◆◆◆ 『不思議の国のアリス』の誕生 ◆◆◆

 


キャロル(右から3人目)とジョージ・マクドナルドの家族。1862年撮影
  リデル家の子供たちは、しばしばクライスト・チャーチ内のルイス・キャロルの自室を訪れている。そこには子供が大喜びしそうなオモチャや複雑な機械がところ狭しと並んでおり、薄暗くてまるで秘密の隠れ家のようだったという。子供たちはルイスが集めた撮影用の子供服、例えば物乞い風のボロボロのドレスや、ジプシー風の衣装、当時流行だったオリエンタルな小物などを自由に選び出し、キャロルの求めに応じてポーズをとった。天気の良い日ですら、屋外で1枚の写真を撮るのに45秒もかかる時代に、子供たちを一つのポーズのままでじっとさせておくのは、本来なら至難の技である。
だが、キャロルの子供に対する持ち前のサービス精神と、彼が即興で語る奇妙で愉快な物語に、彼らは退屈を感じず、リラックスして撮影に臨んだ。その結果、写真に残る子供たちの表情は当時としては意外な程に自然である。成長したアリス・リデルも、1932年にジャーナリストのインタビューに答えて、「ドジソンさん(ルイスの本名)の部屋の大きなソファに座って、皆でお話を聞くのは本当に楽しかった。写真も全然苦にならなかったし、お部屋へ行くのが楽しみでした」と語っている。
『不思議の国のアリス』の物語が生まれたのは1862年の7月4日、この頃子供たちが「ドジソンさん」と頻繁に行っていたピクニック先でのことだった。この日は、キャロルの大学の同僚で、歌のうまいロビンソン・ダックワース(Robinson Duckworth)も参加し、子供たちと共にテムズ川でのボート下りを楽しんだ。夏の日射しが水面に反射する、後にキャロルが「金色の午後」と形容した日であった。
舟の上でいつものようにアリスにお話をせがまれたキャロルは、懐中時計を手に大急ぎで走ってくるウサギの場面を語り始める。ボートを漕いでいたダックワースが振り返り、今即興で作った話なのかたずねると、キャロルは「そうなんだ。まず女の子をウサギの穴に落としてみたんだが、その後どうするか、続きは考えてなかったんだよ」。キャロルはよく即興で物語を作って彼らに話を聴かせていたが、自分と同じ名前の主人公が登場するその日のお話をとりわけ気に入ったアリスは、「私のために文字にして書いて」と頼んだという。
アリスのこの「お願い」がきっかけとなり、キャロルは翌日から物語を書き始めた。当初『地下の国のアリス』と名付けられたこの手書きの本は1863年2月10日に完成し、キャロル自身がイラストを付け、1864年11月26日にアリスに手渡された。
当時キャロルの知人で、彼が「師匠」とあおぐ詩人で聖職者のジョージ・マクドナルド(日本でも『リリス』などの妖精文学で知られる)からの勧めもあり、キャロルはこの手書きの本を正式に出版することを考え始める。マクドナルドの6歳になる息子も「この本は6万部くらい刷ったらいいね!」と大絶賛し、キャロルを勇気づけたという。
正式な出版を前にキャロルは文章に手を入れ、更にプロのイラストレーターを探した。子供の本にあって挿絵がどれ程重要か、キャロルは理解していたのだろう。1864年、人気風刺雑誌『パンチ』の編集者であるトム・テイラーの紹介で、キャロルはその雑誌の売れっ子イラストレーターとして活躍するジョン・テニエル(John Tenniel)と契約を結ぶ。テニエルは観察眼が鋭く、また動物の生態に関する知識も豊富に持ち合わせており、ウサギを始め、芋虫やヤマネ、ウミガメやドードー鳥などの動物がぞろぞろ出て来るキャロルの物語には適任だった。
キャロルとテニエルの間で交わされたはずの、当時の記録はほとんど現存しない。しかし、自分のイメージにこだわるキャロルは、しばしばテニエルのイラストに文句をつけ、出版にこぎ着けるまでに2人の仲はかなり険悪なものになっていたといわれる。本の出版費用はイラスト代も含め全てキャロル自身が負担することになっていたので、彼は出版社のマクミラン社に対しても妥協することはなかったのである。。


1898年発行版の『不思議の国のアリス』
1865年、『不思議の国のアリス』と改題されてオリジナルの二倍の長さに書き改められた物語がついに出版される。部数は2000冊。キャロルは早速友人や家族に配ってまわる。ところが、イラスト担当のテニエルから「待った」の声がかかる。出来上がりを見たテニエルは、挿絵の印刷が気に入らないというのだ。残された初版本を見ると、インクの盛り過ぎで字が裏面に透け、挿絵部分に重なっている。それが理由なのかはっきりとしたことは分からないままだが、キャロルは初版をすべて回収し、文字組みから全部やり直すことになった。その時のキャロルの日記には「今度の初版の2000部が全部売れたとしても200ポンドの損害。第2版の2000部が売れれば、300ポンドの費用で500ポンドが入るからそれで収支は合う。もっと売れたら利益が出るが、そんなことは無理だろう―」と憂鬱な文章が並んでいる。
それから3ヵ月後の1865年11月、名作『不思議の国のアリス』は無事出版され、好評を持って迎えられた。人気イラストレーターであるテニエルが挿絵を描いていることもあり、1867年までに1万部を売り上げ、1872年には3万5千部に達した。収支が合えばいいが、と気を揉んだルイス・キャロル自身もさぞ驚いたことだろう。
テニエルに差し止められた初版本の2000部は、1950部が未製本で紙の束のままだった、キャロルはこれを米国の出版社に売却。友人や家族に配った製本済みの50冊に関しては、キャロルは新しい版が出来た時に返却してもらっており、それはそのままロンドンなどの子供病院に寄付された。これらが後に大変な価値をもつことになったのは想像に難くない。一方、世界に一冊しかないキャロル自身による挿絵のついた手書きの『地下の国のアリス』は、1926年に夫を亡くした74歳のアリスによって売却された。そしてサザビーズのオークションで当時の史上最高額である1万5400ポンドで、米国のディーラーのもとへ渡る。だが、1948年には大英図書館に寄贈され、現在も同図書館に展示されている。

 

キャロルの宗教観 キャロルが11歳まで、牧師の父親から家庭内で教育を受けたことは本文でも述べた。子供の時に習った教え、それは抽象的な教義ではなく、日常の出来事に絡めた「悪いことをすると地獄に堕ちる」「神様はどんな時も、いつも私たちを見て下さっている」というような、幼い子供にもわかりやすいもの、または、聖書の読み聴かせであっただろう。キャロルの宗教観はここから出立しており、またここから発展することはなかったといわれる。オックスフォード大で特別研究生の地位を得たキャロルだが、実は生涯「聖職」の地位に就くことはなかった。これは彼の中で、「信仰心」と「論理的に考える」ことがどうしても一致せず、生徒に向かって教えを説くことが不可能だったからだという。当時はダーウィンが『種の起原』を発表したばかりであり、人間は神によって作られたという聖書の前提が大きく揺らいでいた。神の存在は疑わないが、ダーウィンの説に深い興味を抱くキャロルが、当時この2つを繋ぐラインを見つけられずにいたとしても無理はない。そんな風に迷うルイスは、自分には教える資格がないと考えていたようである。
自分が聖職に就き、他の人々に教えるなど神への冒涜だとして、ルイスは聖職義務の免除を学校側に訴える。本来なら聖職に就かない学生は研究生の特権的地位を失うはずだが、彼の悲鳴に近い度重なる嘆願は学長に聞き入られた。
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植民地主義や産業革命による貧富の差の拡大など、ヴィクトリア時代の英国は、成長期の社会に見られる弱者切り捨ての風潮が蔓延していた。その一方で、この時代の道徳観念は極端な程に厳しく、しばしば偽善的な様相を示したことでも知られる。ラグビー・スクール時代のひどいイジメや、オックスフォード大で遊ぶ傲慢な貴族の姿、そして植民地に対する英国の態度など、キャロルは権力を振りかざす者に対する嫌悪感を常に抱いていた。貧困状態にある女性や子供の保護、犯罪人の更生などに携わるチャリティ団体などに定期的な寄付を行い、その数は30を超えていたという。
また、キャロルは『鏡の国のアリス』の中で、7歳6ヵ月だというアリスに向かって、ハンプティ・ダンプティに「7歳でやめておけばよかったのに」と言わせている。キャロルにとっては、大人になることは「罪を犯す者になること」だったのではないだろうか。