戦火をくぐりぬけた微笑み



フランス革命時に頭部をもぎとられた小像
 1211年5月6日に最初の敷石が置かれ建設が始まったランス大聖堂は先日800周年を迎えたばかり。取材班が訪れたのも5月上旬で、大聖堂は記念式典の準備のため、入場時間が制限されていた。ゴシック建築の最高峰のひとつといわれるこの聖堂の正式名称は「ランス・ノートルダム大聖堂Cathdrale Notre-Dame de Reims」で、ガイドによっては「ノートルダム大聖堂」とだけ表記されている場合もある。「ノートルダムNotre Dame」は英語では「Our Lady」で聖母マリアを指し、ノートルダムを冠した教会や寺院、聖堂は聖母マリアに捧げられたものとして、世界中のフランス語圏の諸都市に建てられている。日本人にとっては、ノートルダム大聖堂といえばパリの大聖堂を思い浮かべがちだが、実際にはフランスの世界遺産に登録されているものだけでも、ランスを始め、シャルトル、アミアン、ストラスブール、アヴィニヨンなどのノートルダム大聖堂がある。それらのほとんどが12~14世紀にかけて建設されたものだが、他の大聖堂と比較したランス大聖堂の大きな特徴は、小像も含めると2300体以上あるといわれる膨大な数の彫像である。「近代彫刻の父」と崇められるフランスの彫刻家オーギュスト・ロダン(1840~1917年)は、その著書の中でランス大聖堂を「人間の森」と称し、13世紀半ばに作られたそれらの彫刻群を絶賛している。中でも正面入口の左扉の左側に位置する「微笑みの天使the angel of the smile」は、それまでの宗教彫刻では表情がないのが一般的だったのに対し、明らかな笑みを浮かべており、ルネサンスの先駆けともいえる大傑作といわれている。ランスの象徴として慕われ、今では切手にもなるほど有名な像だ。貴族や聖職者などの特権階級が追放され、教会への略奪、破壊が行われたフランス革命時には、ランス大聖堂も標的となり、彫像がことごとく破壊された。今も、教会正面ファサードに連なる天使の小像のほとんどは頭がもぎ取られた無残な状態のままになっており、革命の傷跡を今に伝えている。しかし、革命家も「微笑みの天使」だけは粉砕する気にはなれなかったようで、奇跡的に無傷で残されていたという。1875年に200万フラン(現在の通貨にして約2億円)をかけた大規模なファサードの修復計画が国会で決議され、20世紀に入り、彫像のほとんどが修復されようとしていた頃、新たな悲劇が大聖堂を襲った。第一次世界大戦である。大戦勃発間もない1914年9月4日、ランスはドイツ軍に占領され、14日から20日の1週間で2000もの砲弾を受けたという。そのうち200から300が大聖堂を狙ったもので、19日にはついに砲撃のため大聖堂に火災が発生。木造の屋根部分はすべて焼失し、ばら窓の大半は粉砕、聖堂の主要な骨組部分が壊滅的な被害を負った。この時ばかりは、微笑みの天使にも奇跡は起こらず、上部から焼け落ちた梁によって、無残にも頭部をもぎ落とされてしまう。しかし、この時、勇敢にも戦火の中をくぐりぬけ、粉々に散らばった頭部の破片を拾い集めた若き司祭がいた。彼によって保管された20以上の石の欠片は、10数年後の1926年2月13日に修復を経て永遠の微笑みとして蘇えったように見えた。しかし、そこへ第二次世界大戦が続く。無慈悲なドイツ軍によってランスはまたしても占領され、相次ぐ爆撃、空襲を受けたのだ。一次大戦の経験をふまえた人々はステンドグラスや主要な彫像などを予め外して地下室に保存し、大聖堂の被害を最小限にしようと努めたという。ランスの街は大被害を被ったものの、戦争は連合国軍の勝利に終わった。5月8日は、第二次世界大戦において連合国がドイツを降伏させた記念日、「ヨーロッパ戦勝記念日VE Day = Victory in Europe Day」として知られるが、ドイツ国防軍最高司令部作戦部長が無条件降伏文書に調印したのが他でもないランスであった。ランスには連合国遠征軍総司令部が置かれていたからである。終戦の朗報はランスから世界中へと届けられたのだ。
 

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フランスの核として、またカトリック普及のスタート地点として常に重要な都市であり続けたランス――。ランスなくしてフランスは存在しえなかったといってもいい。この街のシンボルとして、幾たびもの危機を乗り越えてきた大聖堂は、これからも微笑みの天使によって平和へと導かれていくことだろう。


 



ランスの象徴「微笑みの天使」像。修復を終えて永遠の微笑みとして蘇った。