◆◆◆ 日本との再会 ◆◆◆


 

  1906年、父親の遺言通りリーチはロンドンで銀行勤めを始める。シティの香港上海銀行(The Hong Kong and Shanghai Bank)で、毎晩11時まで働く日々だったという。当時、リーチは19歳。慣れない仕事に加えて、従妹ミュリエルへの想いや中退した美術学校のことなど、あきらめきれないことばかりである。芸術家の多いチェルシー地区に下宿して美術のサークルに顔を出したり、ロバート・ルイス・スティーヴンソンやウォルター・ホイットマンの異国情緒あふれる作品を読み、どこか遠くの世界に思いを馳せるなど気晴らしはしてみるものの、リーチは精神的にどんどん追い詰められて行く。リーチ自身の言葉を借りると「まったく最悪の1年」だったようだ。そのうえ、父親の遺産はリーチが21歳に達するまで大嫌いな継母の管理下に置かれていた。だが我慢の限界に達したリーチはついに銀行を辞職し、北ウェールズへ向けた放浪の旅に出てしまう。
当時リーチが好んで読んでいた異国趣味的な小説の中に小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの著作があった。ハーンは放浪の末、日本に帰化し「小泉八雲」となったアイルランド出身の作家である。古きよき日本の姿が理想化された形で書かれた同書は、リーチの日本に対する興味をいたく刺激する。リーチは「私の他国人に対する同情、即ち非ヨーロッパ人、黒人、褐色人、或は黄色人種に対する私の同情が昴り出した。そして東洋に対する私の好奇心が育って来た。そこで私は日本の現状を知ろうとした…」とラフカディオ・ハーンから受けた影響について語っている。

《左》柳宗悦の民藝についての東洋的考察をまとめた 「The Unknown Craftsman」(1972)《右》陶工のバイブルと称される「A Potter's Book」(1972)
 「他国人に対する同情」とリーチは言うが、英国において彼は常に疎外感を感じ、他国人の目で西洋を眺めていたのではなかっただろうか。10歳まで東アジアで育ち、学校では「中国人」と呼ばれていたリーチ。自国にいながら常に居心地の悪い思いをしていた彼は、友人も南アフリカ人や、オーストラリア人など、外国人ばかりだった。 それに加え、当時の美術界にはジャポニズムの流行が押し寄せており、日本は一種の芸術的理想郷のような場所に考えられてもいた。4歳まで京都で育ったリーチが日本に対して特別な感情を抱いたとしても、不思議はないだろう。
銀行を辞めて放浪から戻ったリーチは、ロンドン美術学校(London School of Art)に通い始める。ここは2人の画家が主催する私立のアトリエのようなもので、留学生も学んでいた。その中に、のちに詩集『智恵子抄』で知られることになる、高村光太郎の姿があった。高村は教室でハーンを読んでいたリーチに声をかける。人生の中でそう幾つもない、重要な出会いの1つであろう。高村光太郎との出会いがきっかけで、リーチの日本への想いは、がぜん現実味を帯び始める。
同時に、リーチが21歳の成人を迎えたこともあり、遺産の管理が自らの手で行われるようになる。リーチが最初にしたことは、従姉ミュリエルへの求婚と、銅版画(エッチング)の印刷機の購入だった。彼は銅版画の技術を日本で教えながら、ミュリエルと結婚生活を送ろうと考えたのである。そしてリーチは全くその通り実行に移した。
リーチが再度プロポーズしたことで、ミュリエルの親も彼の真剣さを受け止め、最終的に2人の結婚を承諾。リーチが高村光太郎からの紹介状六通を手に、ドイツ船で日本へ向かったのは1909年、3月のことだった。
 

 

◆◇リーチの思想と宗教観
  バーナード・リーチは「英国でイエズス会系学校に通ううちに、カトリックへの興味どころか、キリスト教自体への興味も信仰心も失った」と後年述べているが、リーチはその長い生涯を通し、実にさまざまな宗教・哲学に興味を持ち、影響を受けている。
20代の時、英国の幻想的な詩人で画家であるウィリアム・ブレイク(1757-1827)に傾倒したが、ブレイクはその作品「天国と地獄の結婚」の中で、天国と地獄、精神と肉体、理性と感情、善と悪というあらゆる対立項目とされるものが、結局は表裏一体の関係であり、分離して存在することはありえないという立場をとっている。これは「二元的一元論」という、当時の西洋では珍しい立場であり、それゆえにブレイクはヨーロッパではまだまだ異端者扱いを受けていた。だがリーチが東洋と西洋の融合を目指すうえで、ブレイクの思想が大きな影響を与えたことは間違いない。リーチがその著『Potter's Book』の中に「東と西の結婚」という項目を設けていることからもわかる。
ちなみに、リーチは若き柳宗悦にウィリアム・ブレイクの作品を紹介した。感銘を受けた柳はブレイク研究に没頭。1914年には「ヰリアム・ブレーク」を著し、リーチに捧げている。また、ブレイクの思想はのちの日本民藝館設立の構想母体となったともいえる。
柳宗悦が「ヰリアム・ブレーク」を発表したのと同じ頃、リーチはアルフレッド・ウエストハープ(Alfred Westharp)という、中国で暮らすユダヤ系ドイツ人の考えに同調する。ウエストハープはイタリアの教育思想家マリア・モンテッソーリの思想と、孟子や孔子などの中国思想に傾倒している、謎の多い人物であった。中国へ渡ったリーチは「中庸」を読み、ウエストハープと議論を戦わせたという。
「中庸」の「中」とは、物事を判断する上でどちらにも偏らず、かつ単なる中間でもない。中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす、最高概念であるとされる。詳しい資料はないが、リーチはここでも「2つのものの間」という考えに支配されていたと思われる。
中国でリーチが行き詰まり、迷走している様子を知った柳宗悦は、「東西のあいだに橋をかけるよりも、東西間の隔たりという観念自体を取り払ってはどうなのか」とし、「きみが禅を知らずに日本を去ったのは残念だ」と手紙を送っている。リーチは高村光太郎の影響でロンドン時代から禅に興味を持っていたが、本格的に学ぶのは日本を去り英国へ戻ってからである。
そんなリーチが最終的に辿り着いた信仰としての宗教は、バハイ教であった。バハイ教とは19世紀半ばにイランでバハーウッラーによって創始された一神教で、「バハーイー」「バハウラ」などとも呼ばれる。「人類の平和と統一」を目標とし、男女平等や偏見の除去、教育の普及を始めとした教義をもつ。また、宗教の根源はひとつであるという考えから、他の宗教を否定しないのもバハイの特徴のひとつだ。
1940年頃、リーチにバハイ教を紹介したのは英ダーティントンに住む米国人画家、マーク・トビーだといわれている。リーチは、バハイの教えを制作に置ける態度にも転用し、やがて「自力と他力」というアイデアを生みだすに至る。リーチの宗教に対する態度は、常に作品制作と密接な関係を持っていたわけだ。