歴史を動かした英国の巨人 ウィンストン・チャーチル《前編》 [Winston Churchill]
暗雲が立ちこめた第二次世界大戦時の英国において、圧倒的リーダーシップで国を率いたウィンストン・チャーチル。
1965年にその戦いの人生に幕をおろし、2015年で没後50年を迎えた。これを記念し、偉大な英国人として称えられるチャーチルの人生を振り返ってみたい。

参考資料:『チャーチル―イギリス現代史を転換させた一人の政治家 増補版』河合秀和・著(中公新書)、『チャーチル』ロバート・ペイン著、佐藤亮一・訳(法政大学出版局)、BBC 『Churchill: When Britain Said No』ほか

●Great Britons●取材・執筆/本誌編集部

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愛情に飢えた幼少期

1965年1月30日、冬の寒さが一層際立った静かな土曜日の朝、英国中が厳粛な雰囲気に包まれていた。英国旗に覆われた棺は、ビッグベンの鐘の音を合図にウェストミンスター寺院から、葬儀が行われるセント・ポール大聖堂へと出発。沿道には英国各地から人々が集まり、幾重にも人垣ができていた。国家行事として行われた葬儀には、エリザベス女王をはじめ112ヵ国の代表者が参列、テレビの画面越しには2500万の英国人が葬儀の様子を見届け、偉大な政治家ウィンストン・チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill)の死を悼んだ。大戦時の暗黒の日々に、ラジオを通して国民に希望を与えた英雄のその声は、はるか彼方に消え去り、代わりに別れを告げる軍楽隊の厳かな葬送の曲がロンドンの空の下に流れていた。

チャーチルが生まれた「ブレナム宮殿」。一家はロンドンに暮らしていたが、幼い頃からチャーチルはたびたびこの地を訪れ、先祖の偉大さを実感しては誇らしい気持ちに浸った。© Ian Petticrew
その年から90年、現在からさかのぼること140年の1874年11月30日、壮麗な邸宅と壮大な庭園を有する「ブレナム宮殿Blenheim Palace」でウィンストン・チャーチルは産声を上げた。「宮殿」の名にふさわしいこの地は、18世紀初頭に勃発したスペイン継承戦争で勝利をおさめた司令官、初代マールバラ公の戦功を称え、アン女王(当時)から贈られたものだ。マールバラ公の血を引くチャーチルが、この邸宅で戦いの連続となる人生をスタートさせたことに、何か予言めいたものを感じる読者もいるのではないだろうか。
第7代マールバラ公の三男で、1874年に24歳の若さで下院に当選していたチャーチルの父ランドルフ(Lord Randolph Churchill)と、その妻で、米国の裕福な投資家の娘ジェニー(Jennie Jerome結婚後はLady Randolph Churchill)は社交に忙しく、育児はもっぱら乳母にゆだねられていた。チャーチルが生まれたヴィクトリア朝時代の上流階級では、親と子供の生活がこうして切り離されているのは珍しいことではない。チャーチルは毎日決まった時間にだけ親と会うことが許されたが、気軽に会話をかわすことはできず、ふたりはいつも遠くに眺める存在だった。
8歳になる年、チャーチルがアスコットの寄宿舎学校に入学すると、両親との距離はますます遠いものとなる。13歳のときにパブリック・スクールの名門で寄宿制のハロー校に入学しても、たびたび両親に宛て、来訪を懇願する手紙を書いている。思春期を迎えていたであろう16歳になっても、親への思慕の念は変わることはなかった。
学校の休暇で自宅に戻っても、両親が社交のために家を留守にしていることも多く、チャーチルが「自分は無視されている…」と感じたのも当然のこと。だからといって、憎しみや恨みといった感情を抱いたわけではない。反対に、遠く離れたその距離が、両親への憧れを一層強くした。特に父ランドルフは、チャーチルが12歳のときにはすでに失脚していたが、蔵相にまで上り詰めた人物で、子供心にも、「父はいずれ首相になる」と信じていた。年を重ねると、父のスピーチや新聞記事をすべて熟読し、諳んじることさえもできたほどである。
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傲慢な落ちこぼれ

「これほどまでに怠けた態度を示すのは深刻な問題です」。
チャーチルがハロー校に在籍していた頃、母ジェニーはそう記された先生からの手紙を受け取ったことがある。チャーチルは学校でも群を抜く落ちこぼれ。自己規律にも欠け、授業に遅れてきたり、本をなくしたり…。天真爛漫といえば少しは聞こえがいいが、一気に勉強したかと思えば、まったく勉強しなくなる、といった気分のムラも見られる問題児だった。

左から6歳年下の弟ジョン、母ジェニー、ウィンストン・チャーチル(1889年撮影)。ジェニーは社交界でもひときわ美しいと評判で、チャーチルは「母は宵の明星のように輝いて見えた」と記している。
勉学の一方で運動はどうかといえば、もともとずんぐりした体型で、スポーツができるようなタイプではなかった。祖父や父が通った、同じパブリック・スクールの名門イートン校ではなくハロー校に入学した理由も、入学前に肺炎を患ったチャーチルの体を気遣い、ウィンザーの沼地にあるイートン校よりも、見晴らしの良い高台にあるハロー校の方が体にいいと考えられたからだった。
チャーチルは、あるとき校友たちからのいじめにあう。ベッドに投げ倒され、窒息しそうになるまでマットレスに押し付けられたあと、今度は熱湯が、そして冷水が降りかかってきた。幸い、先生が現れて事態はおさまったが、チャーチルは真っ赤な顔をしてベッドから立ち上がるなり、生徒らに向かって声を限りに叫んだ。「いつか私は偉い人になり、君らは取るに足らない人間になる。そうしたら君らを踏み潰してやるぞ」。名門貴族出身、蔵相を務めた父を持つという誇りは、時折こうした傲慢ともいえる態度になって現れた。それゆえか友達も少なかった。
そんなチャーチルも、6歳年下の弟ジョンと一緒におもちゃの兵隊で遊ぶことには夢中になった。1500個に及ぶ数の兵隊を集めており、弟には黒人の兵隊を少しだけ貸し、自分の陣営は重砲の兵隊で固めると、黒人の軍勢に小石を投げつけ、水を浴びせるなどして容赦ない攻撃を加えた。激しい戦闘を展開した後、勝利を手にするのは決まって自分が率いる英国軍だった。
それから半世紀を経て第二次世界大戦で自国の勝利のために立ち上がる未来の首相らしいエピソードだが、子供の頃から政治家を目指していたわけではない。14歳のとき、相変わらずおもちゃの兵隊で敵を蹴散らして遊んでいたチャーチルのもとに珍しく父ランドルフがやってきて、得意げに指揮を執る息子にこう言った。
「ウィンストン、お前は軍人になってはどうだ」
尊敬する父のその言葉に目をキラキラ輝かせて、「なりたいです」と答えたチャーチル。父の期待に応えるべく、士官学校へと進学することを決めた。

縮まらない父との距離

1893年、出来の悪いチャーチルは、3度目の受験でようやく陸軍士官学校騎兵科に合格した。「父にほめてもらえる」と、喜び勇んで合格の知らせを父に書き記して送ったが、父が入学を望んでいたのは歩兵科。騎兵科は馬の世話などの費用を負担しなければならず、歩兵科よりも学費が高かったからだ。華やかな血筋にあってお金の心配をするのは意外かもしれないが、代々、浪費傾向のあった一家はチャーチルの祖父が第7代公爵として爵位を継ぐときには落ちぶれていた。時の首相がヴィクトリア女王に「(チャーチル家は)公爵にしては金持ちではない」と語ったほどである。
一家の経済事情に加え、勉強ができない者は騎兵科にまわされるのが慣わしであった点からも、歩兵科に入学することが叶わなかったチャーチルに父は落胆し、「失敗者」と叱責する返事の手紙が届けられた。
初めは失望の色を隠せない父だったが、仕官候補生として歩み始めると、チャーチルを少しずつ同志として扱うようになり、競馬場や劇場などへの同行や上質の葉巻もわずかながら許されるようになった。
しかし父子のつながりを実感できる幸せな時間は長くは続かない。父は梅毒に深く冒され、余命が限られていたのだ。長期療養を兼ねて、両親は世界旅行へと出かけた。旅行に出かけている間にチャーチルは医者を問いつめ、父の命が短いことを知るに至ったものの、知ったところでどうすることもできず、旅から戻ったランドルフは45歳の若さで他界してしまう。少し近づいたと思った父との距離は、永遠に縮まらないものとなったことだけが、現実としてチャーチルに突きつけられた。そして、父の跡を継ぐという使命感と、限りある人生においてより早いうちに事を成さねばならないという焦燥感を抱くようになっていく。

出会って3日で婚約!

父ランドルフと母ジェニー

© cornell.edu c.1921
父ランドルフ=写真=と母ジェニーの出会いは1873年、ワイト島沖で開かれた船上舞踏会でのこと。お互いに一目あったその瞬間に恋に落ち、3日後には婚約した。翌年4月に結婚式を挙げ、11月末に長男チャーチルが生まれた。彼は7ヵ月半の早産とされ、誕生の瞬間から「せっかちなチャーチルらしい」と思わせるが、実際には、早産を心配した記録はなく、性急だったのは両親の方だったようだ。ヴィクトリア朝時代の貞淑の精神を越え、ふたりの愛が燃え上がったことがうかがえる。

戦争を求めて、観戦旅行へ

父が生死の境目をさまよっていた時期、20歳を迎えていたチャーチルは士官学校の卒業試験を終えた。クラスのビリ筆頭候補だった彼の成績は、130人中20番へと上昇。外見もすらりとした、容姿端麗な青年に成長していた。
父が亡くなった翌月、軽騎兵第4連隊に任官した。訓練は厳しかったが、全体的に見ると、豪華な夕食やマッサージがついた安楽な生活で、血気盛んなチャーチルが任官後に物足りなさを感じるようになるまで時間はかからなかった。幼い頃から父に認められることを切望してきたチャーチルにとって、父のように人々から認められること、またそうなるように行動することこそがすべての指針。ところが、英国はしばらく大きな戦争から遠ざかっており、戦争は現実味を帯びたものではないように感じられた。いずれ戦争はなくなるだろう、そうなれば、戦功を立てて栄誉を得ることはできなくなる…。軍務は自分の生涯の仕事ではない、チャーチルの心にそんな思いが芽生えていた。
訓練の合間をぬってむさぼるように本を読むようになったのはこの頃のことだ。尊敬する父の姿を思い描き、政治に目覚めたチャーチルは、最新のニュースから過去の政治討論にも注意深く目を通すようになった。世界情勢をつぶさに観察するなかで、キューバで戦争が起こっていることを知った。血が沸き立つのを感じたチャーチルは、長い休暇が与えられていた仕官の特権を活かし、父のつてをたどって現地へと出かけた。
『あこがれ』の戦場が、20歳の青年の心を刺激するのは容易なことだ。スペイン軍とともに密林を行軍したチャーチルは、ゲリラ襲撃や至近距離での銃撃戦を体験。冒険を求めて、自分の命を危険にさらしたのは軽率だったと思うこともたびたびあったが、こうした経験が戦いに飢えた将校としての心を満たしたのは言うまでもない。
また、戦場で見たこと、体験したことなど、戦線の状況を記事にまとめて新聞社に送れば原稿料を得られるとわかったことも、大きな発見だった。家計がひっ迫する中、名をあげれば政界に進出するための足がかりにできるかもしれないという目論見もあったチャーチルにとっては魅力的な仕事に感じられた。これ以降、任務地となったインド、エジプトなどで、軍務のかたわら新聞に寄稿し、ジャーナリストとしての仕事に精を出していくこととなる。
少し横道にそれるが、キューバで得たものとして、忘れてはならないものが「葉巻」だ。後にチャーチルのトレードマークとなる葉巻のその香りと、煙をくゆらせる時間の贅沢さを知ったのも冒険の『戦利品』だった。

500キロの逃亡劇

1899年、チャーチルの人生を一歩先へと推し進める事件が発生する。同年春に陸軍を退官していたチャーチルは6月、初めて下院の補欠選挙に立候補した。結果は敗北に終わったものの、善戦したことに手ごたえを感じ、次のチャンスを求めていた。そんな折、帝国主義政策を積極的に推進していた英国は、植民地拡大の動きから第二次ボーア戦争に突入しようとしていた。
記者として一路南アフリカへ向かう船へと乗り込んだチャーチルだったが、現地で偵察部隊と行動をともにしていた際、敵の待ち伏せにあって捕虜として捉えられてしまったのだった。
プレトリア(現在の南アフリカ共和国の首都)にある収容所での軟禁された『何もしない』生活は、戦いに自ら身を投じる若者にとって暗黒と形容すべきものだった。どうにかしてここから抜け出さなければならない…! 脱走の2文字が頭に浮かんだチャーチルは、数人の仲間と策を講じ、瞬く間に実行した。運よく収容所を抜け出すことができたのはチャーチルひとり。貨物列車によじ登り、森に隠れ、線路を頼りにさまよい歩いてたどりついた炭鉱の町で、期せずして英国人と出会うことができた。
チャーチルの風貌、特長を記した指名手配書が公表され、捕らえた者には25ポンドの懸賞金(記者としての報酬が月250ポンドであったことを考えると、あまりに安いその額をチャーチルは不満に感じた)がかけられていたため、捜査の目をくぐりぬけられるよう、ポルトガル領だったモザンビークまでの手はずを整えてもらうこととなった。モザンビークを経てダーバンの港(現在の南アフリカ共和国クワズール・ナタール州にある)に到着すると、彼の脱出がすでに報じられていたことから、熱烈な歓迎を受けた。こうして500キロに及んだ逃亡劇は無事に幕を閉じた。
第二次ボーア戦争がひと段落した後、帰国の途に着いたチャーチルは、捕虜収容所から脱出した有名人としての肩書きを引っさげ、ランカシャーの工業都市オールダムから総選挙に出馬。見事、当選を果たした。いよいよ政治家として、かつて父が活躍したその舞台に立ったのである。

演説の名手も

即興は意外と苦手…?

生涯において数え切れないほどの演説を行ったチャーチル。人生初の演説は、レスター・スクエアのエンパイア・シアター(写真は1905年頃の様子を描いたもの。現在は映画館)だった。まだ仕官候補生だった彼は、同劇場を訪れると、劇場内で風紀上の問題から、バーと客席を隔てる壁が設けられたのを目の当たりにし、英国人の自由を求めて立ち上がった。成り行きで行われたこの演説は成功を収めたが、いつでも状況に合わせて即興のスピーチを行ったわけではない。
私的な会話では毒舌家として機転の利く話し手だったが、公の場での演説に際しては入念に準備した。優れた文才を発揮した彼は、名文句をちりばめた文章をしたため、ときには最後の最後まで原稿に赤を入れて演説原稿を完成させると、これを完璧なまでに暗記し、本番に挑んだ。こうして人の心を打ち、歴史に残るスピーチの数々が誕生した。

政治家としての出発

保守党議員として初登院した1901年(27歳)頃のチャーチル。
ヴィクトリア女王が崩御し、エドワード7世の治世が始まった1901年1月はチャーチルにとって政治家人生のスタートとなった。翌2月に下院への初登院を果たすと、その数日後、早速、処女演説の機会を得た。入念な準備をして臨んだ演説の評判は上々で、他の議員からは「父親の素晴らしい才能を受け継いでいる」との祝意が贈られた。この言葉にチャーチルは目頭を熱くした。
新人議員としてエネルギーにあふれたチャーチルは、閣僚らの意見に反することも恐れず自分の主張を展開すると、当時議題として上がっていた関税改革を巡って党内で孤立。保守党を離党することを決め、自由党員として臨んだ1906年の総選挙では、自由党が勝利を収めた。チャーチルは第一次世界大戦まで続く自由党政権下で、植民次官を経た後、1908年には、当時史上2番目の若さの33歳で商務長官を務め、出世の階段を登り始めていた。
多忙を極めたこの時期、チャーチルの私生活にも変化が起きていた。政治以外で彼の心を占めていたひとりの女性、クレメンタイン・ホーズィア(Clementine Hozier)との結婚だ。ふたりの母親が親しかったことから、互いに顔を合わせていたものの、奥手なチャーチルは11歳下の美しいクレメンタインをただ見つめるばかりで行動を起こすことはなかった。しかし、最初の出会いから4年後の1908年3月、晩餐の席で再会し、隣同士に座ったことで、ふたりの距離が急速に近づいていく。クレメンタインもチャーチルの「圧倒的な魅力と頭の良さ」に魅了され、8月にチャーチルが求婚したときには、即座にこれを受け入れた。そして9月にはウェストミンスターの聖マーガレット教会で挙式した。
幸せな結婚生活と平行し、政治家としてのキャリアも成功と呼べるものだった。1910年2月、35歳のときに内相に抜擢されると、健康、失業保険制度などを中心とした社会改革に力を入れ、翌年10月に海軍相に任命されるや、今度はドイツとの間で激しく繰り広げられていた建艦競争に情熱を注いだ。軍艦の建造だけでなく、海軍組織の全面的な変革など、目の前に山積した課題に突進していった。

大失策、ガリポリ上陸作戦

ストに対し容赦ない姿勢を見せたチャーチルは、内相時代の1910年、ウェールズの炭鉱の町トニイパンディでストが暴動化すると、いち早く軍隊を派遣し、待機させた。「軍事力行使もいとわない」というその言動に、批判が相次ぎ、彼の悪評が広まることとなった。© cornell.edu 1910-1911
1914年6月、オーストリア=ハンガリーの皇太子フランツ・フェルディナントがサラエボで暗殺されたのを発端に、第一次世界大戦が勃発した。ヨーロッパを覆う黒い闇に飛び込むか、とどまるべきか、英国は揺れていた。アイルランド問題を抱える英国としては、海外の問題に首を突っ込むよりも、国内の問題に集中すべきとの考えもあったからだ。そのような中でチャーチルは、熱烈に参戦を支持。閣議は連日開かれたが、少なくとも半分が、チャーチルの発言に費やされたほどの熱の入りようだった。英独間で結ばれていたベルギー中立条約を破り、ドイツがベルギーに侵攻したのをきっかけに、英国はようやく重い腰をあげた。
すぐに終戦を迎えると思われたこの戦いだったが、戦局は停滞。その間、チャーチルのキャリアに傷をつけることになる作戦を自ら実行に移した。トルコ西部で展開したガリポリ上陸作戦である。1915年、西部戦線が膠着状態にあったのを受け、戦局の打開を目指し計画されたものだったが、結果は、大惨事と呼ばれるほどの被害を出し、何の進展も得られないまま計画は失敗に終わる。作戦を推進したチャーチルは罷免、次に与えられた役職はランカスター公領尚書と呼ばれる、実際には重要な職務は与えられておらず、影響力を持たないポジションだった。それは事実上の失脚であった。引退を控えた政治家が置かれるような閑職を前に、自らその職を辞すことを決めた。

父が務めた最高の地位

父ランドルフが政治生命を絶たれたのが37歳だったことを考えると、40歳を迎えていたチャーチルはわずかに父の年齢を上回っており、もう終わりか…と諦めてもおかしくはなかった。事実、彼は気持ちが落ち込み、精神安定のために絵画を始めた。だが、第一次世界大戦も終盤を向かえた1917年、幸運にも軍需相として再び入閣を果たす。
戦後は、陸軍相および空軍相を兼任し、ロシア革命を阻止すべく反ソ干渉戦争を主導。次に植民相への転任を命じられると、中東とアイルランドに和平をもたらすという課題に取り組んだ。
1924年1月、労働党へと政権が移ると、反社会主義の立場を強めて保守党へと復党。秋には、保守党ボールドウィン内閣が誕生した。
選挙から数日後、新首相スタンリー・ボールドウィン(Stanley Baldwin)が、20年ぶりに保守党に復帰したチャーチルに対し、こう尋ねた。
「チャンセラーになる気はあるか」
チャンセラーとは蔵相(Chancellor of the Exchequer)のことを指すが、以前チャーチルが務めた閑職、ランカスター公領尚書(Chancellor of the Duchy of Lancaster)が同様にチャンセラーと呼ばれていたことから、またあの職が与えられると悟ったチャーチルは「尚書ですか」と聞き直した。ボールドウィンが「いやいや、蔵相だよ」と返答すると、チャーチルは人目もはばからず大粒の涙をこぼした。彼に用意された席は、亡き父が得た最高の地位だったのである。

政界の嫌われ者チャーチル

妻クレメンタイン=写真右=とチャーチルは、のちに5人の子供をもうける。結婚後しばらくロンドンで暮らしたが1921年に母ジェニーが転倒がもとで死亡し、三女のマリーゴールドが病死したことで、チャーチルは田舎での生活に癒しを求めて、翌年、ケントのチャートウェルに家を購入した。1922~24年にかけて3度の落選を経験したチャーチルは同地で絵画と執筆に没頭した。
蔵相チャーチルは、第一次世界大戦の勃発により中断されていた「金本位制復帰」に取り組む。もともと経済学の知識はなく、予算編成の経験もなかったことから、イングランド銀行や財務省内の経済専門家らの意見を元に金本位復帰を組み込んだ予算案を宣言した。このしわ寄せを真っ先に受けたのが石炭産業だった。
1926年5月、炭鉱夫組合は蔵相チャーチルを非難し、全国ストライキを断行。他の労働組合とも共同でストに乗り出し、バスや列車、新聞、電気、ガスなど、英国の公共機関は完全にストップした。チャーチルは保守党批判の矢面に立たされたが、ひるむことなく、労働者をまるで「敵」と見なすかのように立ち向かっていった。最終的に、労働組合が政府に屈する形で10日間に及んだストは終わりを告げた。
『勝利』をおさめた蔵相チャーチルだったが、不況が深まるにつれ、党内で孤立していく。チャーチルは他の省の仕事にも口を出し、「チャーチルが閣議に参加すると議事が予定通り進まない」という不満も閣内で聞かれるようになった。いつでも事が起こるのを好み、あわよくば自ら事を起こしかねない好戦的なチャーチルを危険分子と感じていた者もいた。彼の激しい性格は戦時にこそ必要なものの、戦後の日々には求められてはいなかったのだ。1929年に総選挙の実施が決まったが、選挙前、ボールドウィンは勝ったとしてもチャーチルを入閣させる意思はないともらしていた。結局、失業対策を訴えた労働党が勝利。2年後再び保守党に政権が戻るが、そこにチャーチルの居場所はなかった。
現在「もっとも偉大な政治家」として慕われるウィンストン・チャーチルが55歳を迎えた1929年、『嫌われ者』としての悪評が彼の全身にぴったりとはりつき、以後10年、要職に就くことはなかった。だが、歴史がチャーチルを必要とする日は刻一刻と近づいていた。

名言で知るチャーチル

軍人として歩み出した頃から熱心に本を読んでは歴史や政治を学び、文学の世界に足を踏み入れていったチャーチル。首相在任中の1953年にはノーベル文学賞を受賞するなど文才に恵まれ、数多くの書物を記した。彼の言葉からその人物像を探ってみたい。

© United Nations Information Office, New York,1942
Success is not final, failure is not fatal: it is the courage to continue that counts.
成功は終わりではなく、失敗は致命的ではない。大切なのは続ける勇気だ。

Attitude is a little thing that makes a big difference.
態度というのはちょっとしたものだが、大きな違いを生み出す。

I never worry about action, but only inaction.
行動を起こすことを恐れはしない。
恐れるのは、何もしないことだけだ。

You have enemies? Good. That means you've stood up for something, sometime in your life.
君には敵がいる? 良いことだ。
それは、人生において何かのために
立ち上がったことがあるという証だ。

I am fond of pigs. Dogs look up to us. Cats look down on us. Pigs treat us as equals.
私は豚が好きだ。
猫は人を見下し、犬は人に従う。
しかし、豚は人にこびることなく、自分と同等のものとして人を扱う。

Never, never, never give in!
絶対に屈服してはならない。
絶対に、絶対に、絶対に!

後編に続く…

週刊ジャーニー No.892(2015年7月30日)掲載