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大の親日家

1927年に撮影されたチャップリンと高野虎市(右)=高野の遺族、東嶋トミエ氏所有の写真。
チャップリンと日本の縁は深い。1916年秋、チャップリンは在米日本人の高野虎市を運転手として採用した。それまでのチャップリンは特に親日家だったというわけではなく、高野を選んだのは、単に人種についての偏見がなかったからといわれている。
高野は1885年広島県生まれ、裕福な庄屋の出だったが、15歳のとき親には「留学」と称し、自由を求めて渡米。以来、米国で生活していた。
運転手として働き始めた高野は、車の運転はもちろん、経理、秘書、護衛、看護師などさまざまな仕事をこなし、チャップリンの身の回りのことをすべて任されるようになった。高野は映画にも端役で出演したことがあり、長男にはチャップリンのミドルネームからスペンサーという名前がつけられた。一時はチャップリンの遺書のなかで遺産相続人のひとりに選ばれるほど、絶大なる信頼を得ていたという。高野の誠実な人柄や勤勉な仕事ぶりに感心したチャップリンは、使用人に次々と日本人を雇い、1926年頃には使用人すべてが日本人になっていた。チャップリンの2番目の夫人であるリタ・グレイは「まるで日本のなかで暮らしているよう」と表現していたと伝えられる。

「キムラ」と呼ばれてロンドンでも人気だった、滋賀県産のステッキと同様のデザイン。
当時は年間200万本も輸出されていたという。
1931年初め、チャップリンは突然世界旅行に出発することを決意。高野は1年半にわたり、チャップリンの世界旅行の全行程に同行した。そしてその世界旅行の途中、32年5月にチャップリンは遂に憧れの地、日本の土を踏むことになる。 その後、チャップリンは1936年3月と同年5月、そして戦後の61年6月と生涯で4度来日を果たしている。すっかり親日家となり、歌舞伎や相撲など日本の伝統文化を愛し、西陣織の羽織をガウンとして愛用、天ぷらを好んで食べ、天つゆまで自分で作るほど、日本に惚れ込んでいた。ちなみに、チャップリンが映画のなかで愛用した、かの有名なステッキは、しなりが強いのが特徴の滋賀県産の竹で作られていたもの。竹根鞭細工と呼ばれる木村熊次郎が考案した滋賀の特産品で、明治初期から海外に輸出され、かつてロンドンではステッキを「キムラ」と呼ぶほど好評を博したという。

日本では暗殺の的に

「五・一五事件」といえば、戦前の日本で起きたクーデター事件として、「二・二六事件」と共に歴史の授業でもお馴染みだが、その事件にチャップリンが関与していたという意外な事実がある。
1932(昭和7)年に起きた「五・一五事件」では、大日本帝国海軍の急進派である青年将校たちが首相官邸に乱入、護憲運動を進めた犬飼毅首相を暗殺。この事件により、政党政治は衰退、日本は軍部主導の体制になり、戦争へと向かっていくことになる。この「五・一五事件」が起こった当時、チャップリンは偶然にも日本を訪れていた。しかも、チャップリン自身が暗殺の標的になっていたというから驚きだ。
日本チャップリン協会発起人代表であり、チャップリン研究家の大野裕之氏の著書『チャップリン暗殺 五・一五事件で誰よりも狙われた男』には、当時の情勢とチャップリンの足跡が詳細に述べられている。それによると、事件の首謀者たちは、「外国文化の象徴」であるチャップリンを暗殺することにより、米国をはじめ世界中に衝撃を与え、さらに日米開戦にもちこみ、世界全体を改革することを目指していたという。チャップリンは国際的スターであり、資産家でもあり、世界的に重要な人物だったため、クーデター首謀者にとって、格好の暗殺の標的だったのだ。

ガンディー(前列右から2人目)とチャップリン(同3人目) =1931年9月、ロンドンにて撮影。
世界旅行中、チャップリンは世界の著名人と会談を果たしている。英国では、ウィンストン・チャーチル首相やマハトマ・ガンディー、アインシュタインとも会談し、日本では、犬飼毅首相との面会及び首相官邸での歓迎パーティーが予定されていた。日本の不穏な空気を心配した高野虎市は、世界旅行中に一足早く日本を訪れ、犬飼毅首相の息子である犬飼健首相秘書官に相談。チャップリンと犬飼首相の会談は、チャップリンが親日家であることを強調することで日本の右翼勢力を懐柔し、チャップリンの身の安全を守ろうという高野と犬飼健氏が立てた作戦だったといわれる。
チャップリンはジャワ滞在中に熱病にかかり、日本到着予定が5月16日と遅れたために、一時は暗殺の標的から外されたが、結局船が快調に進み、14日朝に神戸に到着。首相との会談は事件当日の15日夜に首相官邸にて行われることに決定した。見事に首相官邸襲撃のタイミングに重なったことで、再びチャップリンの命は危険に晒されることになる。ところが、日頃から気まぐれなチャップリンが、当日になって突然相撲に行きたいと言い出したことから、首相との会談は延期。チャップリンは辛くも暗殺を逃れたのだった。チャップリンが直感的に危険を察知したかどうかは謎だが、予定どおり会談に出席していれば日本で暗殺されており、その後の日英関係にも大きく影を落としたに違いないと考えるとぞっとする。
また、14日に到着するなり東京に直行したチャップリンはまず二重橋を訪れ、皇居に一礼している。この一礼は当時の新聞に大々的に報道されたが、これも当時の時勢を配慮した高野が仕掛けたことで、チャップリンは後に「高野が『車から降りて皇居を拝んでください』というので、腑に落ちないまま礼をした」と自伝に記している。
事件後もチャップリンは、気丈に日本観光を続け、歌舞伎座と明治座で伝統芸能を鑑賞した。日本橋の「花長」ではエビの天ぷらを36尾も食べたという。5月17日、チャップリンは密かに首相官邸に行き、犬飼健氏と共に弾痕が残る現場を訪れた。また、帰国当日の6月2日にも斎藤実新首相と会見。再び暗殺の現場を訪れ、何度も「恐ろしい」と繰り返していたという。
その4年後の1936年3月、再び日本に訪れたチャップリンだが、同年2月26日には「二・二六事件」(*)が起きている。チャップリンは予定では2月末には日本にいるはずだったが、ハワイ滞在を延長したため、事件には巻き込まれなかった。しかし、この事件では、前回チャップリンを首相官邸に案内した斎藤実が殺されてしまう。 「五・一五事件」、「二・二六事件」という、日本の歴史を変えた事件の両方にチャップリンが関係していたとは、単なる偶然なのか、20世紀という時代が作り出した必然なのか。どちらにしても不思議な縁を感じる。

大野氏が発見した手紙。秘書や知人らがチャップリン訪日の行動計画を立てたことが明らかにされた。
上の記述では、「御到着の日」は「休養」だが、他の箇所で宮城(皇居)に行くよう求めている=高野の遺族、東嶋トミエ氏所有のもの。
前述の大野氏の著書によると、チャップリンは初来日の際に記者会見で、世界情勢に関して質問を矢継ぎ早に受け、「それはわたしの職分ではない。各政治家の職分です」と答えると、ある記者から次のように声があがったという。
「君のユーモアによって、世界を救えばいいじゃないか!」(原文より抜粋)
すると会場内は笑いの渦となり、チャップリン自身も笑っていたという。ユーモアで世界を救う――この言葉が、チャップリンの心に響き、その後の彼を導いていったと思うのは、考え過ぎだろうか。世界旅行中に、ドイツやイタリアなどでファシズムが広がりつつあるのを目の当たりにし、自分が愛する日本でも軍国主義が始まろうとしているのを知ったチャップリン。この時期にチャップリンが世界で見聞したことが、後の彼の作品に多大な影響を与えたことは、間違いないだろう。
*1936年2月26―29日に、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1500名近い兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」をスローガンに起こしたクーデター事件。これにより、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監が暗殺された。