救世主か、破壊者か―。鉄の女マーガレット・サッチャー《後編》
『鉄の女』と呼ばれた英元首相マーガレット・サッチャーが今春この世を去った。英国病と嘆かれたこの国を、妥協を許さない救国の意志で率いて、復活への道筋を示した。逝去してもなお、賞賛と激しい憎悪を同時に受ける稀有な女性の人生を前回に引き続き探ってみたい 。
●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部
【前編より】
1925年、マーガレット・サッチャーは小さな田舎町で食料雑貨店を営む一家に生まれた。勤勉な父のもと、運命に導かれるようにして政治の世界に強い関心を抱き、24歳で国政に打って出るチャンスを手にするが落選。結婚、出産を経ても政治に対する思いは日ごとに募り、夫デニスの強力なサポートを得て、国会議員初当選を果たす。確固たる信念で政策を推し進める姿は党内でも支持を集めて党首となり、1979年の総選挙に勝利。英国史上初の女性首相となった。しかし彼女の前に立ちはだかるのは、人々の夢や希望をつぶしてしまうような英国の惨状だった――。
英国に立ち込める暗雲
テレビ画面の中で病院職員は平然とした様子でコメントしていた。
「賃上げ要求が通らなければ、患者が死んだとしてもしょうがない」
マーガレット・サッチャーが首相に就任する半年前の1978年末から79年初頭にかけて英国を激しく揺さぶった「不満の冬(Winter of Discontent)」。労働組合による一連のストライキによって、道路や下水道掃除などの公共サービスは機能せず、通りには回収されないゴミが積み上げられ、異臭を放つこともあった。医療関係者にまで及んだストの様子がテレビに映し出され、人々の心を暗くした。
この社会背景には、戦後に始まった「ゆりかごから墓場まで」をうたう手厚い福祉政策があった。労働党政権が中心となり、平等に福祉の行き届いた理想の社会を実現しようと躍起になった挙句の大盤振る舞い。主要産業が国有化されていたことも相まって、国民の勤労意欲は削がれ、国に依存する体質は人々を蝕んでいた。理想と現実はかけ離れ、サッチャー新政権発足時の財政は逼迫していた。歳出の肥大化、国際競争力の著しい低下、貿易収支の大幅な赤字。経済成長率はヨーロッパの中でも最低水準にあった。追い討ちをかけたのは、1973年の石油危機を受けた物価の上昇だ。失業率がじわじわと高まる中、さらなる石油危機が、首相就任と時を同じくして国を襲っていた。国内に立ち込める暗雲は黒く、しかも切れることが不可能と思えるほど厚かった。
大英帝国の落日、ヨーロッパの病人、英国病…。国外からも数々の言葉でさげすまれていた母国を立ち直らせるチャンスを手にした新首相マーガレット・サッチャーだったが、その前には取り組むべき課題が文字通り山積していた。
経済は手段、狙いは意識革命
「サッチャリズム」と呼ばれる一連の政策は、「金融の引き締め」による物価上昇の収束、「税制改革」「規制緩和」「一般大衆参加の資本主義の導入」による企業活動の自由化と推進、経済全般の活性化を図ったことが中心にあげられる。英国の威信を取り戻そうと、多くの経済政策に着手するのだが、サッチャーが主眼を置いたのは、ぬるま湯に浸かりきった国民の依存体質を改めさせるという意識改革だった。
彼女の脳裏には、いつも離れないひとつの言葉があった。それはオックスフォード大在学中に開催された選挙集会でのこと。ひとりの年配男性がこう指摘したのだ。
「私が自分のお金を少しばかり貯金したからというだけの理由で、『生活保護』はもらえなくなる。もし、このお金を全部使ってしまったら、もらえるのに」
これは政治家に突きつけられる福祉制度の大きな問題点だった。健康上の理由から国がサポートしなければならない人がいるのは確かだ。しかし一方で、十分働けるにもかかわらず福祉に依存する人々を野放しにしてはならない。努力し、向上しようという人が評価される社会でなければ国は発展しない。幼い頃から自助努力に徹する父の姿を見ながら勉学に励んできたサッチャーがそう感じるのは当然だろう。彼女の信念は、就任後すぐに行った税制改革に色濃く表れている。
当時の税の仕組みは、所得税率が高く、真面目に働く人々の税負担によって、福祉に依存する人々を支えているような状況だった。上昇志向のある人でさえ、「給料が税金に消えるなら、一生懸命働く意味などない」という考えに至るのは仕方のないこと。サッチャーはすぐさま所得税を減税し、勤労意欲を呼び起こすためのキャンペーンを展開する。1979年に33%だった基本所得税率は、1980年に30%に、翌年以降も段階的に引き下げられていく(1988年には25%となる)。
このとき同時に、付加価値税を上げることも決定されている。一般税率8%、贅沢品税率12・5%のところを一律15%と増税。財政赤字を減らすため、収入の有無にかかわらず広く国民に税負担を強いる道を選んだのだ。
ところが、サッチャー政権は途端に支持率を落とすこととなる。付加価値税の引き上げが、所得の低い人には不利に、逆に富裕層を優遇する税制であるように受け止められたからだ。
メディアのみならず、党内からは中止を求める声が上がるが、どんなに不人気の政策であろうと自分の信念を曲げない強気のサッチャー。その姿勢は、極端な言い方をするならば「働かざる者、食うべからず」という冷酷な印象さえ与え、国民の中の反発感情を煽る結果となった。
また、異常なほどの高騰を見せていた物価は、金融財政の引き締めによって落ち着きを取り戻すきざしを見せていたものの、代わって深刻な不況を招く結果となったことも支持を落とした原因のひとつだ。政権発足後、2年連続で経済成長はマイナスを記録。大企業の人員削減、中小企業の倒産に伴い、職を追われた人も多く、1980年に160万人だった失業者は、翌年には250万人に急増。さらに1983年には300万人を超えるに至った。
「大きな政府」から「小さな政府」へ
サッチャーが実施した政策のコンセプトは「小さな政府」、新自由主義とも呼ばれるものである。これは、政府の権限や役割を大きくし、経済活動を政府の管理の下に行う「大きな政府」に対して、経済の動向を市場にゆだね、役割を最小限にとどめた政府のこと。政府の役割を肥大化させる高福祉を抑制し、規制緩和や国有企業の民営化によって、民間企業が自由に活動できる場をつくり、それにより経済を活性化することを目指した。