若くして手に入れた名声

 

 卒業後のターナーは、絵の題材を探して英国各地を旅した。マーゲイト、ブリストル、ワイト島など海辺が多いのは、海の持つダイナミックさとパワフルな自然に惹かれたためだ。1796年の「海の猟師たち」はそんな旅先でのスケッチを元にした初めての油絵で、批評家からも好意を持って迎えられた。満月の晩に漁船で沖にくり出した漁師たちが荒波にもまれている様子は、理想化された自然とも、あるがままの自然を写実するのとも趣を異にする、人間の矮小さと自然の偉大さ対比させた、サブライム(Sublime崇高)と呼ばれるロマンチックな観念を持った新しいタイプの風景画だった。「彼は自然を崇拝するが、その創造者である神については忘れている」とも評されたが、ターナーにとっては自然自体が神だったのかもしれない。翌年発表した2点も好評で、「モーニング・ポスト」紙には「光の使い方はレンブラントにも匹敵する」とまで讃えられる。22歳にしてターナーは早くも名声を手にしたのだ。



ターナーが21歳のときに描いた「海の猟師たち」(1796年)。
テート・ブリテン所蔵。

 しかし一方で、スケッチ旅行費の捻出などに必死だったターナーは、雑誌のために銅版画を作成したり、貴族の絵画コレクションの模写を請け負ったりと、人と交わらず酒の席も断って働く毎日だった。不慣れな絵画教室さえ開いたが、ターナー自身の作品を模写しろというだけで、あとはかなり適当だったらしい。日々もくもくと絵の制作に没頭しているうえに、粗野でぶっきらぼうな物言いが災いし、「カネ好きでケチ」という評判が立つこともあったという。
1799年、24歳でターナーは念願のロイヤル・アカデミーの準会員に選出される(9頁の自画像はこの時のもの)。同メンバーに選ばれることは、その分野で高い評価を得ている職業芸術家である証。アカデミーが年1回主催する展覧会にも、作品を出品できた。1769年に始まった当時からこの展覧会は絶大な人気を誇り、芸術家としての認知度を上げるためには重要なイベントだった。ターナーは会員に昇格するために、なるべくアカデミーの好むような作品を描いたといわれる。初期の作品が具象的で、歴史画やフランスの画家クロード・ロランのような神話的風景画を下敷きにした作品が多いのは、このためである。ちなみに、この展覧会は現在も続くロイヤル・アカデミーの「サマー・エキシビション」の原型である。
3年後の1802年にアカデミーの会員となり、順調に出世街道を邁進していくが、やがて他のアカデミー会員から、ターナーの態度が悪いと次々に文句が出始める。「Pugnacious」――つまり「けんかっ早い」のだという。あらゆる階級の人々に門戸を開いていたとはいえ、アカデミー会員は貴族やそれに準ずる裕福な家庭の出身者が大半を占めていた。そんな中で、生まれも育ちも下町の、高尚とは言い難い言葉遣いのターナーが浮いてしまうのは当然と言えば当然。若くて態度が悪いうえに才能があるとなっては、ベテランのアカデミー会員にとってターナーの存在が面白いはずがない。展覧会ではターナーの作品をわざと見にくい場所に展示するなど、会員たちが陰湿な嫌がらせをすることさえあった。だがもちろん、タフなターナーは彼らに対して黙ってはいなかったのである。
ターナーは反発してアカデミーを脱退することもなく、かといって丸くなって皆に迎合する訳でもなく、独自の距離を保ちながら、32歳の若さでアカデミーの遠近法の教授という地位を得た。最終的にアカデミー副会長にまでのぼりつめ、40年あまりもアカデミーに居座ることになる。

 



「カルタゴを建設するディド」(1815年)。
古代都市カルタゴを建国した女王ディドを主題にした歴史的風景画。
クロード・ロランの影響を強く受けているが、やはり太陽の効果は欠かせないようだ。
ナショナル・ギャラリー所蔵。

 

ターナーにいじめられた!?  風景画家 コンスタブル

ターナーと同時期の風景画家で、同じくロイヤル・アカデミー会員だったコンスタブル=左下=のことを、ターナーは毛嫌いしていたらしい。「結婚している画家なんて嫌いだね。画家は制作に没頭するべきなんだ。結婚していると、すぐ家庭がどうとか言って、描けない理由を家族のせいにするからな!」――。これはコンスタブルへの当てつけで言われたものだという。
2人は同じ時期にアカデミー付属学校で学んだ。しかしコンスタブルの絵はなかなか認められず、ターナーが27歳でアカデミー会員になったのに対し、コンスタブルは43歳でやっと準会員に、会員に昇格したのは53歳の時であった。だが、裕福な家庭に生まれたコンスタブルは、絵が売れなくても生活に困ることはなく、愛する妻と子供たちに囲まれて幸福に暮らした。しかも故郷を愛し、のどかな田園風景を詩情豊かに描くという、ターナーを『イライラ』させる要素を山ほど持っていたのである。また、本人がハンサムなのも腹立たしかった。
ある時、2人が同じスタジオで隣り合わせで作品を仕上げていた時、湖の部分にバーミリオン(橙色)を使っているコンスタブルに近寄ったターナーは、じっとその画面を眺めた後、自分の絵に戻り、灰色の空の部分にコンスタブルのそれよりずっと赤くて目立つ円を描くと、一言も言わずスタジオから出て行ったという。ターナーは子供っぽい競争心を隠そうとせず、ことあるごとにコンスタブルに意地悪をした。それだけ気になるライバルだったのかもしれない。
コンスタブルは1837年に死去しセント・ポール大聖堂に記念碑が設置されたが、気の毒なことに、その14年後に彼の傍らにやってきたのはターナーであった…。



コンスタブル作「ワイブンホー・パーク」(1816年)