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英国を揺るがした一大事件

 

 首相に就任して3年が過ぎようとしていたころ、失業率が示す数値は、紛れもない事実としてサッチャーの肩に重くのしかかっていた。解任までもささやかれる中の、1982年4月2日朝、英国中を揺るがす一大事件の報が英国民の耳に飛び込んできた。
「アルゼンチン、フォークランドに武力侵攻」。英国が南太平洋上で実効支配するフォークランド諸島の領有権を主張するアルゼンチンが、同諸島を取り戻そうと、突如部隊を派遣したのだ。
つい1週間前、国防省はひとつの軍事計画を提示していた。それは、アルゼンチンのフォークランド侵略を抑止する防衛計画。ところが、サッチャーは「アルゼンチンがまさかそんな愚かなことをするはずがない」と取り合わなかった。まさに青天の霹靂というべき事態が今、現実のものとして英国を襲ったのである。
サッチャーは間髪を入れずに軍隊の派遣を主張。党内には慎重論が多かったものの半ば強引にまとめ、武力行使に応戦する意向を示した。そして空母2隻を主力とする軍隊がフォークランドに向けて出動した。のちに「フォークランド紛争」と呼ばれる戦いである。
1ヵ月半が過ぎたころ、サッチャーのもとに一本の電話が入る。中立の立場にあった米国のロナルド・レーガン大統領からだった。
「アルゼンチンを武力で撃退する前に、話し合いの用意があることを示すべきではないだろうか。それが平和的解決の糸口だ」
するとサッチャーは、「アラスカが脅威にさらされたとき、同じことが言えますか?」と反論。その強い信念を誰に止められよう。「軍事力によって国境が書き換えられることがあってはならない」と、武力には屈しない姿勢で提案を跳ね返したのだ。
英国民にとって、はるか遠くに位置するこの諸島は、決してなじみのあるものではなかったが、日々伝えられる戦況に触れ、かつて大英帝国と称された誇りの、最後の断片をたぐり寄せるかのように、愛国心は高まりを見せていく。
そしてアルゼンチンのフォークランド上陸から約2ヵ月、アルゼンチンの降伏によってこの紛争に終止符が打たれた。
「Great Britain is great again.英国は再び偉大さを取り戻したのです」。この勝利は、フォークランド諸島を守り抜いたという事実以上のものを意味し、将来の見えない母国に不安を感じていた国民の心に大きな希望の光をともした。右肩下がりだった『冷血な女』の支持率は、祖国に自信を取り戻させた『英雄』として、急上昇するのだった。
翌年に行われた総選挙では、労働党に対し、前回の選挙を上回る圧倒的大差をつけて勝利。政権は2期目に突入し、サッチャーの世直し政策は勢いを増す。



良好な盟友関係を築いていたロナルド・レーガン米大統領と。
1984年、 米大統領別荘キャンプ・デーヴィッドにて。

 

夢を与えた大衆参加の資本主義

 

 首相就任直後から行われた国有企業の民営化も、引き続き実施されており、国民生活に大きな変化をもたらしていた。
新政権発足時に政府の管理下にあった企業の数は、放送や銀行などの公共性の高い企業のほかに、およそ50社。なかには、今では民営が当たり前と考えられるような、自動車メーカー「ロールスロイス」「ジャガー」なども含まれた。
国が運営する以上つぶれる心配はないといった安心感は、同時に就労者の意欲や向上心を低下させる。そう考えるサッチャーのもと、国有企業の民営化が次々と図られていった。
民間への移管は、政府の持ち株を一般大衆も対象に売却する形で行われた。つまり従業員も株を取得することが可能となり、業績が好転すれば配当金も受け取れるようになった結果、株主たる労働者の仕事に対する姿勢が変わったのは言うまでもない。
さらに政府が所有する資本の切り売りは、住宅分野にも適用された。低所得者に賃貸されていた公営住宅の大胆な払い下げが実施されたのだ。
階級社会の英国で、当時、家や株などの資本を持つということは、上流あるいは中流層の特権。そのため労働者層にとって、マイホームを持つということは、夢のまた夢と考えられていただけに、人生観に大きな変化を生じさせかねないほど革新的な政策だった。サッチャーは勤勉に励めば夢がつかめるということを示し、その夢は手頃な価格で手に入るよう配慮された。売却額は平均で相場の50%オフ。破格のものだった。
この政策を通し、一部の労働者層は、これまで手に届くはずなどないと思われた幸福をつかみ、財を手にする者も増えていった。サッチャーは、「労働者階級の革命家」とも称されるようになる。

 

Great Britain is
great again.
(英国は再び偉大さを取り戻したのです)

 



フォークランド紛争から帰港した空母「HMS Hermes」。
勝利を祝うため多くの市民がユニオン・ジャックを手にかけつけた。

 

労働組合との死闘

 

 労働組合が強大な力を有していたことも、英国経済と人々の勤労意欲にブレーキをかける原因のひとつだった。1970年代には毎年2000件以上のストライキが行われるような状況の中で、企業経営者の経営意欲は低下。好んで英国に投資する外国企業などあるはずもなく、サッチャー政権にとって労働組合の力を押さえ込むことは急務だった。
なかでも、やっかいな存在だったのは全国炭鉱労働組合(NUM: The aional Union of ineorkers)だ。石炭は国の重要なエネルギー資源であるため、彼らは政府の弱みを握っていたといっても過言ではない。当然、政府もしぶしぶ要求を呑まざるを得ない状況にあった。1973年にはストによるエネルギー不足のため、当時の政府が国民に「週3日労働」を宣言したこともあるほどだ。
そのNUMに、まるで宣戦布告をするかのようにサッチャーが打ち出した政策は、採算の取れなくなっていた鉱山20ヵ所を閉鎖し、合理化を図ることだった。もちろんNUMはだまっていない。1984年3月、無期限ストに突入した。政府にも劣らぬ権力を持っていたNUMは、サッチャー政権の打倒を目指し、政治闘争を激化させた。サッチャーにとって敗北はつまり、政権の終焉を意味し、結果次第では自身の進退も問われる状況となっていた。
当初は勢いのあったNUM。しかし、ストが長期化するにつれ、ストよりも雇用の確保という現実的な世論が強まり、次第に力を失っていく。これに対し、サッチャーは組合活動に規制を設けたほか、非常事態に備え、あらかじめエネルギー供給源を確保するなど、緻密な準備を行い、挑んでいく。最終的には政府の『作戦勝ち』で1年に及んだ闘いは幕を閉じた。
以降、労働組合によるストは減り、組合の攻勢の中で萎縮していた企業経営も活動意欲を見せ、健全さを取り戻していくこととなる。
一方、炭鉱の町では、「私の家族は、あの女に殺された」と、今も根に持つ人も少なくない。仕事を奪ったばかりか、町に暮らす若者の希望の芽を摘み取ったと嘆く人もいる。職を失い途方にくれる人々にとって、『鉄の女』がもたらした政策は非情かつ冷徹。弱者を踏み潰したと、恨みを募らせていった。サッチャーの毅然とした態度は、「そんなことなど構うものですか」という印象を与え、ますます嫌われていくようになる。
このように、サッチャーが求めた国民の意識改革は、すべての人を幸せにしたわけではなかった。見方によっては、弱者を支えた福祉制度を壊し、自由という名の競争社会で強者をより強くしたと捉えられ、さらなる格差につながったといわれている。またコミュニティの崩壊により、周りと協力し合った時代は過ぎ去り、代わって訪れたのは、自由競争社会の中で、自分さえ良ければいいという自己中心的な社会と指摘する人もいる。



産業の活性化を目指し、英国企業の売り込みや、外国企業の英国誘致を先頭に立って行ったサッチャー。
日本の自動車産業にも目をつけ、1986年9月に日産自動車が進出するに至った。
英国日産本社の開所式に訪れ、発展を祈った。© PA

 

割れるサッチャリズムへの評価
 サッチャーが行った「ビッグバン」と呼ばれる一連の金融自由化政策により、外国の資本が多く流入することになった英国。世界中から資金が集まり、なかでもロンドンは世界最大級の金融都市に発展したことで、サッチャーの政策は一定の評価を得てきた。しかし2007年に起きた世界金融危機は、英国金融業界にも深刻な影響を及ぼした。脆弱さが露呈し、サッチャリズムの重大な欠陥として表面化している。
また製造業から金融業などのサービス業へと重点がシフトしたため、国内の産業が空洞化する結果となった事実は長年指摘されていることである。