パブリック・アートの巨匠 ヘンリー・ムーア 彫刻庭園を征く
ヨークシャーの小さな炭鉱の町に生まれ、モダニズム彫刻の先端をゆく芸術家として世界に名を轟かせたヘンリー・ムーア。ハートフォードシャーの小さな町には、彼が40年以上にわたって暮らした邸宅が今も残り、彫刻作品が点在する庭園とともに訪れる者を魅了している。今回は、この野外ミュージアム「ヘンリー・ムーア、スタジオズ&ガーデンズ」を征くことにしたい。

●征くシリーズ●取材・執筆・写真/本誌編集部

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英彫刻家ヘンリー・ムーア(1898~1986)の名を知らなくとも、ビッグベンのたもとやキングズ・クロス駅、ハイド・パークなどにある巨大で抽象的な作品を目にしている人も多いのではないだろうか。英国内のみならず、日本の「箱根 彫刻の森美術館」でまとまったコレクションが見られるのを筆頭に、ムーア作品は米国、メキシコ、ドイツ、サウジアラビアなど世界36ヵ国の公共スペースで人々の日常に彩りを添えている。
今回取材班が訪れた野外ミュージアム「ヘンリー・ムーア、スタジオズ&ガーデンズ」は、ムーアの世界観をもっとも感じられる場所だ。ロンドン中心部から車で約1時間半。公共の交通機関を利用する場合は、リヴァプール・ストリート駅から最寄りのビショップズ・ストートフォード駅まで40分電車に揺られ、そこからさらにタクシーで15分。英国らしい田園風景と小さな集落とを交互にやり過ごしてたどり着く先は、豪華な門構えもなければミュージアムの看板もごく控えめ。巨匠が暮らした家と構えて訪れると拍子抜けするほど静かで平凡な場所にある。
庭園へと足を踏み入れる前に、まずは彼の生涯を簡単に紹介したい。
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11歳で決意「僕は彫刻家になる」

ヴィクトリア朝時代がまもなく終わりを迎えようとしていた1898年、ヘンリー・ムーアはイングランド北部ヨークシャーの炭鉱夫の家庭に7番目の子として誕生した。
独学で音楽と文学を嗜んだ父は、子供達に苦労はさせまいと、惜しみない教育の機会を与えた。そのおかげでムーアはアートに関心を抱き、11歳を迎えた頃、イタリア・ルネサンス期の彫刻家ミケランジェロの作品に心を揺さぶられ、彫刻家になることを夢見るようになる。
息子の将来をサポートするかに見えた父だったが、いざ17歳を迎えて一歩を踏み出そうとすると大反対。鉱山で顔をすすだらけにして毎日汗を流す父にとって、彫刻は労働とは認められなかったのだ。ムーアはあえなく教師の道へと進むことになる。
「僕はいったい何をしているんだ…」
自分が求めることをできないもどかしさがすぐにムーアの中に渦巻き始める。のちに彼はこの時期を振り返り、「人生でもっとも惨めな時代だった」と語っているが、そんな日々に意外な形で終止符がうたれる。
時は第一次世界大戦の真っ只中。いつ招集されるかわからない徴兵の知らせを待つよりはと、自ら志願して従軍。しかし、戦地フランスで毒ガス攻撃を受けて負傷し、本国に送還され、療養の日々が続いた。やがて怪我から回復して再び第一線に戻ったときには停戦が宣言され、ヨークシャーに帰還することとなる。
戦場で人々の苦しみ、命のはかなさを肌で感じた2年間の戦争体験により、アーティストとしての表現欲が抑えられなくなっていったことは想像に難くない。親の敷いたレールと決別して自分の人生を歩む決意をし、ムーアは退役軍人に与えられる補助金を手にして晴れてリーズ・スクール・オブ・アート(現リーズ・アーツ・ユニバーシティ)の学生となった。

エキシビジョン開催中 ムーアの若き日々に迫る!

Henry Moore c.1929-30 with Reclining Figure 1929 (LH 59) and Mask 1930 (LH 77)
photo: c Henry Moore Archive, courtesy of Leeds Museums and Galleries
いかにしてムーアが自分のスタイルを磨いてきたか。「ヘンリー・ムーア、スタジオズ&ガーデンズ」では現在、セカンダリー・スクールの教師として作品を手掛けた1914年から、ロンドンでアーティストとして注目を集めるようになる1930年代までの作品を紹介するエキシビションが開催中。ヨークシャー時代からムーアと親交が深く、ともにモダニズムを追求した彫刻家バーバラ・ヘップワースのほか、ムーアが影響を受け、彼と同様にプリミティブ・アート(原始美術)にインスピレーションを得たスペインの画家ピカソ、イタリアの画家モディリアーニの作品が展示されている。なかには紀元前2000年頃に現在のギリシャで作られた彫刻もあり、ムーアの創造性の源に触れることができる。
またムーアは子供の頃、リウマチを患う母親の背中に薬を塗っていたとされ、小さな手で母の背中を上へ下へとなでるようにして薬を塗り広げる体験は、ムーアが初めて「形」というものを意識する「彫刻体験」になったという興味深いエピソードも紹介されている。「Becoming Henry Moore」10月22日まで。

博物館のコレクションに目が釘付け

愛らしい表情を見せる作品「Woman」。
ムーアの刺激に満ちた日々がようやく始まった。
2年間のドローイング・コースを1年で修了。ほかの学生らとアートについて熱い議論を繰り広げるうち、彼の意欲と才能は徐々に周囲の認めるところとなり、スクールにはそれまでになかった彫刻科がムーアのために新設された。そしてリーズ・スクール・オブ・アートを卒業後、奨学金を得てロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートへの進学を決めた。
イングランド北部の田舎町から首都ロンドンに出てきた青年にとって、大英博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館、ナショナル・ギャラリーはまさに夢のような場所だった。読みたいと思えばどんな資料でも手に届くところにあり、あらゆる彫刻について調べることもできる。これまで学校で教えられてきた西洋芸術はもちろん、アッシリア、アステカ王国の生命力に満ちた古代彫刻、キクラデス文明(エーゲ文明)のなかで育まれたシンプルな彫像がすぐ目の前にあるのだ。人類の創造の歴史が凝縮した空間に足しげく通い、スケッチし、感じたこと、学んだことの詳細を書きつづった。このひとつひとつがムーアの感性を養い、のちの制作活動に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもない。
20代半ばになる頃には自らの能力に対する自信も着実に積み重ねていたようだ。ある日、ヴィクトリア&アルバート博物館のコレクションの中から作品をひとつ選び、それを模作するという課題を与えられる。実習のテーマとして、模作を正確に行うための機械「ポインティング・マシーン」を使うことも条件に挙げられた。
ところが、手で彫ることの重要性を実感していた当時のムーアは、教官の指示を無視。大胆にも大理石を直彫りして見事な模作を完成させてしまう。そして仕上げに、ポインティング・マシーンを使ったときに作品に残る「小さな点」を『証拠』として意図的に施し、課題を難なくクリアしたのだった。
自信と要領の良よさ、そして独自のスタイルを磨き続けてきた芸術家の卵は、3年間の彫刻コースを修了後、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート、チェルシー・スクール・オブ・アート(現チェルシー・カレッジ・オブ・アーツ)で教鞭をとるかたわら、積極的にグループ展に参加。評論家やキュレーター、周囲のアーティストから一目置かれる存在へと成長していく。

国民に捧げる「希望」のアート

30歳を迎えた1928年。当時セント・ジェームズ・パーク駅の上に建設中だった、ロンドン地下鉄本部ビルの外壁を飾るレリーフ制作を依頼される。公的機関から請け負う初めての仕事だ。横3メートル、高さ1メートルに及ぶ大きな像は、自分にとって過去最大。「イメージした形を正確に仕上げるには、どうすべきか」。実験的な試みではあったが、このプロジェクトに制作意欲が一層掻き立てられるとともに、一般市民の目に触れる場所に作品を設置することに喜びを感じた。以来、ムーアの作品は、公共スペース向けに巨大化していく。
国内外で個展が開催され、現代美術の博覧会に英国を代表する作家として招かれるようになり、確固たる地位を築こうとしていた頃、ムーアは美術学生だったイリーナと出会い、結婚する。幸せな家庭と教師としての安定した収入に後押しされ、芸術家としての活動をさらに加速させていく。
長らく子供に恵まれなかった夫妻だったが、結婚から17年後の1946年、50歳を迎えていたムーアはようやく娘を授かる。2年前に母親を亡くしていたムーアは母の名をとり、娘を「メアリー」と名づけた。大切な人の死と新たな命の誕生により、作品のテーマに「家族」が加わるようになったことは自然の流れだった。
第二次世界大戦が終わり、疲弊しきった英国では社会福祉の重要性が叫ばれ、パブリック・アートの需要が高まりを見せる。「人間愛」を感じさせる彼の作品は希望のシンボルとなり、ムーアは時代の寵児として、各地のパブリック・スペースに作品を遺していった。

1970年代にスタジオで撮影されたムーア。どんな人でも受け入れる気さくな性格だったとされるが、感情を表に出すことは少なく、その分、自分の思いを制作にぶつけていったという。
c Allan Warren

羊たちが集う儀式の場

40年以上を暮らした邸宅。52歳の頃、勲爵士(ナイト)の栄誉を与えられるが、これを拒否したという話も残るほど謙虚な姿勢で制作を続けたムーアらしく、質素な暮らしぶりを知ることができる。
Henry Moore’s family home, Hoglands.
photo Jonty Wilde. Reproduced by permission of the Henry Moore Foundation

さて、ムーア夫妻がハートフォードシャーのこの静かな町ペリー・グリーンに越してきたのは第二次世界大戦最中の1940年のこと。それまで暮らしていたロンドン・ハムステッドの家がドイツ軍からの空襲に遭い、アトリエ部分が損壊してしまう。偶然友人の家に出かけていたことから難を逃れた夫妻は、戦争が終わるまでの仮住まいにとペリー・グリーンで見つけた農家を借りることにしたのだった。
自分の作品が自然風景の中に展示されることを好んだムーアは、翌年、その農家を購入。さらに周囲の土地と建物を買い進めると、アトリエを拡大させて制作環境を整えていった。そして1986年に88歳で亡くなるまでこの地に暮らし、世界各地で人々に親しまれる『遺産』を数多く送り出すこととなる。
70エイカー(サッカー場およそ26個分)の敷地は現在、後進の育成のためムーアが生前に設立したチャリティー団体「ヘンリー・ムーア財団」によって管理されている。春から秋にかけ、ムーア夫妻とひとり娘メアリーが暮らした家、アトリエのほか、およそ20作品が展示される彫刻庭園が一般公開されている。
今年4月に新しくなってオープンしたビジター・センターで入場券を購入して庭園へ抜けると、鮮やかな緑色の芝生の上に置かれた作品が次々に目に飛び込んでくる。自然の中に溶け込んだ作品群は、どれもブロンズ製ながら、黄金に輝くものがあれば何百年もの歳月を得た銅像のような緑青色を帯びたものもある。また個々の作品も光の当たり方によって異なる表情を見せてくれる。作品の周りをぐるりとまわってあらゆる角度から眺めたり、彫刻に触れたり、あるいは耳をあててみたりと、大空の下で思う存分ムーア作品に触れ合える空間だ。
展示は、さらに奥の牧草地にまでおよび、運がよければ近隣で飼育される羊たちが彫刻のそばで草をはむ姿を見ることができるだろう。取材班がビジター・センターから歩いて15分ほどの場所にある作品「Large Upright Internal / External Form」にたどり着いたとき、ちょうど10?20頭の羊たちが彫刻を囲んでいた。黒々と輝く無機質な像と、その足元で黙々と食事を摂る彼らの姿は、まるで何かの厳かな儀式を行っているかのように思えるほど、幻想的に見えた。

「Sheep Field」と名付けられた牧草地に設置された「Large Upright Internal / External Form」。作品は屋外展示のため、過去には盗難事件も発生している。

イルカの骨と流木 アフリカのお面

ところで、ムーア作品を鑑賞し、「人の形を模しているようだけどいびつ」「大きな物体にぽっかり開いた穴は何?」など、彼の創造性に疑問を抱いたことがある人もいるのではないだろうか。
その謎に迫ることができる場所が彼が暮らした邸宅だ。30分おきに開催されるツアーでのみ入場が許され、キッチン、リビング・ルーム、書斎などが公開されている。数々のパブリック・アートを手がけて、晩年には英国一の高額納税者のひとりとして名を連ねたとされるムーアだが、決して豪遊するではなく、質素に暮らしたそのままの様子が再現されている。
なかでもリビング・ルームは必見。彼が影響を受けた品々が、ダイニング・テーブルやサイドボードなどに所狭しとディスプレイされている。コーヒー・テーブルとは名ばかりで、コーヒーを置く隙間もないほどぎっしり! 流木や石、貝殻、イルカの骨に至るまで、大小さまざまな自然のオブジェがあったかと思えば、壁にはルノアールの絵画、アフリカのお面が掲げられ、そのダイナミックさには他のツアー参加者からの感嘆の声が聞こえてきた。
ガイド・スタッフの話によれば、これらは見学者用にディスプレイされたのではなく、なんと生前も同じような状態だったとのこと。ムーアは自然界の中で見つけた「美」に囲まれて過ごし、それらに着想を得て作品に落とし込んでいったという。
ちなみにガイド・ツアーでは、代理人を介さずに自ら商談を行ったというビジネスセンスの良さも紹介され、見どころも満載。訪れたらぜひとも立ち寄っていただきたい。

ムーアが残した遺産

大きな作品を作る際に用いた雛形を作るためのスタジオ。
Henry Moore’s Bourne Maquette Studio
photo Jonty Wilde. Reproduced by permission of the Henry Moore Foundation.

邸宅や庭園のほかにも、大型の作品を作る際に用いた雛形(maquette=フランス語で模型の意)を制作するための小屋や、制作方法を紹介する展示室、特別エキシビション会場などが設けられている。部屋中に広がるおびただしい数の雛形や石膏彫刻を見ていると、ムーアの彫刻に対する異常ともいえる情愛がひしひしと伝わってくる。
ムーアの生活や制作工程に触れた後は、再び庭園の作品を鑑賞してみてほしい。また違った角度から作品が見えてくるはずだ。
すべてをさらっと見て回るには2時間あれば十分だが、取材班は自然の中をゆっくり歩いて作品を鑑賞すると、ランチも合わせて5時間があっという間に過ぎていった。そして野外ミュージアムを後にしようとしたとき、地面に転がるなめらかな形の石が目に入り、その石でさえもひとつのテーマを持ったアートに感じられるようになっていた。ムーアの世界にすっかり入り込んだせいに違いないが、その瞬間、「改めて自然界に美を見い出す」この視点もムーアが私たちに残した『遺産』なのではないか――と、そんな考えが頭をよぎった。
これからの季節、庭園散策と彫刻鑑賞に出かけてみてはいかがだろうか。

Travel Information

※2017年9月18日現在

Henry Moore Studios & Gardens
Dane Tree House, Perry Green, Herts SG10 6EE
www.henry-moore.org

開園日時

水~日曜、祝日:午前11時~午後5時(月、火曜は休み)
2017年10月22日まで(毎年イースターから10月まで開園する)

入場料

大人:12.60ポンド
学生・18歳未満:6.30ポンド

邸宅ツアー

午前11時30分~午後3時30分の間で30分毎に開催。
当日券のみ(先着順)。1人4.50ポンド

アクセス

【車】
ロンドンからはM11を北上し、ジャンクション7か8で下りて20分。カーナビ(Sat Nav)ではポストコードSG10 6EEで検索。所要1時間半ほど。
【電車】
Liverpool Street駅から電車に乗り、Bishop's Stortford駅下車。駅からはタクシーでおよそ15分。


ムーアをもっと知る!関連スポット

Henry Moore Institute
1977年にムーアが設立し、今年で40年を迎える「ヘンリー・ムーア財団」は、イングランド北部の町リーズにある彫刻ギャラリー「Henry Moore Institute」も運営中。ムーアにとどまらない現代アーティストの作品を展示している。現在は、日本人前衛美術家・高松次郎氏のエキシビション「Jiro Takamatsu: The Temperature of Sculpture」を開催中(2017年10月22日まで)。 Henry Moore Institute, 74 The Headrow, Leeds LS1 3AH
www.henry-moore.org

Yorkshire Sculpture Park
ムーアの生まれ故郷ウェスト・ヨークシャーにある公園。ムーアをはじめ、現代彫刻家による彫刻およびインスタレーションおよそ80作品が点在する。現在、中国人現代アーティスト、アイ・ウェイウェイによる「十二支の頭像」も展示されている(2018年4月22日まで)。
Yorkshire Sculpture Park, West Bretton, Wake?eld WF4 4LG
www.ysp.org.uk

週刊ジャーニー No.1002(2017年9月21日)掲載