Japan Journals Leaderboard
Japan Journals Leaderboard

 

 

 

写真の発明と流行
 世界で最初の写真は1827年、フランスの発明家ジョセフ・ニセフォール・ニエプスによって撮影されたが、これは明るい日光の下で8時間もの露出を必要としたという。だが1839年に鉄板写真といわれるダゲレオ・タイプの写真が発明されたことで、時間は大幅に短縮され、肖像写真の流行が起こる。19世紀後半の作家や音楽家の肖像写真などはほとんどこのタイプだといってよい。さらに複製写真の作れるカロ・タイプ、ガラス板を使ったネガのコロジオン法など次々と新しい技術が生みだされ、それと共に写真技術は一般にも広まっていく。
ルイス・キャロルが使用したのも、1850年代に主流となったこのコロジオン法の写真技術だった。色あせの少ない印画紙も開発され、以前より格段に繊細な空気や光なども表現できるこの技術は、風景写真や報道写真に適し、クリミア戦争の様子や植民地化した異国の風景などが驚きを持って人々に迎えられた。当時開国したばかりの日本もこの技術で撮影されている。この頃から自らカメラを購入する裕福なアマチュア写真家が登場する。ヴィクトリア女王とアルバート公も夢中になり、ウィンザー城に暗室を作らせた程だという。さらに、英国写真協会が設立され、第1回の展覧会が開催されたのは1853年だった。若いキャロルはまさに、新しい文化が生まれるところに立ち会った世代といえよう。キャロルがカメラを購入したのは1856年3月18日。前述の展覧会を見て刺激を受けた彼は、ロンドンで撮影機材一式を揃えている。
当時英国の美術界を牽引していたのはラファエロ前派だが、同時期の写真にも大きな影響を与えている。ガブリエル・ロセッティの描く憂いを含んだ女性の肖像を始め、理想の女性像や、移ろいやすい美を描いた彼らの作品は、露出時間の長さのために限られていた、当時の写真の構図にもヒントを与えた。キャロル自身、ガブリエル・ロセッティのお気に入りのモデルであるヘレーネ・バイヤーを撮影しているが、手すりに寄り物思いに耽る姿は、ラファエロ前派の作品を彷彿とさせる。

 

◆◆◆ 家族と離れて ◆◆◆

 


キャロルが撮影したリデル姉妹。右端がアリス。1859年撮影
  12歳になったキャロルは、クロフトから15キロ程離れた、規模は小さいが評判のよい私立の寄宿学校リッチモンド・グラマー・スクール(Richmond Grammar School)に入学する。住み慣れた家を離れ、リッチモンド校の校長宅に下宿した彼は、そこで2年間、総じて楽しい生活を送ったようだ。校長は若いルイス・キャロルに大変感心し、彼の父親に向けて「非常に優れた才能の持ち主である」こと、そしてルイスが「重要な問題には妥協しないが、小さな誤りには寛大である」と手紙を送っている。喜んだ父親がいつまでもその手紙を大事に保管しておいたことはいうまでもない。
その2年後、キャロルは英国で最も古い歴史を誇る私立寄宿学校のひとつ、ウォーリックシャーのラグビー・スクール(Rugby School)に入学。だが荒々しい校風を持つ同校での3年間は、もの静かで心優しいキャロルにとってはきわめて苦痛だった。寄宿舎での低学年の生徒へ向けたイジメや嫌がらせといったお決まりの慣習に苦しみ、野蛮な男子生徒たちを忌み嫌ったキャロルは、自分が高学年になってからは、幼い生徒たちを守るという保護監督者の役割に徹したという。沢山の弟や妹たちを持つ長男の彼には、それはおそらく自然な行為だったのだろう。キャロルがラグビー校を卒業した後も、彼の守護神ぶりはしばらく生徒たちの間で語り継がれていたという。
成績は優秀ながら、ここでの日々にうんざりしていたキャロルは、クロフトに住む家族に向けてたびたび長い手紙を送っている。だがそれは現状を嘆いたものではなく、自分の毎日を面白おかしく綴ったもので、読んで楽しいエンターテインメント色の強いものであった。また同時に、彼の妹や弟たちにも参加を要請した「家族雑誌」も発行する。それは身近なニュースや挿絵、そしてウィットに富んだ詩などで構成された、後の「ルイス・キャロル」の萌芽がみられるような内容だった。
1850年、キャロルは父親の母校であるオックスフォード大学のクライスト・チャーチに入学。当時のクライスト・チャーチは優秀な学生が学ぶ場である一方、裕福な貴族の息子たちが当主となる前の数年を費やす、娯楽場のような場所でもあった。彼らはギャンブルやキツネ狩りを楽しみ、勉学には全く興味を示さない享楽的な人種であり、キャロルのような学生たちとは一線を画していたといえる。
そして、キャロルの大学入学のわずか2日後、母親のフランシスが47歳の若さで病死する。髄膜炎か脳梗塞と思われる脳の疾患が原因であった。母親に関しての彼の記述は少なく、ルイス・キャロルと母親の絆はかなり希薄だったと思われる。それは決して母親に愛情がなかったり、キャロルが母親嫌いだったという証拠ではない。むしろキャロルは幼い頃から母親の愛情に飢え、常に彼女の関心を買おうとした。寄宿舎に暮らしながら家族に向けて長い手紙を書いていたのも、母親のことが頭にあったからだとさえいわれる。
だが、子供の多いドジソン家では、長男としてのキャロルの存在は地味なものであった。きょうだいたちの間では絶大な人気を誇るキャロルだが、母親にしてみれば、数多い子供の中の手のかからない一人として、溺愛の対象にはなり得なかったようである。さらに、ドジソン家の子供たちは吃音症のキャロルを含め全員が何らかの言語障害を持っており、彼の妹の中には自閉症めいた症状を持つ者もいた。そのため母親は彼らの世話に忙しく、現に幼い頃、キャロルの身の回りの世話をしていたのは、2番目の姉だったという。
このことは、『不思議の国のアリス』で、最終的に夢から覚めたアリスが「姉の膝の上」で目を覚ましたこと、さらに『不思議の国のアリス』、あるいはキャロルの最後の作品『シルヴィーとブルーノ』でも、成人した女性は「トランプの女王」や「皇后」など、いずれも規則に縛られた愚かな権力者として登場することなどから、母親の不在は彼の作品にも少なからず影響しているように思われる。