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政治への断ちがたい思い

マーガレットが出産、育児、弁護士資格取得に励んだ1950年代は女性の地位に変化が訪れた時期だった。1952年には、エリザベス2世が即位し、新女王時代の幕開けとともに女性の活躍に広く関心が寄せられるようになっていく。マーガレットは選挙で破れはしていたものの、新聞に取り上げられることもあった。
政治の世界に戻りたいというマーガレットの気持ちは日に日に高まり、再び出馬を目指し、選挙区を探して奔走するのだった。
「2人の子供を抱えながら議員としての職務を果たせるのか?」
立候補者選考委員からの懐疑的な目が、マーガレットに降り注いだ。彼女自身もそういった質問は、候補者に向けられるべきふさわしいものだと理解していた。ただ、一部の批判のかげには、女性は政界に足を踏み入れるべきではないといった女性軽視の考え方があったことは、マーガレットを落胆させた。

しかし差別的な考えはくじけるに値しない。マーガレットには「私には政治に寄与できる何かがある」という自負があった。行うべきは、子を持つ母でも政治家としての職務をまっとうするのがいかに可能であるかを主張し、説得を重ねること。マーガレットには最強の味方がすぐ側にいたことも幸いした。夫デニスも妻の可能性を確信していたのだ。
こうして1959年、ロンドン北部のフィンチリー選挙区から出馬。3度目にして初の当選を果たし、ようやく政治家としての一歩を踏み出す。34歳のときのことだ。

政治家は誰でも苦しい経験を覚悟しなければならない。
それでつぶれてしまう政治家もいるが、かえって強くなる者もいる

ミルク泥棒

昨年公開された映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』をご覧になられた方も多いだろう。メリル・ストリープ扮するマーガレット・サッチャーが牛乳を買いに行くシーンでストーリーは始まる。老いた彼女が、牛乳の価格が上がったことに不満を漏らすのだ。それは、マーガレットが地に足のついた主婦としての経済観念を胸に政策に取り組んだことを象徴しているが、一方で彼女の行った政策に対する皮肉のようでもある。
それは、のちに「サッチャーはミルク・スナッチャー(snatcher=泥棒)」と語呂のいい文句で揶揄される原因となった政策である。

1970年6月に行われた選挙で、保守党が労働党から政権を奪うと、エドワード・ヒース内閣のもと、マーガレットは教育相に任命されていた。議員生活11年目の大抜擢だ。教育費の削減を期待される一方で、現場からは教育の充実、強化を求められていた。
財務省が示した教育分野の経費削減案は、図書館利用、給食、牛乳配布の有料化など。幼い頃から図書館を訪れては本に親しみ、多くを学んできた自身の経験から、本を無料で貸し出すのは教育面できわめて重要なこと。図書館の有料化はどうにかして避けたい事項だった。
かたや、戦後に開始された児童への牛乳無料配布については検討の余地があるように感じられた。「個人が節約し、努力すれば、無駄は減らせる」。これは幼いときから受けてきた父の教えであり、今となってはマーガレットの信念でもある。かといって、すべてやめてしまっては、反発も多いだろうと考えた彼女は、無料配布を6歳以下に限定し、給食費を値上げする案を打ち出す。もちろん、健康上の理由から牛乳を必要としている児童であれば、7歳以上でも無料で受け取ることができるという条件も設けていた。
しかしマーガレットが国民に求めた『個人の節約』という理想が人々に受け入れられるのは、想像以上に困難だったようだ。「ミルク・スナッチャー」さらには「児童虐待」と非難を浴びることとなる。自らが愛するふたりの子供を育てる母親としての顔を持つ一方で、世間が描きだしたイメージは「子供たちの健康をないがしろにする非情な女性」。そんな心ない言葉に傷つかぬ母親がどこにいるだろうか。マーガレットは深い悲しみにくれた。

1959年に初当選を果たしたころのマーガレット。1953年8月に生まれていた双子のマーク(右)、キャロル(左)は当時6歳。© PA

教育相に就任してからの半年は、厳しい期間だった。自らが描く理想の社会と、やるべきことは断固やりぬくという彼女自身のスタイルを持っていたものの、日ごとに増すマスコミからの批判と、野党労働党からの執拗な攻撃に、マーガレットは憔悴していた。
弱った妻の様子に「そんなにつらいなら、辞めてもいいんだよ」とやさしく声をかけるデニス。夫の存在を支えに、「私にはまだ多くのやらなければならないことがある」と自分を奮い立たせたのだった。
「政治家は誰でも苦しい経験を覚悟しなければならない。それでつぶれてしまう政治家もいるが、かえって強くなる者もいる」。そう自分に言い聞かせ、信念をより強固なものにし、毅然とした態度で挑んでいった。そしてその言葉通り、攻撃や障害に遭うたびに、政治家としてひと回り、またひと回りとたくましく成長するのだった。