女王への一大プロポーズの地 ケニルワース城を征く
1575年7月9日、初代レスター伯として知られるロバート・ダドリーは、期待と不安の入り混じった緊張感でこの日を迎えていた。彼の所有するケニルワース城に、エリザベス1世を招待する日であったのみならず、女王の夫の座を勝ち得るべく、人生をかけた最後の求愛を行う機会でもあったからだ。女王の歓待のため城を大々的に改築し、贅を尽くした催しを企画し、その結果、自らは破産寸前まで追い込まれていく。今回は、貪欲に頂点を目指した男の精魂が詰まったケニルワース城を征くことにしたい。

●征くシリーズ●取材・執筆・写真/本誌編集部

1575年当時のケニルワース城が再現されたイラスト。外堀の周りをぐるりと人口池が囲んでいる様子が分かる。
ロンドンから車で2時間程、英国ミッドランド地方、コヴェントリーのほど近くに今回取材班が訪れたケニルワース城がある。上の写真から見て取れるように「城」というよりは、廃墟と化した歴史的建造物だ。
ウォーリックシャー・ケニルワースにこの城が建てられたのは、1120年代前半のこと。イングランド王ヘンリー1世(在位 1100―1135年)の寵臣で財務担当を務めたジェフリー・ド・クリントン(Geoffrey de Clinton 不明―1134年)が、王の命を受け要塞として築いたことに始まる。当時、ヘンリー1世が不信感を抱いていた臣下、2代目ウォーリック伯ロジャー・ド・ビーモントを牽制するため、彼の要塞であったウォーリック城からわずか2マイルほどの距離に建てたという。
中世を通じ、王室の所有であった時代が長く続いたケニルワース城。英国内の城では最大規模とされた人工池(現在は草地となっている)にぐるりと囲まれており、ヘンリー8世(Henry VIII 1491―1547年〈在位 1509―47年〉)をして、「行く末を見守り続けたいイングランドの古城のひとつ」と言わしめるほど、美しさをたたえた城だったようだ。
現在の姿に変わり果てたのは、17世紀におきたイングランド内戦、いわゆる清教徒革命時のこと。1649年、王党派のシェルターとして使われていたが、議会派勢力に利用されるのを防ぐ自己防衛手段として、王党派自ら城を破壊するに至ったのだ。
そのわずか70年程前に、ケニルワース城は、城としてのピークを迎えていたといえる。当時の城主であった、ある貴族の男が自らの壮大な目的を達成すべく、城をより大規模に、壮麗に整備したためだ。彼は、城を最も輝かせた立役者であるのみならず、数奇な人生を経ており、廃墟となった今日までも、それらが各所に見て取れる。それ故に多くの人々が、この城を訪れているのだろう。そんなある男の人生を追いかけたい。

幼馴染はエリザベス1世

写真左:1564年のロバート・ダドリーの肖像画
写真右:1575年のエリザベス1世の肖像画
その男の名はロバート・ダドリー(1st Earl of Leicester, Robert Dudley,1532年6月24日―1588年9月4日、後にレスター伯を名乗り、初代レスター伯となる。以下、ダドリー)。
ダドリーがケニルワース城の城主となったのは、1563年、31歳の時だった。ダドリーは以降、城の改築に桁外れの財と並々ならぬ情熱を注いでいく。城を整備し、自分色に染めていくことは、時折この城を訪ねてくる意中の相手を喜ばせ、自分に気持ちを引き寄せるために、もっとも効果的なことであると彼が考えたからであった。
その女性の名は、エリザベス。生涯未婚を通し「処女王」としても知られる、エリザベス1世(Elizabeth I 1533年9月7日―1603年3月24日〈在位1558年―1603年〉)だ。
2人はダドリー8歳、エリザベス7歳の頃に知り合った幼馴染同士だった。幼い頃には気の合う友人として、また、大人になってからは公私ともに信頼し合う相手として、ダドリーとエリザベスは常に傍にいる間柄だったのだ。

スキャンダラスな恋

グレートホール(Great Hall)は、エドワード3世の4男、ジョン・オブ・ゴーント(John of Gaunt)が14世紀後半に晩餐会用のスペースとして建築。大きなアーチ型の窓、巨大なタペストリーなどが、14世紀の貴族の富を象徴していた。
ダドリーの父、初代ノーサンバランド公、ジョン・ダドリーは、ヘンリー8世の長男で年若くして王となったエドワード6世(在位1547―1553年)の後見人として、宮廷で権力を握る人物だった。ノーサンバランド公は、その立場を利用し、病弱だった王亡き後、本来は王位継承順位の低いはずの、レディ・ジェーン・グレイ(Lady Jane Grey 在位1553年7月10日―19日)を強引に即位させていた。ノーサンバランド公の目的は、息子ギルフォードとその妻であったグレイの間にできる子供、つまり自らの孫を次なる王位につけることだった。
ジェーン・グレイよりも王位継承順位の高かったメアリー1世(Mary I 在位1553―58年)とその支持勢力が、ノーサンバランド公に制裁を加えることとなり、1553年7月、ロバート・ダドリーを含む一家全員がロンドン塔に投獄される。
ノーサンバランド公はすぐに処刑され、ジェーン・グレイと夫、ギルフォードも半年後にそれに続く。ダドリーはじめ彼の兄弟たちは、メアリー1世の夫、フェリペ2世の温情もあり、辛くも釈放される。とはいえ、1年以上もの間、劣悪な状況に至らしめられたことは、ダドリーの人生観を大きく揺るがしたことだろう。
そうした中、ダドリーはロンドン塔で、王女だったエリザベスと思いがけない再会を果たす。エリザベスが投獄されたのは、異母姉メアリー1世のカトリック政策への不満により、各地で起きていたプロテスタントによる反乱に加担したという容疑によるものだった。
ダドリーはこの時、エイミー・ロブサートという18歳で結婚した同い歳の妻を持つ身の上であった。しかしながら、この偶然をきっかけに2人の距離は近づいたという。お互いに明日の命をも知れぬ心細い身の上であったことが、2人の絆を深めていったのは、疑うべくもないことだろう。
1558年、メアリー1世の病死後、エリザベスが即位すると、ダドリーは「王室馬寮長 Master of the Horse」という官職を与えられる。常に女王の側で執務をこなし、公務にもつき従うなど宮廷内の要職だ。これは謀反を起こした一族の出身者としては異例の高官位であったため、宮廷内ではエリザベスのダドリーに対する厚遇ぶりが取り沙汰され、2人の関係についての噂がささやかれるようになっていく。
エリザベスはダドリーを「Bonny Sweet Robin(私の素敵なロビン)」、などと呼び、周囲の目もはばからず、ダドリーが自分のお気に入りであることを表さずには居られなかったようだ。2人は毎日のように乗馬や踊りを楽しむなど、多くの時間を共有していた。ダドリーは妻帯者でありながら、そしてエリザベスは国内外の高貴な人物らとの数多くの縁談を抱えながらも、蜜月の時を過ごすようになっていた。
とはいえ、エリザベスは、ダドリーとエイミーの結婚式にも列席しており、このままでは2人が夫婦として結ばれることは難しいであろうことは十分理解していたはずだ。それにも関わらず、「女王は、ダドリーの妻が死ねば、彼と結婚するだろう」などといった危うい会話が宮廷内で口々に交わされ、すでに国内にとどまらず、2人のゴシップはヨーロッパ中へと広まるようになっていく。
国王の父となることを夢見て散っていった父の無念と、ロンドン塔での拘禁生活で味わった屈辱を片時も忘れたことのなかったダドリーは、ゴシップもまんざらでないとばかりに、エリザベスとの日々を過ごしていたのだろうか。誰の目から見ても、ダドリーにとって妻エイミーは「邪魔者」として映っていたと思われる。そんな矢先、事件は起こる。

妻、エイミーの謎の死

妻、エイミーは、ダドリーが宮廷に召し出されて以来、別居しており、その頃は友人貴族の邸宅であったオックスフォードシャーにあるカムナー・プレイスで過ごしていた。そんな中、彼女は階段から転落し、28歳の若さでこの世を去ってしまう。1560年9月の出来事だった。当然ながら、ダドリーは妻殺しの疑惑の人として、さらなる醜聞を抱え込むこととなる。
しかしながら当時の死因審問は、エイミーの死を「事故」と結論づけ、ダドリーは辛くも政治家生命の危機を免れる。死の真相は今もって不明だが、一説には、ダドリーの失脚を望むウィリアム・セシルの陰謀だったとされる。ウィリアム・セシルはエリザベスの側近の1人であり、女王がヨーロッパの有力な王侯貴族と結婚することを最も望み、ダドリーの存在を常に危険視していた人物だ。ただ、エイミーは当時末期の乳ガンを患っていた可能性が高いことが分かっており、背骨にガン細胞が転移し、転落によりもろくなっていた骨が折れ、その衝撃で亡くなったという説が有力だ。
一連の騒動の後、エリザベスは周囲の強い説得もあり、ダドリーを結婚相手として真剣に考えるのを控えるようになったという。この頃、フランス、スペインといった周辺の強国との緊張状態が続いており、女王として理性的な判断を下したのだった。
ダドリーは苦汁を舐めさせられたものの、父が果たせなかった野望を水泡に帰すことなく、エリザベスの寵愛を取り戻すために奔走し始めるのだった。

階段を転げ落ち、息を引き取ったエイミーを描いた肖像画
エリザベス1世のケニルワース城訪問を題材に、スコットランド人作家ウォルター・スコットは、1821年に歴史小説「Kenilworth(邦題:ケニルワースの城)」を発表。
エリザベス、ロバート・ダドリー、そしてエイミー・ロブサートの三角関係をケニルワース城を主な舞台として描いている。
エイミーはエリザベス訪問の1575年まで生きていたということや、エリザベスはダドリーとエイミーの結婚を知らない設定とするなどスコット独自の歴史恋愛小説として、当時の人々の間で人気を博した。

運命の1575年

そんなダドリーにとって絶好の機会となったのは、エリザベスのケニルワース城への訪問だった。初代レスター伯を名乗るようになっていたダドリーは、1563年、エリザベスに封じられ、ケニルワース城の主となっていた。エリザベスは1566、68、72、75年と計4度も、ダドリーに会うため城を訪れている。彼女にとっても、ダドリーは常に気になる存在であったということが分かる。そんなエリザベスをなんとか口説き落とすべく、自身の知性、財力、そして何より忠誠心を存分に披露しようとダドリーは奮闘するのだった。
その集大成は、エリザベスにとって4度目となる訪問の時だった。ダドリーはそれまでにも、エリザベスの訪問を通じ「求愛」してきたのだが、いずれもエリザベスは煮えきらずにいた。このことからダドリーは、4度目の正直とばかりに、並々ならぬ気合を入れ、1575年7月9日をむかえる。
まず、エリザベスとその大家臣団を収容できる規模の宿泊施設を4年の歳月をかけて建設した。そして、乗馬好きの女王のため、コヴェントリー方面への散策の出入りに便利なようにゲートハウスも新設。さらには、女王のみが愛でることのできる専用の庭園を敷設した。
こうした中、エリザベスは31人の直臣、400人もの召使いを引き連れやってくる。2人は、毎日のように乗馬や狩猟に明け暮れた。ある晩には人口池の上に花火が打ち上げられ、また別の晩には、「レスター劇団」ともいうべく、ダドリーが雇った役者らによるギリシャ神話の海の神「トリトン」をテーマにした古典劇の上演が行われた。
贅を尽くした晩餐会は連日連夜行なわれ、エリザベスの滞在は、計19日間に及んだ。彼女は治世下、他の臣下の城も様々訪れているが、これほどまで長く留まったのは、この時が最初で最後だったとされている。ダドリーの演出が見事に功を奏し、エリザベスを去りがたくさせたに違いない。

〈上から時計回りに〉●当時、女王と一部側近のみが出入りを許されたエリザベス庭園 (Elizabethan Garden)だったが、好奇心に駆られたダドリーの家臣の1人が、ひそかに庭園に入りその様子を詳細に記録に留める。残された彼のメモを元に、イングリッシュ・ヘリテージが当時の庭園の様子を再現し、2005年より一般公開されている。●ダドリーの寝室としても使われたステート・アパートメント(The State Apartment)。もっとも損壊が激しい建物の一つでもある。●エリザベスとその家臣団の宿泊用として利用されたレスターズ・ビルディング(Leicester's Building)。

ダドリー、無念の最期

この時ダドリー43歳、エリザベス、42歳。ダドリーは、一連の準備と趣向をこらした毎夜の宴のためにほぼ全財産を使い果たしてしまっていた。エリザベスの寵愛とその先にある権力を手に入れるためにすべてをかけたのだった。
しかしながら、エリザベスは、そんなダドリーについに微笑むことはなかった。
今日、エリザベスが生涯未婚を貫いたことに関して、為政者としての信念的要因と、女性としての身体的なものが主な理由として語られている。エリザベスは絶対君主制を死ぬまで貫きたいと考え、他国の君主と結婚すれば、当時ヨーロッパの弱小国であったイングランドが政治的に飲み込まれる可能性が大いに考えられた。さらに国内の有力者に関しても、幼い頃から謀略の中で生き抜いてきたエリザベスにとって、真に心の許せる相手を見つけるのは難しく、政治をコントロールされかねない不安が付きまとっていた。国内外の他の求婚者らと同様、ダドリーもその例外とはみなされず、振られてしまったと考えられそうだ。
そして身体的要因としてあげられるのは、エリザベスが実は不妊体質で、それを彼女自身が知っていたためということ。嫡子を生むことが出来ないのなら、結婚する意味をなさないということだ。
それから3年経ち、エリザベスとの結婚は絶望的と見たダドリーは、エリザベスの母アン・ブーリンの姉メアリー・ブーリンの孫にあたるレティス・ノリーズと再婚する。これまでもダドリーの恋人らにエリザベスは激しく嫉妬していたといわれるが、この再婚に関しては特に激怒し、ダドリーの宮廷への出入りをしばらく禁止し、生涯レティスを憎み続けたという。
エリザベスからの寵愛はすっかり過去のものとなっていた1588年、スペイン無敵艦隊との「アルマダの海戦」を終え、イングランドが勝利に沸き立つ中、ダドリーはひっそりと最期を向かえる。55歳だった。

エリザベスの秘めたる想い

ケントにあるペンズハースト・プレイス(Penshurst Place)で踊るダドリーとエリザベス。2人の親密ぶりがよく現れている一枚。
ケニルワース城は、エリザベスのために、ダドリーが政治家人生のすべてをかけた求婚の舞台であり、失恋そして再婚による政治的失脚という苦汁も味わった場所でもある。現在のケニルワース城には、女王訪問の華麗な様子を忍ばせるものはなく、退廃したその姿からはダドリーの無念さが漂ってくるようだ。
1603年、エリザベスの死後、彼女のベッド脇の引き出しにはダドリーがしたためたエリザベスへの最後の「ラブレター」が大切にしまわれているのが発見された。君主という立場からダドリーとの結婚に踏み切れなかったエリザベスであったが、幼い頃から自分を理解し、支えてくれたダドリーは、死の間際まで彼女にとって大切な「恋人」だったのだろう。
エリザベスと乗馬を楽しみ、ダンス、あるいは機知に富む会話に興じたダドリー。彼の在りし日を思い浮かべながら、見学してはいかがだろう。

Travel Information

※2010年11月16日現在

Kenilworth Castle


Kenilworth Castle & Elizabethan Garden
Kenilworth, Warwickshire, CV8 1NE
Tel: 01926-852-078
www.english-heritage.org.uk/kenilworth

アクセス



ロンドンからはM40を北上。ジャンクション15で、A46をCoventry方面へ北上。A452が出てきたら左に入り、ケニルワース市内を通過。標識が出てくるので、それに従いB4103に入る。所要時間およそ2時間。

電車・バス


ロンドンなら、ユーストン駅よりヴァージン・トレインに乗り、約1時間後、コヴェントリー駅で下車。駅から徒歩5分のバス停からWarwick / Stratford 方面行きのコーチ(X17)に乗り、約20分後、Kenilworth Sports & Social Clubで下車し、徒歩15分程。

オープン時間(2010年11月1日~11年2月28日)


10:00~16:00
*Leicester's Gatehouseは、結婚式などで貸し切りになる場合、早めに閉館されるので、ウェブサイトで出発前にご確認を。
*12月24~26日、1月1日は閉館。

入場料1日券


大人£7.60/子供£3.80
Concessions £6.50/ファミリーチケット£19.00

ティールーム(Stable内)


10:30~15:30
*11月から3月の営業は、金、土、日曜のみ。

駐車場代


1台につき£2まで

〈写真左〉ダドリー家の記章「The Bear and Ragged Staff(鎖でつながれた熊)」が、庭園のオーナメント、タペストリーの刺繍、暖炉脇の彫刻等、城のいたるところに装飾として施されている。
〈同中央〉ティールームとギフトショップとして利用されているステーブル(Stable)。
〈同右〉ウォーリックで採掘される赤みを帯びた「新赤色砂岩 new red sandstone」が城全体に用いられている。

週刊ジャーニー No.652(2010年11月18日)掲載