救ったのである。
生まれた子はエリザ(Eliza Courtney 1792―1859)と名づけられ、グレイの両親に預けられた。ジョージアナは度々訪れては贈り物を届けていたが、彼女の出生の秘密はジョージアナが他界するまで保たれたという。エリザはその後結婚し、長女をジョージアナと名づけている。

「グレート・ダイニング・ルーム」。ここで行われた最初の晩餐は13歳のヴィクトリア王女(後のヴィクトリア女王)のために催された。今でも特別な祝い事の際には公爵夫妻が主催して晩餐会が行われる。

ローマ皇帝シーザーの成功の物語を描いた絵画が壁・天井に広がるペインティッド・ホール。館内見学はここからスタートする。

後妻、憧れの公爵夫人に

ジョージアナと長女ジョージアナの肖像画。1786年、ジョシュア・レイノルズ作。ジョージアナは、当時の貴族夫人には非常に珍しく、乳母に預けず自分の母乳で育てた。両親の愛情をたっぷり受けた彼女は、結婚の年に生まれた公爵の妾の子さえ自分の娘として引き取るなど、愛情深い人柄だったことがうかがえる。
40に差し掛かるあたりから、ジョージアナは体調を崩し始め、社交界からも身をひそめるようになった。ギャンブルからはすでに手を引いていたが、取り立て屋には常に追い立てられていた。血栓症を患い、右目の視力を失い、偏頭痛に悩まされる毎日。さらに腎臓結石や肝膿瘍にも苦しめられていく。
こうして1806年3月30日、ジョージアナは公爵、ベス、姉のハリエット、娘のジョージアナに見守られ、息を引き取った。享年48。デボンシャー・ハウスのあるピカデリーにはジョージアナの死を悼むロンドン市民が何千人とつめかけたという。この時、長女ジョージアナ23歳、次女ハリエット21歳、長男ウィリアムは16歳に達していた。そして、ベスと公爵の間に生まれた庶子キャロラインとクリフォードは、やはり出生の秘密を誰にも明かされることなく、ベスの養子としてデボンシャー・ハウスで育てられ、それぞれ21歳と18歳になっていた。
妹たちや子供たちがベスの存在を疎ましく思っていたことを知っていたジョージアナは、自分の死後にベスの立場が危うくならないよう、「私の手紙と文書の管理はすべてベスに任せます」と書き残していた。あたかも公爵夫人であるかのような振る舞いをし始めるベスと、ベスの退去を望む子供たちの間には火花が散るようになる。そんな中、公爵がベスと再婚、ジョージアナの死から3年を経て、ベスは公爵夫人となった。
しかし、彼女が夢焦がれていた公爵夫人としての生活も二年と続かなかった。1811年にデボンシャー公爵が亡くなったからである。公爵夫人にはなったものの、ジョージアナの存在感には到底かなわないことは誰もが認めるところだった。こうして強力な後ろ盾を失うとベスの味方はほぼ皆無となった。ベスは、公爵が邸宅の一つを自分に譲ると書き残したと言い張り、ウィリアムに財産分与を要求し、自分とその子供たちの地位を守ろうとする。ウィリアムが難色を示すと、ベスはこれまで二十数年間守り通してきたキャロラインとクリフォードの出生の秘密を明かし、彼らが公爵の子息子女であり、自分が母親であると暴露することで権利を主張した。衝撃の事実を知ったウィリアムは、6,000ポンドを贈与することでベスを納得させ、キャベンディッシュ家から身を引いてもらうよう取り計らう。

ジョージアナが身につけていた懐中時計。
これがベスの公爵夫人としての末路であった。彼女の恵まれない境遇は、富や階級への執着心を増幅させ、周囲を邪推させるほどの厚顔さを見せることも少なくなかった。しかし、ジョージアナが信じて疑わなかったように、彼女のジョージアナや公爵への敬愛は徹頭徹尾、純粋なものであったと信じたい。
ベスはその後ローマに渡り、1824年の3月30日、つまりジョージアナの命日に64年の生涯を閉じた。首にはジョージアナの巻き毛の入ったロケットを下げ、ベッドの脇にはジョージアナの毛髪で編んだブレスレットが置かれていたという。その後、ウィリアムはクリフォードが男爵位を授かるよう手助けし、この異母兄妹たちは意外にも友好的な関係を続けたと伝えられている。
普通ではない関係なだけにさまざまな憶測を呼んだこの「トライアングル」は、ジョージアナの非凡な寛容さと人を信じる力によって保たれたといってもよい。彼女の貴族として女性として自由を追い求めた姿は破天荒にして扇情的で、当時も今も人々を惹きつけるのだ。

公爵邸の今を訪ねて

写真右:6代目公爵と交友関係にあったイタリア人彫刻家アントニオ・カノバの彫刻群
現在チャツワース・ハウスは、300近い部屋数と約140平方キロメートル(世田谷区の面積の約2.5倍)の敷地をたたえ、「イングランドで最も壮麗なstately home(貴族の大邸宅)」「ピーク・ディストリクトの宮殿」と謳われている。この3月に1400万ポンドをかけた修復・改装工事がほぼ完了し、未公開のコレクションも新たに展示されたというので、取材班は早速、新生チャツワースに車を走らせた。
屋敷にはいまだに足場を組んだ部分があったものの、建物の壮大さといい、一面に広がる庭のスケールといい、すべてに圧倒される。
チャツワース・ハウスの起源はエリザベス朝時代にさかのぼり、「ハードウィックのベス」こと、当時、イングランドでエリザベス女王に次いで富裕とされたシュルーズベリー伯爵夫人エリザベスが、2度目の夫ウィリアム・キャべンディッシュ廷臣と屋敷を建てたことに始まる。彼らの次男が初代デボンシャー伯爵となり、4代目デボンシャー伯爵が公爵に昇格してから、現在の12代公爵まで約460年にも渡り、貴族の邸宅がここに座し続けているわけだ。
現在見られる規模に拡張されたのは、6代目、つまりジョージアナの嫡男ウィリアムの時代。彼は初代公爵の邸宅を解体してしまおうとも考えたが、先祖に敬意を払い、これを手付かずに残したまま増築を行った。初代公爵の邸宅は、チャツワース・ハウスの中でも400年の歴史を持つ最も古い部分である。
母親の残した莫大な借金の支払いに追われたウィリアムは、ロンドンにある邸宅やイングランドやアイルランドに所有していた土地を売って資金をつくり、それを元手にチャツワース・ハウスの大改築を行った。社交界の華であり、卓越したセンスを備えていた母の血なのか、彼もまた審美眼に秀で、芸術品、蔵書などの蒐集癖があり、そこここで集めた家具や絵画、彫刻などを新居にしつらえた。幅が120メートルにも及ぶ図書室には、3万冊もの古書が収められ、彼の本への情熱の深さを物語っている。また、晩年イタリアに移住していた継母ベスの影響を受け、イタリア製大理石やイタリア彫刻などにも傾倒しており、彫刻室に並ぶ彫刻群をはじめ、部屋の随所に美しい大理石があしらわれている。
ちなみに6代目ウィリアムは、通称「独身公爵」とも呼ばれ、一生未婚のままでいた。ジョージアナが16年の末にようやくもうけた嫡男が娶らず、世継ぎも持たなかったのはなんとも皮肉であるが、彼は同性愛者であったという説もある。第1回ロンドン万博でクリスタル・パレスを設計したことでも知られる建築家で造園家のジョセフ・パクストンと恋仲になり、彼の才能を見込んで大温室の植物園や岩石庭園、松林をチャツワースの庭に造らせたといわれる。
戦後、邸宅の維持費がかさむと、財産の一部を手放し、邸宅を商業使用化する必要に迫られた。相続税を避けようと生前に息子への財産譲渡を試みていた10代目公爵エドワードがその矢先に他界。700万ポンド(現在の1億7900万ポンドに相当)の相続税を強いられた。その際、国に譲渡し、「ヴィクトリア&アルバート美術館ピーク・ディストリクト館」にする案も浮上したというが、11代目公爵アンドリューは所有していた土地の大半を売却し、邸宅のひとつであったハドウィック・ホールをナショナル・トラストに売るなどして、チャツワース・ハウスをキャべンディッシュ家の館として守り抜いた。
現在のように一般公開されるように至ったのは、1981年のこと。11代目公爵アンドリューも晩年になり、夫人デボラとチャツワース・ハウスの存続のために財団を設置。年間400万ポンドの維持費をかけて運営がなされ、一家は邸宅の一部を賃貸するという形で居住している。
チャツワース・ハウスの豪華さ、壮大さは、王族級であり、この館が王室所有のものではなく、一公爵家のものであることに驚かずにいられない。イングランド中を見渡してみても、これほどの規模を保持する館が公爵家の財産として脈々と世襲されてきた例は他にない。
それはキャべンディッシュ家の繁栄の証であり、一家の存続、屋敷の存続のために思いを傾けてきた、ジョージアナやウィリアムをはじめとする一族の誇りの現れなのである。

夏には子供たちの水遊び場と化すカスケード。17年の歳月をかけて1711年に完成した。

写真左:初代公爵の富の象徴、バッフェ(食器台)。当時貴重で権力の象徴とされた東洋の陶器が飾られている。
写真右:鉱石コレクターでもあったジョージアナが愛したアメジスト

6代目がオークションで購入したオークパネルがしきつめられた「オーク・ルーム」。重厚感にあふれる一室。

6代目の愛する蔵書が集められた図書室。

90メートルまで噴き上げられる噴水。初代公爵の時代に既に英国一の高さの噴水があり、それを6代目が改造させたもの。特別な催事以外の平常時には、高さは45~50メートルほどに抑えられている。

1760年にジョージ2世が息を引き取ったという天蓋付ベッドのある「ステート・ベッドルーム」。深紅色のシルクが美しい。

Travel Information

※2010年5月15日現在

Chatsworth House


Chatsworth, Bakewell
Derbyshire DE45 1PP
TEL: 01246 565300
www.chatsworth.org

アクセス



ロンドンからはM1で北上し、ジャンクション29で降り、 Bakewell方面のA617へ入る。この辺りからChatsworth Houseのサインが出てくるので、それに従い B6012に入る。所要時間およそ3時間。

電車


ロンドンからはSt PancrasからChesterfieldまで30分おきに電車が出ている。所要時間は約2時間。Chesterfieldからはタクシーで約30分。

オープン時間(2010年11月1日~11年2月28日)


*年内は12月23日まで。11月6日から一部閉鎖される。

ステーブル(馬屋)。手前が駐車場になっており、ゲートを抜けるとレストラン、カフェ、ショップがある。
ハウス: 11:00~17:30(16:30入場締切)
ガーデン:11:00(6~10月は10:30~)~18:00(17:00入場締切)
ステーブル(ショップ&レストラン):10:30~17:30
ファームヤード&アドベンチャー・プレイグラウンド:10:30~17:30

入場料1日券


*全てのアトラクションを含む
大人 £15.50(11月6日より£17) / 学生・シニア £12(11月6日より£13.50)
子供 £9.50(11月6日より£10) / ファミリーチケット £46(11月6日より£47)

ハウス&ガーデン


大人 £11.50(11月6日より£12.75)
学生・シニア £9.50(11月6日より£10.75)
子供 £6.25(11月6日より£6.75)
ファミリーチケット £32(11月6日より£36)

ガーデンのみ


大人 £7.50 / 学生・シニア £6
子供 £4.50 / ファミリーチケット £21

ファームヤード&アドベンチャー・プレイグラウンド


大人 £5 / シニア £4
子供 £5.25 / ファミリーチケット £19.50
*来場の24時間前にオンラインで予約すると10%オフになる

駐車場代


1台につき£2
現在公開されているのは、300近い部屋のうちの約25室。3月31日にデボラ11代公爵未亡人が90歳の誕生日を迎えたことを記念する特別展「Celebrating Deborah Devonshire Exhibition」が2010年いっぱいの会期予定で開催されている。
なお、チャツワース・ハウス内には宿泊施設はないものの、敷地内にある狩猟塔やコテージ(敷地内に6軒)には宿泊が可能。4~8人のグループで宿泊可能なところも多いので、家族旅行に便利。

週刊ジャーニー No.626(2010年5月20日)掲載