野田秀樹新作舞台 NODA•MAP「正三角関係」世界配信決定
野田秀樹新作舞台 NODA•MAP「正三角関係」世界配信決定

Liverpool2015年に設置されて以来、人気の撮影スポットとなっているビートルズの銅像(埠頭「ピア・ヘッド」にて)。
■「音楽史上最も成功したバンド」「20世紀を代表するアーティスト」として今でも根強い人気を誇るビートルズ。バンドの歴史は彼らの故郷であるリヴァプールと密接に関わっている。産業革命時代に奴隷貿易の中心となり、造船業でも栄えた港町リヴァプール。この街でいかにビートルズが形成されたのか、その背景を探りつつ、彼らの足取りを追う。

●征くシリーズ●取材・執筆・写真/名取由恵・本誌編集部

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リヴァプールがつないだ縁 ビートルズ誕生前夜に迫る

2016年9月にロン・ハワード監督のドキュメンタリー映画『ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK』が公開され、2017年5月にはロック史上最も重要な作品のひとつといわれるアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の発売50周年記念エディションがリリースされるなど、解散した今でも話題を集めるビートルズ。「ファブ・フォー」(Fabulous Fourの略=素晴らしい4人の意)と呼ばれ愛されている彼らがイングランド北西部のリヴァプール出身であるのは誰もが知っていることだろう。

北西部といえば、「労働者階級中心のエリアであり、南部と比べて貧しく天気も悪いが、人々は冗談好きで人情深い」というイメージを抱く人も少なくない。ビートルズが誕生したのは、そんな典型的な北西部の港町、リヴァプールだった。メンバーはリヴァプールで生まれ、リヴァプールで少年時代を過ごし、リヴァプールで出会いバンドを結成している。

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ジョンとポールの出会い

ジョン・レノンが生まれたのは1940年10月19日。父親のアルフレッドはアイルランド系英国人で、商船の乗組員だったために不在が多く、度々連絡が途絶える有り様だった。母親のジュリアに新しい恋人と子供ができたため、ジョンはジュリアの姉ミミと夫のジョージ夫妻に育てられる(下記5参照)。複雑な少年時代だったが、母子関係は悪くなく、バンジョーの弾き方をジョンに教えたり、最初のギターをジョンに買ったりしたのはジュリアだったという。

1957年3月、リヴァプール南東部アラートンにあるグラマースクール、クオリー・バンク・ハイスクールに通っていた当時16歳のジョンは、同級生と共にバンド「クオリーメン」を結成する。バンド名は学校にちなんで名づけられた。同年7月6日、リヴァプール南部のウールトンにあるセント・ピーターズ教会で行われたコンサートで、ジョンは共通の友人を通じてポール・マッカートニーと出会う。このときポールは15歳。この出会いが後の音楽史に多大な影響を及ぼすことになるとは、誰も想像しなかっただろう。

数日後にジョンがポールをバンドに誘うことになる。1958年2月、今度はポールの紹介により、ジョージ・ハリスンがクオリーメンのオーディションを受けた。ジョージのギターの腕を買って、ジョンは即座にジョージのメンバー入りを決定した。

ポール・マッカートニーは、ジョンが生まれた1年8ヵ月後の1942年6月18日に、アイルランド系の両親のもとで産声を上げる。父親のジムは綿花のセールスマン兼ジャズ・ミュージシャン、母親のメアリーは看護師・助産師。ポールには1歳年下の弟マイクがいる。子供たちのためにより良い環境の地域に住みたいというメアリーの考えにより、一家は頻繁に引っ越しをするが、1955年にアラートンにある家(下記6参照)に落ち着く。

一方ジョージ・ハリスンは、父ハロルドと母ルイーズの間に4人兄弟の末っ子として1943年2月25日に誕生。音楽好きの母親の影響もあって、早くからロックンロールに入れ込み、ギターの練習ばかりする子供だった。ポールと同じリヴァプール・インスティテュート・ハイスクールに通っており、通学途中のバスのなかで出会って意気投合していた。

若くして自作の曲を書いていたポールとジョンは、ソングライティングという共通点を通じて親交を深め、すぐに親友同士になったようだ。さらに、2人はお互い早くに母親を失っていた。ポールは14歳のとき、母親を乳がんで亡くしている。また、ジョンが17歳のときに自宅前で母親ジュリアが交通事故で死亡。ジュリアの衝撃的な死はジョンに大きな影響を与え、先に母親を亡くしていたポールとの友情がさらに強まることになったという。

「ビートルズ」命名

ビートルズが定期的にライヴを行ったキャヴァーン・クラブ。この店でエプスタインがビートルズに出会い、彼らが世界へと羽ばたいていった。

1959年になるとメンバーが次々に脱退し、クオリーメンはジョン、ポール、ジョージの3人になってしまう。ここで新たにビートルズ人脈に登場するのが、スチュアート・サトクリフだ。スチュアートは、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートに進学していたジョンの友人で、1960年1月、ベーシストとして参加した。ジョンとスチュアートのアイディアにより、バンド名を「シルヴァー・ビートルズ」に変更。バディ・ホリー率いる米ロック・バンド、ザ・クリケッツ(コオロギの意)にちなんで、昆虫繋がりで名づけられたとされる。その年の8月、再度バンド名を変更し、遂に「ザ・ビートルズ」という名前になる。カブトムシ(beetle)と音楽のビート(beat)をかけて、「Beatles」とつづったのは有名な話だ。

着実にバンド活動を進めていくビートルズだったが、ドラマーだけがなかなか決まらなかった。そんなとき、西ドイツのハンブルクのクラブで演奏する機会に恵まれる。ハンブルクに行くためにはドラマーが必要ということで、メンバーが目を付けたのはピート・ベストだ。彼らが度々ライヴ演奏していた地元リヴァプールのクラブ「カスバ・コーヒー・クラブ」(下記9参照)のオーナーの息子であり、すでにドラマーとしてバンド活動をしていたため、急きょビートルズに参加。こうして、5人組となったビートルズは1960年8月にハンブルクに向かい、およそ3ヵ月半の間、連夜のごとく怒涛のライヴを行うことになる。ハンブルクでは、クラブで共演したリンゴ・スターとも親しくなる。ピートがステージを休んだ際には、リンゴが代役としてドラムを叩くこともあったという。

リンゴ・スターは1940年7月7日生まれ。ビートルズ内で一番年上だ。リヴァプールのなかでも貧しいとされるディングル地区の出身で、3歳のとき両親が離婚、バーメイドの母親に女手ひとつで育てられた。子供のときは腹膜炎や結核で入退院を繰り返し、入院中に院内バンドに誘われたのをきっかけにドラムの練習を開始。ビートルズと出会ったとき、すでにロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズというバンドのドラマーとして活動していた。

ハンブルク時代のビートルズはライヴを数多くこなすことで腕を磨き、バンドとしてどんどん力を付けていった。2度目のハンブルク巡業が終わったとき、スチュアートはドイツでアートの勉強をするためにバンドを脱退。ビートルズは4人組になった。

リヴァプールから世界へ

米国にも進出して、ビートルマニアと呼ばれる熱狂的なファンがバンドを追いかけるようになった=ケネディー空港に降り立ち、ファンに手を振るメンバー(1964年)。

舞台は再びハンブルクからリヴァプールへと移る。1960年代初めのリヴァプールの音楽シーンはどのような状況だったのだろうか。

港町リヴァプールでは、海外から多くの労働者が入ってくるために、さまざまな音楽を楽しめるパブやレコード店があった。そのため若者たちは米国のロックンロール、R&B、ブルースなど最新の音楽にいち早く触れることができた。1950年代に人気を集めたスキッフルに代わる音楽スタイルを探していた彼らは、独自にロックンロールを解釈した音楽を演奏、それが「マージー・ビート」「ビート・ミュージック、ブリティッシュビート」と呼ばれるようになり、新しいムーヴメントを作り上げるようになった。そんななか、ビートルズ人気もじわじわと高まり、ブレイクするのも時間の問題だった。

1961年11月、リヴァプールのクラブ「キャヴァーン・クラブ」(下記3参照)のランチタイム・セッションに出演していたビートルズのライヴを一人の男が見ていた。その男の名前はブライアン・エプスタイン。即座にビートルズを気に入ったエプスタインは、バンドのマネージャーに名乗り出て、5年間の契約を結ぶ。エプスタインは英国でのレコード契約を獲得するために奔走し、1962年6月、ビートルズは遂にレコード契約を果たした。

ロンドンのアビーロード・スタジオにてレコーディングは始まったものの、プロデューサーがピート・ベストの代わりにセッション・ドラマーを使うことをアドバイスしたことでピートの解雇が決定。代わりにリンゴ・スターが加入した。こうして1962年10月5日、満を持してデビュー曲の「ラヴ・ミー・ドゥ」が発表された。以降、押しも押されぬ人気バンドになることはみなの知るところだろう。1970年の解散までの間に、12枚のオリジナル・アルバムを残し、「音楽史上最も成功したバンド」「20世紀を代表するアーティスト」として現在も高い人気を誇っている。

この街を流れるマージー河は、リヴァプール湾を通じて大海へと流れ出る。かつては、ここからさまざまな物品を乗せた船が大西洋を目指し、新大陸への拠点として多くの移民が出発していった。そんな街で生まれ育った4人の若者が、音楽と共にリヴァプールから世界へと羽ばたいていったのは必然だったのかもしれない。悠然と流れるマージー河を眺めていると、そんな気がしてくるのだった。

ビートルズのリヴァプール人脈① ブライアン・エプスタイン

ビートルズ成功の功労者として真っ先に挙げられるのが、バンドのマネージャーを務めたブライアン・エプスタインだ。リヴァプールのユダヤ系一家に生まれた彼は、家業の家具店の一角で、レコード店「NEMS(North End Music Stores)」を経営。音楽紙『マージー・ビート』にコラムの連載もしていた。キャヴァーン・クラブでビートルズのライヴを観て、マネージャー業を買ってでた当時の彼は27歳。すでにビジネスマンとして成功しており、自家用車を乗り回す大人の男性だった。まだ10代でデビュー前のメンバーにとって、彼の存在がどんなに心強く頼りに思えたことだろうか。
エプスタインはバンドのイメージ・チェンジにも乗り出す。当初は革ジャケットにジーンズ、タバコを吸いながら楽器を演奏するという、いかにもロックンロールな風貌だったビートルズだが、エプスタインはメンバーにスーツとネクタイを着用させ、ステージ上の喫煙を禁止、演奏後はお辞儀するなど、一般にも受け入れられるような戦略を徹底させた。このように、初期ビートルズのイメージは、ブライアン・エプスタインに負うところが大きい。エプスタインは同性愛者であり、密かにジョン・レノンに惹かれていたという説もあるが、マネージメントについては公平を貫いていたという。1967年8月27日に睡眠薬の過剰摂取で死亡。32歳という若さだった。金銭を含むビートルズのすべてを管理していたエプスタインがいなくなったことで、メンバー間に対立が生じるようになり、ビートルズの解散の引き金になったともいわれている。

ビートルズ関連10の見所

1 歴史からレアグッズまで! The Beatles Story

【写真左上】貴重な記念品や当時のグッズも数多く展示。メンバーの顔を柄としてあしらったストッキングやビートルズ風に変身できるカツラを発見!【写真左下】関連グッズの品ぞろいの豊富さではここのお土産ショップが一番。
ビートルズ関連のエキシビションとしては世界最大規模を誇り、ビートルズをあまり知らない初心者からコアなファンまで誰もが楽しめるビートルズ博物館。グループ結成から解散、ソロ活動まで、ビートルズの歴史を丁寧にたどる。オーディオガイドに日本語があるのもうれしい。なお、本館から徒歩10分の埠頭「ピア・ヘッド」に位置する別館では、1960年代に米国に進出した英バンドの歴史を紹介する企画展「ブリティッシュ・インヴェイジョン」が催されている。
The Beatles Story
Britannia Vaults, Albert Dock, Liverpool L3 4AD
4月~10月:午前9時~午後7時、 11月~3月:午前10時~午後6時
入場料:15.95ポンド(5~15歳9.50ポンド)
www.beatlesstory.com

2 内装もBGMもすべてビートルズ Hard Days Night Hotel

【写真上】ホテル内のレストラン「ブレイクス」は、アルバム『サージェント・ペパーズ』のジャケットを手がけた芸術家ピーター・ブレイクによるアートワークが壁一面にあり、メニューにはメンバーの名前や曲名を冠したカクテルが並ぶ。【写真左下】楽曲『Let it be』(そのままにの意)を引用した、「起こさないで」のドアノブ用タグ。細部までビートルズにこだわった演出!
2012年にオープンした4つ星ホテル。重要建築物として保護指定(グレードⅡ)された1884年築の建物がかつてのリヴァプールの栄華を感じさせる。ホテル名をビートルズ主演映画『ハード・デイズ・ナイト』から取っている通り、全館にわたりビートルズ尽くし。まずは外壁の四隅にあるメンバー4人の像が宿泊客をお出迎え。ロビーにはビートルズの音楽が流れ、100室ある客室には1室毎に異なるアートワークが飾られる。バンドの歴史を写真でたどることができるらせん階段も必見!
Hard Days Night Hotel
Central Buildings, North John Street,Liverpool L2 6RR
Tel: 0151 668 0472
www.harddaysnighthotel.com

3 ライヴ292回の聖地 The Cavern Club

オリジナルのキャヴァーン・クラブからレンガを運び、ステージやバーを忠実に復元。穴倉のような室内は当時の雰囲気そのまま!
ビートルズの聖地といえば、このキャヴァーン・クラブだ。1957年、マシュー・ストリート(地図④参照)にあったウェアハウスの地下にジャズクラブとしてオープン。60年代はリヴァプールのロックンロール・シーンの中心地として人気を集めた。ビートルズは1961年2月に初めて出演し、1963年8月まで合計292回のライヴを行った。1973年に閉店したものの、1984年に別の場所で再オープン。現在も現役ライヴハウスとして地元バンドが出演する。1999年12月にはポール・マッカートニーも里帰りライヴを行っている。
The Cavern Club
10 Mathew St, Liverpool L2 6RE
日~水:午前10時~午前0時/木:午前10時~午前1時30分/金・土:午前10時~午前2時
入場料:~6ポンド/※曜日、時間帯により異なる/詳細はウェブサイトにて
www.cavernclub.org

4 歩くだけでテンションあがる! Mathew Street
結成当初のビートルズが頻繁にライヴを行ったキャヴァーン・クラブがあるマシュー・ストリート周辺は、ビートルズ関連の名所が多く、キャヴァーン・クォーターとも呼ばれる。キャヴァーンのほかにも、

マシュー・ストリートにあるパブ「グレイプス」は、出演前のビートルズがビールを飲みにやってきた場所。メンバーがたむろしていた一角の椅子と壁紙は当時のままに残されている。記念撮影にぴったり。
ジョン・レノンの銅像、ビートルズ・ショップ、1970年代後半に人気を集めたライヴハウス「エリックス」、キャヴァーン・クラブに出演したバンドの名前を記した壁「ウォール・オブ・フェイム」があり、ライヴ演奏が行われるパブやバーも数多い。

5,6 ジョンとポールのルーツに迫る Beatles Childhood Homes

ジョン・レノンとポール・マッカートニー、それぞれが少年時代に暮らした家。ナショナル・トラスト管理のもと、実際に家のなかに入り、じっくりと見学することができるツアーが開催されている。「メンディップス」と呼ばれるジョン・レノンの家(251 Menlove Avenue)=地図⑤=は、伯母のミミ夫妻の家。ジョンは5歳のときに引き取られ、22歳までこの家に住んだ。2002年に妻のオノ・ヨーコさんが買い取り、ナショナル・トラストに寄贈された。ミミ伯母によりきれいに整頓された当時の様子を再現している。一方、ポールの家(20 Forthlin Road)=写真、地図⑥=は、1995年からナショナル・トラストが所有。ポールの母親はポールが14歳のときに亡くなっており、いかにも男所帯な雰囲気の家だ。この家でジョンとポールがギターの練習をしたり、ビートルズの曲を作曲したりしたかと思うと感無量。
National Trust Beatles' Childhood Homes Tour
集合場所:Jurys Inn Hotel, Liverpool L3 4FN(午前10時、11時、午後2時15分出発)
Speke Hall, Liverpool L24 1XD (午後3時15分出発)
Tel: 0844 800 4791
ツアー参加費:23ポンド(子供7.25ポンド)
www.nationaltrust.org.uk/beatles-childhood-homes ※1ツアー15人限定(要予約)。所要時間は2時間半。

7 名曲の舞台 Penny Lane

若き日のジョンとポールが街の中心部に出るバスに乗るため、待ち合わせしていた通り「ペニー・レーン」。名曲『ペニー・レーン』に登場するラウンドアバウト、床屋、消防署、フィッシュ&チップス店を今でも見ることができる。

8 幼きジョンの遊び場 Strawberry Field

『ストロベリー・フィールズ』で歌われている孤児院。現在は使用されていないが、門はそのまま残っている。ジョンが子供の頃に遊んだ場所として知られる。なお、今後ここにビートルズ関連ミュージアムがオープンする計画もあるという。

9 ビートルズ誕生の地 Casbah Coffee Club

見学ツアーのガイド役は、モナの息子であり、ピート・ベストの弟であるローグ・ベスト氏。初期ビートルズの秘密のエピソードを教えてくれる。右下の写真は、ジョンが彫った落書き。
ビートルズ生誕の地といえば、キャヴァーン・クラブを思い出すが、実はキャヴァーン以上に「生誕の地」に相応しい場所がある。それがライヴハウス「カスバ・コーヒー・クラブ」。北部のウェスト・デルビーで、ピート・ベストの母親であるモナ・ベストが1959年に自宅の地下にオープン。ビートルズの前身であるクオリーメンの3人、ジョン、ポール、ジョージは、モナに頼まれて壁のペイントも手伝っている。1959年8月29日、クラブのオープニングナイトで、クオリーメンがバンドとしての初ライヴを敢行。以降クオリーメンとして7回、ビートルズとして37回この地でパフォーマンスを披露している。クラブはマージー・ビートのバンドたちのたまり場となり、1962年に閉店するまで音楽シーンにおいて中心的役割を果たした。1960年代そのままに残されている場内を見学するツアーが開催されている。
Casbah Coffee Club
8 Haymans Green, West Derby Village, Liverpool L12 7JG
Tel: 07872 017 473
午前10時~午後5時
ツアー参加費:15ポンド(10歳~16歳7.50ポンド)
www.petebest.com/casbah-coffee-club
リヴァプール中心部からタクシーで約15分。ツアーはウェブサイト、もしくは電話で予約可能。

10 英国の音楽史に触れる British Music Experience

ビートルズはもちろん、デヴィッド・ボウイやクイーン、スパイス・ガールズやコールド・プレイ、アデルまで、人気の英スターたちを紹介。
2017年3月に登場した音楽博物館。1945年から現在までの英音楽史をジャンルごとにたどる。ギターやドラムを実際に触って演奏できるスタジオや、異なるスタイルのダンス音楽に合わせて踊るブース、さまざまなグループのライヴをバーチャル体験できるスペースもあり。同館の向かいに設置されたビートルズの銅像=トップ写真=は、人気の記念撮影スポット!
British Music Experience
Cunard Building, Liverpool L3 1DS
Tel: 0344 335 0655
午前9時~午後7時(木曜は、午後9時まで)
入場料:16ポンド(5~15歳11ポンド)
www.britishmusicexperience.com

2時間で効率よく回る名物ツアー The Magical Mystery Tour

リヴァプールにあるビートルズの観光名所をまとめて訪れるツアー。1967年にBBC1で放送された、ビートルズ制作・主演のテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』から名前を拝借し、ツアーで使用されるバスも映画同様のデザインになっている。ツアー行程は右の通り。

アルバート・ドックにあるマジカル・ミステリー・ツアー・チケット・オフィス前からスタート=Ⓐ
リンゴ・スターが子供時代を過ごした家
ジョージ・ハリスンの生家※
ペニー・レーン※=⑦
セント・ピーターズ教会 ウールトンにあるセント・ピーターズ教会は、ジョンとポールが初めて出会った場所
ストロベリー・フィールド※=⑧
ジョン・レノンが少年時代を過ごした家=⑤
ポール・マッカートニーが少年時代を過ごした家※=⑥
メンバーが通った学校やアートカレッジ
キャヴァーン・クラブ=③=でツアー終了


※は、バスから降りて記念撮影できるスポット。その他は、車内からの見学となる。取材班もツアーに参加してみたが、参加者は米国、欧州、香港など世界各国からで、改めてビートルズ人気の根強さを感じる。知識豊富なツアーガイドの説明も面白く、合間にはビートルズのヒット曲が流れ、盛り上げてくれる。2時間で効率よく回るこのツアーは、観光客にはとても便利。

Magical Mystery Tour Ticket Office
Anchor Courtyard, Albert Dock, Liverpool L3 4AS/Tel: 0151 703 9100/午前9時30分~午後4時30分の間で定期的に催行される。/17.95ポンド
www.cavernclub.org/the-magical-mystery-tour

ビートルズのリヴァプール人脈② モナ・ベスト

ビートルズ成功の表の功労者がエプスタイン(ビートルズのリヴァプール人脈①参照)なら、影の功労者はカスバ・コーヒー・クラブのオーナー、モナ・ベストだろう。
インドのデリーで生まれた彼女は、リヴァプールの名士でインドに駐屯中だったジョニー・ベストと結婚し、1945年にリヴァプールにやってくる。モナはエプソン競馬で大穴を当て、配当金で15の寝室と1エーカーの敷地があるウェスト・デルビーの邸宅=写真=を購入し、家の地下にライヴハウスをオープン。息子のピートや友人たちにロックを聴かせることができるクラブをつくりたいと思ったのがきっかけだった。
結成初期のビートルズの活動はカスバ・コーヒー・クラブ及びモナ・ベストと深く関わっていた。彼らの才能を見出したモナは、マネージャー業も行い、メンバーが困ったときは、金を貸したり、食事を与えたりと、母親代わりでもあった。しかし、エプスタインがマネージャーになった後は、彼のやり方に何かと干渉し、徐々に煙たがられるようなったといわれる。カスバ・コーヒー・クラブにこれまであまり光が当たらなかったのは、ピートがバンドをクビになったことと相まって、ビートルズに裏切られたと感じて、ベスト家が長い間沈黙を守っていたからだという。
モナの逸話をもうひとつ。1961年、ビートルズ・メンバーの友人であるニール・アスピノールがモナの家に下宿をしていた際、ふたりは深い関係になり、その結果、モナは17歳年下の19歳の若者、しかも息子の友人の子供を身ごもり出産した。これは当時、どのようなスキャンダルだったのか想像もつかない。ニールはビートルズのロード・マネージャー兼パーソナル・アシスタントになり、その後はビートルズが設立した会社「アップル・コア」の代表を務めた。ちなみに、ビートルズの主要スタッフは、ほとんどリヴァプール時代からの友人や知り合いばかり。成功した後でも、メンバーは故郷への繋がりと安らぎを求めていたのかもしれない。

Travel Information

【街の概要】イングランド北西部に位置するリヴァプールは人口がおよそ46万6000人(2011年の国勢調査)で、英国第6位の都市。
リヴァプールが急成長を遂げたのは17世紀から19世紀のこと。米国、西インド諸島との貿易が盛んとなり、1715年に英国初のドック(船の建造・修理などを行う施設)が建設されると、欧州、西アフリカ、西インド諸島・北米を結ぶ大西洋三角貿易(奴隷貿易)の拠点となった。この奴隷貿易で得た富が、英国の産業革命を金銭面から支え、1830年にはマンチェスターとリヴァプールの間に世界初の鉄道が開通。リヴァプールは大英帝国絶頂期の海洋交易の拠点、英国有数の工業都市として栄えた。しかし2度の大戦、恐慌を経て、造船業が後退し英国が景気低迷すると、リヴァプールも衰退をたどった。
現在は、ウォーターフロントの再開発が行われ、街を整備して観光に力を入れている。2004年には「海商都市リヴァプール」として、ユネスコの世界遺産にも選ばれている。ビートルズ関連以外の観光スポットとしては、アルバート・ドックにあるマージーサイド・マリタイム・ミュージアム、テート・リヴァプール、英国国教会の寺院としてはヨーロッパ最大規模のリヴァプール大聖堂(地図Ⓑ)、サッカーのリヴァプールFCの本拠地アンフィールド・スタジアム(地図Ⓒ)などがある。

【アクセス】
車:ロンドンからM40でバーミンガムまで行きM6に入って北上。ウォリントン近くでM62に入り、西へしばらく行くとリヴァプール に到着。220マイル。約4時間。
電車:ロンドン・ユーストン駅から約3時間。
コーチ:ヴィクトリア・コーチ・ステーションから6~7時間。
Special thanks to: Marketing Liverpool &Ginette Goulston-Lincoln (情報:2017年10月17日現在)




週刊ジャーニー No.1007(2017年10月19日)掲載