笑うために闘ったチャーリー

第二次世界大戦後、1947年に『殺人狂時代(Monsieur Verdoux)』を製作した頃から、チャップリンに対する米国での風当たりがさらに厳しくなっていく。反戦色の強い作品や、左寄りの発言は、東側に対する冷戦が始まった米国では「容共的」として非難されることもあり、マッカーシズムと呼ばれる米国での赤狩りが吹き荒れた50年代には、上院政府活動委員会常設調査小委員会から、何度となく召還命令を受けている。
1952年、チャップリンは『ライムライト(Limelight)』のプレミア公演のため、ロンドンに出航するが、その直後に米政府から事実上の国外追放処分が出され、米国の地に戻ることは許されなかった。こうして、チャップリンは、40年間にわたって活動を続けた米国、そしてハリウッドと決別することになる。
チャップリンの右腕として活躍していた高野虎市は、それに先立つこと18年前の1934年に秘書役を辞任している。当時は恋人で、後にチャップリンの3番目の妻となる女優のポーレット・ゴダードと衝突したのが原因とされている。その後、高野はチャップリンから莫大な退職金とユナイテッド・アーティスツ日本支店の職を与えられるが、日本の暮らしに馴染まなかった高野は再び米国に戻り、第二次世界大戦中には、スパイ容疑でFBIに逮捕され、開戦後に強制収容所に送られた。息子のスペンサーは、父親の立場が良くなるようにと、志願兵となり日本軍と戦ったという。高野は戦後も事業に失敗するなど苦労をしたようだが、晩年は故郷の広島で静かに過ごし、86歳で逝去した。18年間を共に過ごしたチャップリンと高野が会うことは、二度となかった。

72歳の誕生日を迎えたチャップリン=1961年撮影。© Comet Photo AG (Zürich)
スイスに住み始めたチャップリンは、映画出演こそ少なくなったものの、世界各地で名士としての尊敬を受ける。また、50年近くを経て改めて、過去の作品が評価され、70年代初めには世界的にチャップリン・ブームが起こった。
1972年、米国映画界が事実上の謝罪を意味するアカデミー賞特別名誉賞をチャップリンに与えたことで、チャップリンは20年ぶりに米国の地を踏むことができた。授賞式の会場では招待客全員がチャップリンの作曲した楽曲「スマイル」を歌って功績を讃えたという。また、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムで長年消去されていたチャップリンの星印もこれを機に復活。さらに、政治的問題や女性問題で叙勲が遅れたものの、1975年には、母国英国のエリザベス女王からナイトの称号を贈られている。  チャップリンは、1977年クリスマスの朝に、スイスのヴェヴェイにある自宅で逝去した。就寝中に息を引き取るという安らかな最期だったという。享年88。
20世紀の怒濤の時代を生きぬき、金持ちや貧乏人、資本主義やプロレタリア、ファシズムなど、世界のすべてを笑い飛ばした喜劇王。世界中の人々から愛される作品を目指すため、誰かに不快感を与えるようなギャグを排除し、自分が納得するまで何度も作品を作り直した完璧主義者。日本を愛し、日本の文化を尊敬した親日家。戦争を憎み、平和を愛した理想高きヒューマニスト。さまざまな顔をもつチャップリンが作り上げた映像とメッセージは、時代を超え、世代を超えて、私たちに強く訴えかけ、今も私たちに愛され続ける。チャップリンはそのユーモアによって、数多くの人々の心を救った。そして、これからも救い続けていくことであろう。

「人生には、死よりも苦しいことがある。それは、生き続けることだ」
―チャーリー・チャップリン

週刊ジャーニー No.957(2016年11月3日) 掲載