3つの太陽が昇った日

 



米国ノースダコタ州で観察された幻日 © Gopherboy6956

 1775年4月23日、ロンドンの劇場街コベント・ガーデンのメイデン・レーン(Maiden Lane)21番地で床屋を営む、働き者のウィリアム・ターナーのもとに息子が生まれた。子供はその曾祖父と祖父と父の名を全部足した、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)と名付けられる。奇しくもこの日は文豪ウィリアム・シェークスピアの誕生日と同じであり、またイングランドを守護する聖ジョージの日でもあった。
さらに、ターナーの誕生4日目に、空に3つの太陽が昇ったという逸話もある。これは「幻日」という非常に珍しい大気光学現象の一つで、太陽と同じ高度に、しかも太陽から離れた位置に光が現れる現象のこと。雲の中に六角板状の氷晶が生じ、風が弱い場合に限り、氷晶に反射した太陽光によって現れるというが、この日は太陽を挟んで左右対称に出現したと伝えられる。生まれたばかりのターナーがこれを見たはずはないが、成人した彼が太陽の光や大気の動きに興味を抱いてこれらを描いたことや、死の間際に「太陽は神だ(The Sun is God.)」とつぶやいたこと(これは後世によるでっちあげである可能性が高いと言われているが)などと照らし合わせてみると、ターナーの将来はもうすでにこの時に決まっていたのかもしれない。
とはいうものの、ターナー自身はこのような不思議な伝説や逸話に彩られるようなタイプのミステリアスな人物ではない。取り立てて善行を行なった訳でも、徳を積んだ訳でもない、非常に人間臭い、労働者階級の、そして卓越した才能を持った市井の画家であり、それゆえに、英国を代表するアーティストとして今もこの国で愛されているのだといえる。
ターナーの生まれ育ったコベント・ガーデンは現在同様、パブやレストラン、劇場、野菜市場、賭け屋などが混在する、ロンドンきっての繁華街であり、劇場へ向かう紳士淑女、夜の街に立つ売春婦、スリなど、多様な人間が入り乱れた場所だった。父親の経営する床屋にも様々な階級の客が訪れた。客あしらいがうまく商売熱心な父のウィリアムは、店の壁に少年のターナーが描いたドローイングを何枚かピンで留め、「うちのせがれは将来絵描きになるんですよ」と客に吹聴し、1枚1~3シリングと値段までつけて販売していたという。「いい買い物をして何シリング節約した、という時を除いて、父親に誉められたことは一度もない」というターナーだが、父親との関係は良好で、父親が死ぬまで一緒に暮らした。
ターナーの父親は小柄でずんぐりした体型で活力に溢れ、赤ら顔で鷲鼻だったというが、これは晩年のターナーの姿そのままでもある。ターナーがスケッチ旅行に出掛けると、大工の親方に間違えられることがしばしばだったという。青年期の姿(前頁)とは少し印象が異なるが、ターナーの自画像が極端に少ないのは、彼が自分の容姿を好んでいなかったからだとも伝えられている。

 



右図は1812年にターナーが描いた父ウィリアム(67歳)の横顔、
左図は銅版画家のチャールズ・ターナーが1841年に制作したターナー(66歳)の肖像。

 

経験豊富な「できる学生」

 

 ターナーが絵に興味を持ったのは、おそらく寂しさをまぎらわすためだったと思われる。父親は忙しく、また精神を患っていた母親も息子の世話を十分にできなかったため、ターナーは10歳の頃に母方の実家に一時引き取られ、その後も親戚などの住まいを転々としなければならなかった。彼の人生に大きな影響を及ぼした母親についてはあらためて後述するが、温かな家庭とは縁遠い生活の中で、学校に行く道すがら壁に落書きしていたターナーは、やがて本格的に「絵描き」になることを考えはじめる。
さて、幼い息子が節約すると喜ぶような、堅実で現実的な父親が、我が子が画家になることに反対しなかったのは、現代では不思議に聞こえるかもしれない。だが、まだ写真技術が発明されていないこの時代において、画家は大工や床屋と同様、きちんと需要のある職業でもあった。そのため父親はターナーが美術に興味を持ったことを大いに喜び、当初から協力的だった。当時は現在のサマセット・ハウスにあったロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(王立芸術院)の教授が床屋に髪を切りにくれば、父親は決まって息子の話をし、壁に貼ったドローイングを示す。ターナーはそうした教授の一人をスポンサーに、1789年、弱冠14歳にしてロイヤル・アカデミーの付属学校に入学するのである。
しかしながら、これは幸運ではあったが驚くべきことではない。ターナーはこの歳までに、建築家のもとに弟子入りしてスケッチの仕事に携わると同時に、風景画家のもとでも修行を積んでいた。労働者階級の子弟に多い丁稚奉公による学習は、ターナーに英才教育ともいえる形で絵画の基礎力を身につけさせた。つまり付属学校に入学した時、すでに実地経験の豊富な『できる学生』であり、頭ひとつ抜きん出た存在となっていた訳である。

 

芝居の背景画で鍛えたセンス

 

 学校では歴史画の模写などを行っていたターナーだが、漠然と肖像画家になるのを夢見ていたという。貴族から依頼を受け、彼らの邸宅を出入りする肖像画家は画家の中でも花形であり、アーティストとして名を残せる可能性も高いジャンルだったからだろう。だが、肖像画家になるには、ターナーには決定的に欠けているものがあった。洗練された振る舞いや社交性である。下町育ちゆえの嗜好や短気な性格は、肖像画家には向かなかったのだ。もしもターナーが人好きのする、愛想の良い人物だったなら、貴族のパトロンの庇護を受ける「凡庸な肖像画家」として一生を終えていたかもしれず、人の一生は何が幸いするか分からない。
ターナーは付属学校に通いながら、オックスフォード・ストリートにある大衆劇場「パンテオン」で芝居の背景を描くアルバイトを始めた。メロドラマに相応しい、嵐で荒れる海や暴風雨の荒野の場面など、そこに描かれるドラマチックな風景は、その後のターナー自身の作品モチーフを彷彿とさせる。
ある時、この劇場が火事で炎に包まれているというニュースを聞いたターナーは、絵の具を持って駆けつけ、燃え続ける劇場をその場でスケッチした。その後10日間無断休学した彼は、やがて1点の水彩画を持って現れると、校内のエキシビションにそれを出品する。題は「パンテオン、火事の翌朝」。劇的で写実性に富み、しかも当世の出来事を描いた今までにない風景画だった。このあと彼が進む方向を指し示す作品といってよいであろう。ターナーは、自分が人物ではなく、火や水、風、岩といった自然や、廃墟のようなものに惹かれる傾向にあることに気づき始める。幸運なことに、この頃ちょうど水彩絵の具が大幅に改良され、発色も携帯性も現代のものに近くなってきており、風景のスケッチがより楽しめる時代が到来していた。そうした時代の流れは、彼の背を強く後押ししていく。

 



「パンテオン、火事の翌朝」(1792年)を水彩絵の具で描いたときのターナーは17歳。
同劇場でアルバイトをしていた。現在ここはマークス&スペンサーの
オックスフォード・ストリート・パンテオン店となっている。
テート・ブリテン所蔵。