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◆◆◆ 「金色の午後」の終わり ◆◆◆

 

 1863年の6月頃まで、リデル家の3人姉妹とキャロルの関係は良好で、6月にもいつものようにピクニックに出かけ、キャロルの日記にもその時の楽しげな様子が記されている。しかし、その次のページはカミソリで切り取られ、次に姉妹に関する記述が出てくるのは半年後。しかも、街で偶然リデル姉妹とその母親に出会ったキャロルは「私は彼らに対し超然としていた」と記している。半年前のピクニックで何が起きたのか。肝心の日記が切り取られているため、詳細はわからない。これはキャロルの死後に日記を整理した親族(彼の義妹)が、一家のために公にしたくない事実があったため削除したと言われている。
だが、切り取られたページのためにドラマティックな憶測がなされ、キャロルが「アリスに交際を申し込んで断られた」説や「長女のロリーナに結婚を申し込んで断られた」説が囁かれている。この頃アリスは11歳、ロリーナは14歳である。現在の常識にしてみればあり得ない話だが、ヴィクトリア期の英国の法律では、14歳からの結婚が認められていた。おそらく真相は、婚期の近づいた娘たちがキャロルと会い続けることであらぬ噂を立てられ、結婚のチャンスを逃すことを恐れた母親が、これ以上子供たちと会わないでくれとキャロルに告げた、といったものではなかったかと考えられる。真実は往々にして想像よりも地味である。だがいずれにせよ、真相の程は分かっていない。こうしてキャロルとリデル姉妹との友情は終わりを迎えた。
この頃のキャロルは創作意欲旺盛な時期だったといえる。『不思議の国のアリス』の出版で、ラファエロ前派の画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイなど同時期のアーティストたちとも交わり、多くの影響を受けた。
授業があまりにも退屈で、学生の間からキャロル・ボイコット運動が出た程と伝えられるが、大学では教授として講義を続け、キャロルは数学の参考書『行列式初歩』を出版するほか、舞台の脚本を書くことにも興味を示した。これは彼が子役時代からファンだったという女優、エレン・テリーと知り合ったこととも関係があるだろう。彼女はキャロルの数少ない「成人した女性」の友人であった。彼は、テリーの大人になっても損なわれなかった純真な子供のような性格を愛したという。
そんな中、1868年にキャロルの父親、チャールズ・ドジソンが急死する。晩年はリポン大聖堂大執事という「高教会派」の重鎮となっていた父親の死は、キャロルにはひどいショックであった。父親を尊敬し、彼の足跡を辿っていたキャロルは後に、父親の死は「生涯最大の損失」であったと書いている。
さらに、長男であるキャロルはドジソン一家の跡取りであるため、父の亡き後家族を養う義務があった。当時36歳のキャロルを筆頭に十一人きょうだいのドジソン家は誰も結婚しておらず、また自活しているのはキャロルだけであった。当時彼が持っていたバークレイズ・バンクの口座は、家族や親戚関係のためにたびたび赤字を記録した。その上、彼は多くのチャリティ団体にも定期的な送金を行っていたという。
やがて1872年にアリスの冒険を描いた続編『鏡の国のアリス』が出版される。キャロルは本作の執筆に数年を費やした。ガイ・フォークスの前日、暖炉の上に掛けられた鏡を通り抜けて、またもや不思議な世界へ迷い込んだアリスを描き、ハンプティ・ダンプティなどの新たなキャラクターの登場する本作は、前作『不思議の国のアリス』に続く大ヒットとなった。
ヴィクトリア女王が人気作家となったキャロルに「あなたの著書を送って欲しい」と依頼したところ、本名であるチャールズ・ドジソン名義の数学本『行列式初歩』を受け取って驚いたという逸話も残っているが、真偽の程は定かではない。

 

◆◆◆ ロリコン伝説の誕生 ◆◆◆

 

 40代になったキャロルは自ら「老人」と名乗り、以前のように演劇鑑賞に出かけたり友人と議論を戦わせたりすることが少なくなった。180センチの細身の姿に白髪のまじったダーク・ヘアのキャロルは、年齢より若く見えるくらいだが、精神的に老成してしまった彼は、一人で歩く長い散歩を好んだ。距離にして毎日30キロ以上。冬でも決してコートを着ない彼は、やがてそれが原因で命をとられることになる。あれほど好きだった写真も、ある時期からパタリと撮影をやめてしまい、もともと細かい性格が更に気難しくなる。大学構内の彼の部屋に供される「3時のお茶」の湯加減や、昼食のタイミングなどに対するクレームの手紙が現存し、そこには子供相手に自作のナンセンスなストーリーを語る、チャーミングな青年の面影はない。

キャロル自身による肖像写真。1875年5月撮影
Courtesy of the National Museum of Photography, Film and Television, Bradford
 彼は著作に没頭するほか、オカルトやホメオパシー(体の自然治癒力を引き出す自然療法)の研究にも熱心に取り組み始める。やがて50歳を前に数学講師のポストも退き、「教授社交室主任」という一種の世話係へ転じた彼は、今後の人生を執筆活動一本に搾ろうと決意する。当時のヴィクトリア朝の平均寿命は40歳程度であり、キャロルが「今のうちに成さなければ」という心境になったとしても、不思議ではない。
ユークリッド幾何学に関する『ユークリッドと現代の好敵手たち』、詩集『ファンタズマゴリア』、キャロルの得意とする言葉遊びの本『タブレット』や『枕頭問題集』、そして長編としては最後の作品となる『シルヴィーとブルーノ』の執筆など、キャロルは精力的に著作活動を行う。『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』をもとにしたオペレッタの芝居の企画もあり、劇作家ヘンリー・サヴィル・クラーク(Henry Savile Clarke)の協力によって1886年にはロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ劇場で初演された。このオペレッタはその後約40年間にわたり、クリスマス・シーズンになると公開される馴染みの演目となる。
一方、数学者としての彼は、当時起きていた論理学に関する変化にも深い興味を抱いていた。それは、言葉の代わりに数学の演算規則をあてはめ、概念や観念を記号変換することで合理的に理解しようという思想だった。1896年『記号論理学』を著したキャロルは、これを自分の最も重要な作品と位置づけている。
だが、引き続き第2巻の執筆に取りかかった彼は、家族の住むギルフォード(Guildford)で風邪をこじらせ、気管支炎を併発。かねてから喘息気味ではあったものの、医師の勧めで運動器具を購入するなど健康に気遣っており、この年齢にしてはなかなか健康である、とのお墨付きも貰っていたキャロルだが、ペニシリンなどの抗生物質のないこの時代、肺炎は結核を上回る程の死亡率を持つ死に至る病だった。180センチの身長で体重65キロというやせ形のキャロルの体力では、この病に絶えることができなかったのだろう。
1898年1月14日、ルイス・キャロルは彼の愛する妹たちに囲まれて死去する。66歳になる2週間前だった。
実はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンこと、作家ルイス・キャロルの伝説は、彼の死後に生まれたといってもよい。生前も人気作家として活躍はしたが、彼の人物像を謎めいたイメージに変えたのは、20世紀に入り、ナボコフが『ロリータ』を著し、フロイトが『性理論』を唱え始めてからだった。ルイス・キャロルは20世紀前半のジャーナリストたちから「小児愛者」のレッテルを貼られ、フロイトの思想に基づいて『不思議の国のアリス』が解読された。「彼はロリータ・コンプレックスだった」というわけである。
もしルイス・キャロルが生きていてこれを知ったら、どんな反応を示すかは分からない。だが、以下のような言葉が残っている。
キャロルの晩年である1893年に、妹のメアリーがキャロルに向かい「少女たちと親しくするのは、世間の噂になるのではないか」と心配の手紙を送ったことがある。それに対するキャロルの返事は次のようなものだった。「人の目を気にしてばかりいると、人生は何もできないまま終っちゃうよ」。これは彼の毛嫌いした、偽善的なヴィクトリア朝の風潮に対する批判でもあるだろう。
女性の脚を連想させるからと、椅子の脚までが「わいせつ」とカバーをかけられ、それが転じて「足」という単語さえタブーになったというこの時代。その一方ではほんの10歳の子供が売春婦として街角に立っていた時代。それがルイス・キャロルの生きたヴィクトリア時代だった。もし彼をロリコンと呼ぶならば、ヴィクトリア時代の英国もまた同様の、あるいはさらに重症な『患者』としての呼び名を与えられなければ不公平ではないだろうか。

 「黙っておれ!」と 女王が言いました。
「いやよ!」とアリスが言いました。
「あなたたちなんて、ただのトランプじゃないの!」
(『不思議の国のアリス』
高橋康也/高橋迪訳から)